人類淘汰の時代が始まった
水を考える 


●水が訝しくなっている現象

 多くの日本人は「水とは何か」ということを忘れている。そして、未だに「水と安全はタダ」という概念が頭から脱け切れないでいる。
 こうした錯覚に陥るのは、日本人にとって、水が余りにも身近な存在であり、「分かりきった」こととして水と接して来たことに問題があるようだ。そして実は、水を理解しない固定観念と先入観が、水に対する理解度を大きく疎外しているように思える。

 つまり誰「水」について、一歩深く突っ込んで質問すると、殆どの人が応えられないと言う状態にあるのである。それは水と言う、何も難しい化学式を持ち出すまでもなく、日本人にとって、大半の人の殆どは、水について全く知らないと言うのが実情のようだ。

 水の実体は、まず「形がない」と言うことである。
 「水は方円の器に随(したが)う」という言葉があるように、水と言う物質は、如何なる器(うつわ)に入れても、如何様にも変化するのである。しかし、一旦こぼして、地面に失えば再び戻ることはない。水とは、そんな性質を持った物質なのである。
 それは「覆水(ふくすい)盆に返らず」の俚諺(りげん)でお馴染みだろう。

 また、水は長期間放置すれば、自然に蒸発して跡形すらとどめなくなる。蒸発すれば空気中に、水蒸気として存在するが、蒸発した水を再び許(もと)の器に戻す事は出来ない。
 更に、水は空気に溶けるだけではなく、人間自身も、水を利用していろいろな食べ物を作ったり、飲み物を作ったりする。そして、水の中にはカルシウムが含まれ、ナトリウムやその他のミネラルなども含まれている。水とは様々な物質が溶け込んだ特異な物質であり、この中には鉄分すら溶け込んでいるのである。

 しかし、21世紀の此処に来て、水が訝(おか)しくなり始めた。
 水はどんな物質をも溶かしうるものであるが、此処に来て、水蒸気が集まって雨になって降り注ぐ自然の循環の中で、今、問題になっているのが「酸性雨」である。
 酸性雨とは、大気汚染物質の窒素酸化物や硫黄酸化物が溶け込んで降る酸性の雨のことである。水素イオン指数が5.6以下のものを指す。しかし、酸性雨が降ると、土壌、森林、湖沼などに大きな被害を与えるようになる。

 地上における水は、雨として降った水が、地面に染み込んだり、あるいはいろいろな過程を経て、動植物を経由して間接的に、あるいは直接的に人間の口に運ばれ、体内に取り込まれて行く循環を持っている。水には複雑で、膨大な物質が含まれ、それが取り込まれて、人体では、それが「血液」として循環している。

 「水の惑星」と言われる地球は、大気を含めた地球全体の大自然構造の中で、偉大なる循環を果たして来たのであるが、生命体を育む水が、いま訝しくなり始めているのである。

 その元凶は何と言っても、物質文明が齎(もたら)した「自然環境の破壊」であり、化学物質が横溢(おういつ)している科学技術一辺倒主義は、生命の根本である水に変化を与えて、大きく狂わせてしまったのである。そして、多くの水には、人体に有害な合成化学物質が混入され、これを現代人は飲食物として、飲用・食用しているのである。

 本来、「水の惑星」と言われる地球には、これほど沢山の生命体が溢れ、そこに人類が登場して、喜怒哀楽の生活をすることが出来たのも、実は、水のお陰であった。水の循環が正しく機能しているからこそ、生き物は、「生きとし生けるもの」として、生命を全うすることが出来るのである。

 水は私達の眼で観(み)れば、ごくありふれた物質であるが、地球と言う「水の惑星」の地球のシステムから考えると、水は生命体の基本的な「物差」であり、この物差が狂ってしまったのでは、生命は存続できなくなってしまうのである。この「物差」を、もう一度見直す必要があろう。



●水の惑星

 地球が誕生したのは、今からおおよそ46億年前だと言われている。
 直径10キロメートルほどの小さな惑星が幾つも衝突し、やがて今日の地球の大きさぐらいになったと言われている。それに伴い、地球は徐々に過熱されて高温化され、火の玉のような状態で地球が誕生したと言われている。
 この時、地球と言う惑星内部には、水、二酸化炭素、窒素などが、大爆発と共に大気中に蒸発したと言う。

 地球にはその頃、その他の惑星が次々に衝突し、こうした衝突が繰り返され、現在のような地球の大きさになったと言われているが、この時の地球は、大量の水蒸気と二酸化炭素が、当時の地球を覆っていたことであろう。

 地球を覆った水蒸気や二酸化炭素は、やがて地球に温室効果の役目を齎(もたら)すことになる。つまり、地球に降り注がれた太陽エネルギーが、再び宇宙に放散することを防いでいたのである。地球に衝突する小惑星の数が激変してくると、マグマの渦巻く地球が、次第に冷えて行くようになる。
 更に、大気中の水蒸気は雨となって地表の降り注ぐことになる。また、この雨は地表を冷やし、それによって大雨を呼ぶことになる。この時、大雨は海を形成し始めたのである。そして大雨が地表を洗い流し、地表のミネラル分を海へと流し込んだのである。

 この頃の地表を溶かす雨の質は、まさに酸性の強い酸性雨であり、岩石などに含まれるミネラル分を海へ海へと洗い流して行ったのである。これにより、現在のような「海」を形成したと言われる。そしてこの時の海水温度は、約200度であったと言われている。初期の地球は、陸地も海も、まだ灼熱地獄の様相を極めていたのである。

