人間の性(さが)に近い、四つ足動物を食べると、まず人体の現象として血が汚れる現象が起こります。次に霊的には、霊的神性が曇らされ、「見通し」が利かなくなり、正しい判断と、思考力が鈍り、衰運を招くという現実が起こります。
では、衰運とは一体何でしょうか。
一般に衰運といえば、運気が衰えることを言い、その衰えの結果、やる事なす事がうまくいかず、何をしても失敗し、あるいは不慮の事故で怪我をしたり、病気になったと言う、生活の営みを指すようです。
ところがその衰運の根本は、こうした事象に現われる結果論ばかりでなく、結果は既に、次の原因を創り出しているという現実があるのです。
繰り返しますが、「肉喰った報い」という結果があります。
この結果は、動物の肉や乳製品を食べ、その有害動蛋白が血液を汚し、赤血球を異常変性させて体細胞を狂わせたというだけに止まらないのです。
血の汚れは、罪穢れと「穢れ」であり、既に要因因子として、人間の性と同じ食物を食べる「兇いメグリ」の次の原因が、結果から発生しているのです。
結果が原因をつくるという「メグリ構造」が機能し始めているのです。
哺乳動物は人間の性に、非常に近いと言います。だから人間が、これを食べれば、共食いということになります。
何故、共食いなのでしょうか。
それは時に、例外として、本来人間の魂のはずが、動物として入れ替わっていることがあるからです。人間に入るはずの魂が、輪廻転生の際、臨終(りんじゅう)に失敗して、人間が動物をやっているというような場合です。
神霊学から言うと、人間に入るべき魂が、牛や豚の躰を借りて、人間が牛や豚をやっているという場合、これを殺して食べるというのは、まさに共食いとなります。ここに殺される側の恨みが生まれ、食べられる無念が残るのです。この感覚は、殺人などで、殺される時と、まったく同じ感覚であり、物をとられた挙句に殺される強盗殺人や、散々タライ回しにされて、犯された挙句、殺されてしまう輪姦殺人や、強姦殺人の恐怖と無念に満ちた、想像を絶する悲壮な念です。
これを人間の肉体で表現すれば、殺され、食べられるという無念は、如何程の想像を絶する思いでしょうか。
この無念が、必然的に人間に「災い」を齎し、霊的神性が曇らされ、病に冒された難病・奇病の悩める獣性を背負うことになるのです。
「動物には仏性があるか」
これは古くから使い古された言葉です。
動物には仏性が無い、と仏教関係者は言います。ところが動物に仏性がなくとも、その性は同じなので、殺される時の断末魔は、人間と同じ意識に帰着します。動物の性は、獣性であろうとも、これは人間のそれと酷似しています。
この獣性が、一方で抗争や戦争を巻き起こし、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵を現世に出現してしまうという現象が起こります。
人間が食する「食の世界」は、単に人間の健康や、運を左右するばかりでなく、これが集団化すれば、紛争に発展したり、更には大戦争となり、国家や世界の健全な姿すら失って、天地大自然にまで悪影響を及ぼすという大惨事を引き起こすのです。
人間に与えられた食べ物以外を口にすると、小は個人から、大は国家に至る問題にまでに発展し、「食の世界」が根本原因になって、事象として具現することは明白です。
食物は、等しく「恵み」によって、その根本がなされています。
その根本には「日の恵み」「月の恵み」「土の恵み」が関与していのです。そして人間が食べる食物は、こうした三者が一体となって構成した、「食の世界」を頂いているということになるのです。
食前の感謝の祈りである「頂きます」は、これを如実に現わしています。
こうした日本古来よりの、大地への祈りを忘れた現代の日本人は、今、飽食や美食に明け暮れ、ことごとく食物の恵みを忘れ、無感動のまま、三食三昧に明け暮れているというのが実情です。
否、今日においては、一日に三食三昧どころか、四食三昧、五食三昧に迫る傲慢があります。そしてこの傲慢が、現代人に難病・奇病を齎したといえるのではないでしょうか。
また、こうした病的社会が、様々な公害問題を山積みさせて、決定的な有効手段も見い出せないまま、じり貧状態に陥れているのではないでしょうか。
じりじりと自己崩壊に向かっているこの事実は、かくも疑う余地がありません。
今日の食糧問題を考えた場合、地球上の約60億近くの人類の食糧を賄うには、現存の穀物の約半分の量で済む事は、食糧・統計調査からも十分可能でると、報告されています。
ところが「持てる者」と「持たざる者」の格差は、大きな隔たりを見せ食生活にもその差が出始めました。
「持てる者」は高級な食材のみを欲しがり、肉食主義をはじめますと、家畜の餌量が、一頭の牛を育てるのに、十倍の飼料消費が行われているという、手間のかかる作業が加わります。当然、60億の人間を養う穀物は、人間の食糧消費を上回る、十倍の穀物が家畜の胃袋に収まります。
一頭の牛を育てるのには、十倍の穀物が必要であり、また一匹の高級ハナチを育てるのには、十倍相当量のイワシが必要になります。そして人間は、こうしたものを飼育するために、十倍のエネルギーと、十倍の徒労と、十倍の多忙を繰り返します。
また、こうした現実は、現実問題として、アメリカの大地を痩せさせ、一方、養殖魚場においては、喰い残された餌が海を汚染しています。
今、人間はこうした現実問題を山積みにしたまま、飽食や美食に明け暮れ、一方で畜産や養殖の生産者達は、徒労と多忙に追われるという皮肉な現実が出現しています。
食糧問題を考えた場合、人口が爆発して殖えようとも、穀物菜食主義に徹している限り、穀物消費量を増大させる動物を飼育しなければ、おおよそ半分から三分の二の食物で足りる状態になっています。
ところが、こうした食糧バランスにおいて、「持てる者」と「持たざる者」の格差から、貧富の差が生じると、一方は多額の金を払っても、旨い物が食べたいと言う美食家と、一方は家畜の餌すら、食べられないと言う極貧の貧乏人との格差が生じます。
そして美食家に焦点が当てられた場合、大地を痩せさせても、あるいは海を汚染させても、旨い物が食べたいという不公平が生じてくのです。 |
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