今日一日の、またとないよき日
 人はみな、不憫(ふびん)であると、よく言われます。
 人間界に、人間として生まれ出て、生きて行かねばならないと言うこと事態で、それは、そもそも不憫ではないのでしょうか。

 そして不憫なるが故に、保身をはかり、自分と、自分の家族だけは倖(しあわせ)で、健康でありたいと、小さな願いを抱きます。しかしこれは決して悪い事ではありません。
 むしろ、人間としての人情から言えば、自分が大黒柱としての役目が担わされているのであれば、当然の道理といえましょう。

 ところが、本当の倖はこうした中には存在しません。
 もともと個人主義やマイホーム主義に、倖などあろうはずがありません。小さな倖は、一旦社会に放り出されますと、ひとたまりもないのです。
 その証拠に、皮肉にも、政治家やキャリア官僚は「保身の元祖」であり、マイホーム主義は家長崩壊により、「家庭内暴力の元祖」となりえました。

 本当の倖に至る門は、もっと狭く、もっと遠く、もっと苦しく、辛いものです。そして努力を必要とします。
 苦しみを喜んで迎え、病気になれば有難い、と感ずるところに倖の門扉は開かれています。

 しかしこうした本当の倖に、巡り会う事なく、多くは目先の倖、自分だけの倖、家族間の小さな倖のために奔走します。
 かくして多くは、苦難を倖の門扉とは思わず、昨日の悔いを今日に持ち越し、今日の影法師を引き摺って、明日の憂いに持ち越す人に成り下がります。

 人は、誰でも安易に「やれば出来る」と言います。しかし「今日やれなかった」ことが、果たして、明日出来るのでしょうか。
 「やれば出来る」とは、「やらない者」の希望的観測に過ぎません。
 今日一日は、今日一日でしかありません。二度と巡ってこない今日一日です。その今日一日のうちに、「やれば出来る」と念じて、やれなかった場合、それは明日への持ち越しても、やれる分けがないのです。

 今日とは、「メグリ」によって現われた、またとない、今日一日の「よき日」であり、昨日は過ぎ去った今日であり、また明日は近づきつつある今日です。今日を除いて、今日一日の人生はないのです。現世に生きる人間は「今」という現在しか認識できないのです。

 人の一生は、常に今日一日の連続です。
 今日を生きる事が、すなわち人生を生きることなのです。
 不憫に埋もれていては、今日一日が憂鬱になります。憂鬱が厭(いや)であれば、今日一日を、またとない倖な一生一度の今日として、真剣に生きなければなりません。

 今日が吉日か、厄日かは、九星早見表をめくって定めるものではありません。
 今日を吉日にするか、厄日にするかは、自分自身の心掛け次第です。
 一日は「今」の集積であり、人生は一日の連続です。「今」を失う人は、今日一日を失う人であり、今日一日を失う人は、自らの人生をも失う人です。

 そして保身の心は「時は金なり」という諌言を生み出しました。
 時間は大切な資源だからです。
 大切な資源だからこそ、それは金銭に匹敵すると言われます。この言葉には、千鈞の重みであり、これもまた事実です。
 しかし金は、取り返せます。一方、時は再び巡って来ることはありません。
 この戻る事の無い、今日一日を、どう使うかは、あなた個人に委ねられます。

 「光陰矢の如し」と言います。
 今日という日は、またとないよき日です。チャンスはこの、今日という、この一日に存在します。今日を蔑ろにすることは、生涯を蔑ろにすることに他なりません。今日一日の「今日」は、今日でしか味わえないのです。
 あなたは、今日のチャンスに、折角、宝の山に踏み入りながら、手ぶらで引き返してくる人生を選択するのでしょうか。
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