今、宗教が、急速な早さで終焉(しゅうえん)の時代を迎えようとしています。
こうした経緯に至った原因は、ユダヤ教をベースにして誕生したキリスト教は、中世の時代において、解釈のし過ぎと、偏りによって、本来とは異なったものに変形し、ルター(Martin Luther/ドイツの宗教改革者で、ローマに使して教皇制度の不合理を知り、1517年免罪符濫売を憤ってこれに対する抗議書95ヵ条を公表)の宗教改革を必要とした事は歴史の中で明白になっていますし、仏教においても、釈尊の単純素朴な、そして明解論理の中にも、深い哲学を秘めた初期の教えは、以後の弟子達の解釈学によって破壊され、論理は難解で複雑になり、インテリ階級の議論材料となって、今日ではどの宗派も墜落の様相を見せ始めました。
前者は結婚式屋とクリスマス屋に成り下がり、後者は葬式屋と墓地販売の不動産屋に成り下がっています。
そして神道然りです。
多くの神社は、今や悪魔の棲家(すみか)となり、神々は去って、代わりに欲望深き人間の怨念が巨大な塊となって神域を傍若無人に往来しています。
神道系、仏教系の新興宗教とて、同様であり、単なる宗教の名をダシにした、信者の金銭回収のために集金システムでしかありません。
こうした墜落したものが、初期の時より、大きく発展することは、ありえず、墜落し、終焉を迎えるのは当然な結果だと言えましょう。
今、人々に求められるものは、宗教ではなく、「吉」の実現であり、それは幸運であり、盛運であり、上昇運であり、発展であり、進歩であり、成功であり、実現であり、そして病める躰の病気からの恢復の、「健康」という言葉に尽きるようです。
人間の愚かさや、賢明さを洞察していきますと、そこから推測できることは、今のこうした状態が、後世の人間によって、今起こっていることが、そっくりそのまま、演じられるという事実です。
ここに「歴史は繰り返す」と言う言葉の所以があります。
喩えば、不摂生をしている人に「このまま、こうした状態をいつまでも続けていると病気になり、最後は廃人になりますよ」と、忠告した場合、この人は不摂生を止めない限り、そっくりそのまま、廃人を演出することになります。
ここに「予言」の原理と法則があります。
しかしこうした「予言」の範疇(はんちゅう)は、思考と行動で、変えることが出来るのは明白です。「予言」は宗教で言う「預言」でないのですから、予言を発した本人が人間であるのならば、これを受けて、思考と行動で、変えることが出来るのも、また人間なのです。
人間の運命には、個人の運命と、人類としての運命の二つがあります。
個人の運命は一人の人間の齎す運命で、その責任は個人にあります。
また、人類の運命はその個人の運命の責任を集積した次元のもので、集積の意向が人類共通の利益になったり、あるいは不利益となり大惨事を被るのです。
そう言う意味で、私達が未来に対して、不安と迷いと悩みを募らせて絶望したり、あるいは、今は苦しいが、せめて未来だけはという希望的観測の期待や夢を抱くことは、大きな間違いであると言うことが解ります。
「棚から牡丹餅(ぼたもち)」式のような、偶然を期待する希望的観測は捨てなければなりません。
未来に求められているものは、「今」現在において、最良かつ最善の思考と行動力で切り開くものであり、自らが欲する好ましい創造を、未来に求めていく過去の反省材料の修復なのです。
運命は「決定論」で書かれた宗教に固執するだけでは、変えられない事が明白になってきています。
したがって、如何なる境遇であろうとも、人間の思考と行動力である課題に取り組んだ場合、その事象が心像化現象となって、過去が現在に具現され、帰納法的に見れば、私達は勇気をもって「未来は創造できる」という結論に帰結するのです。
未来とは、今、想像された現在であり、過去とは記憶の中の現在でしかありません。換言すれば、あなたの未来は、「現在の今の心の中にある」と言う事が言えましょう。
願望や、目標や、未来設計の総ては、「今の心の中」にあるのです。
「癒しの杜の会」では、あなたの現在の「今」に存在する、あらゆる願望を達成するために、個人ならびに全体に巣喰う様々な諸問題解決に向けて、解消策を啓示しています。
そして膨大な資料(医学・歴史・経済・政治・軍事・科学技術など)と、曽川和翁博士と、その霊的食養道研究チームで構成する、「食改革集団」が、武士道精神の奉仕の気持ちを持って、少しでも諸問題を抱えて悩める方々に対し、お役に立てばという信念で活動を続けております。
武士道の 使命を抱いて いざ行かむ 瑞穂の国の 大和魂 |
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