 こうした地球から、生命が誕生したのは、今から約35億年前だと言われている。
 原始の海の中では、アミノ酸、核酸、塩基と云った生命体の原材料になりうる物質がそれぞれに出合い、また一方で、雷のような電気エネルギーが発生して、此処に初期の生命反応が起こったと考えられている。そして、この時の物質反応は、海水と言う、水を媒介したものであった。水と言う媒体が、生命と言う新しい物資体を誕生させたのである。

 原始の地球で発生した生命体は、人間を形づくるなどの高等生命体ではなく、生命進化の切っ掛けを作ったのは植物であった。モネラ界の下等な藍藻類のような原始植物(下等藻類で原核生物)が、光合成をするようになって生命を組成したと言われている。これにより、地上には二酸化炭素が減り、酸素が増加したと考えられている。酸素の増加により、これまでの原始生命は酸素の毒により死に絶え、これに代わって登場したのが、酸素を利用してこれをエネルギー化する生物が登場して来るわけである。

 此処に登場した新種の生物は、酸素によってエネルギー代謝を実現した生物だった。この生物は効率良く動き回る生物だったのである。この時に登場したのが、脊椎動物だった。しかし、この当時の脊椎動物も、行動範囲は海の中に限られていた。

 その後、陸性化して、陸に上がったのが両生類だった。両生類は脊椎動物の一綱であり、魚類と爬虫類との中間に位置し、多くは卵生であるが、卵胎生のものも存在した。変温動物であり、皮膚は軟らかく湿って特性を持っている。更に四肢があって、前肢に2〜4指であり、後肢に2〜5趾を有する生命体であった。そして、その特徴は空気中で肺呼吸すると言うことだった。

 両生類の陸性化により、爬虫類が誕生し、その後に哺乳類の誕生をみた。更に哺乳類の進化は進み、ホモ・サピエンス(Homo sapiens)が地上に現われたのは、今から数万年前の事であると言われている。こうして地球から生命体が派生したのは、総て水のお陰であった。



●生命体を維持するには自然の水が必要

 35億年という長い時間を経て、生命は進化を続けて来たのであるが、これを支えたのは「自然の水」であった。しかし、この「自然の水」は、このたった30年ほどで、汚染されてしまったのである。

 今日の現代人は、人為的に構成された生命とは無縁の化学物質に汚染された水を体内に取り込み、これにより、現代人が肉体的にも、精神的にも、畸形化(きけいか)する現象が現れ始めた。

 人間の血液は、古くから「血潮」と言う言葉で表現されて来た。それは人間の体液が自然のミネラルの要素を持ち、このことが脊椎動物として、海から陸に上がったことを如実に物語っている。海から訣別(けつべつ)を告げ、陸に上がった脊椎動物も、海水の成分だけは今日に於いても必要不可欠なのである。
 特にナトリウムは、生命体にとって非常に重大な要素であり、このミネラル分が人類に文明を齎した根源になったのである。

 古代ヨーロッパでは、労働として働いた給与は「塩」で支払われていたし、日本に於いても、海から遠い地域には、塩を運ぶルートが開かれていた。
 しかし、日本の場合、日本は火山列島である為、この土壤にはカルシウムが非常に少なく、ナトリウムが多いのである。したがって、この列島で育てられた野菜は、それ自体にカルシウムが少なく、同じ野菜でも、内陸のヨーロッパの物とは異なるのである。

 カルシウムとナトリウムの関係は、「夫婦アルカリ論」を参照。

 更に現代人のように、食事の内容が自然の食物から離れている場合は、当然ミネラルバランスも悪くなり、ナトリウム分の多い、偏った食事をしていることになるのである。

 今日の現代人は、ミネラルバランスの悪い状況におかれ、カルシウムとマグネシウムのバランスや、ナトリウムとカルシウムのバランスが悪く、相対的に比較すると、何(いず)れかに偏っている状態が見受けられる。この元凶は、現代人の食生活に問題があり、ミネラルバランスが乱れていると言うことが、先ず、心身共に悪影響を与えていると言う実情を作り出している。

 現代人が食したり、飲用する食品には、多種多様な鉱物元素を含んだ自然のミネラル成分の食品は皆無の状態であるし、また、このような純粋な自然食品を求めることも難しくなって来ている。また、こうした実情が、現代人の心身に大きな悪影響を与え、心身共に蝕まれていると言う、昨今の世情不安の実態を作り出している。

 無気力で、無関心で、無感動の青少年が激増している背景には、ミネラルバランスの悪さが挙げられ、この状況が現代人を「狂う方向」に趨(はし)らせているのである。精神障害者や性格粗暴者が激増している背景には、自然界に存在するミネラル成分の摂取不足傾向が、こうした人間を作り出しているのである。



●水の「うまい」「まずい」

 都会に棲(す)む現代人は、アスファルトとコンクリートで囲まれ、しかも排気ガスの充満する生活空間の中での生活を余儀無くさてている。本来の樹木から放散される新鮮な空気は、都会の喧噪(けんそう)の中では吸えないものである。
 しかし、都会に棲(す)んでいても、一旦都会を離れて、郊外に移動した時などは、そこで吸った空気が、「おいしい」と思うのは、都会では経験できない事だからであろう。

 また、都会に居て、山岳などに出向き、岩から流れ出る岩清水を口にして、この水が「おいしい」と感じた場合は、今まで飲んでいる都会の水道水を、先ず疑うべきであろう。つまり、間違いなく水が悪いのである。

 人間の感覚器官の中には、「おいしい」と感じたり、「まずい」と感じる機能が備わっている。人間には、物理的・化学的刺激を受容する為に、特別に分化した構造をもち、その刺激を感覚として、求心的に中枢に伝える器官があるのだ。

 この器官が、良いものを感じる時には「おいしい」と感じ、悪いものには「まずい」と感じるようになっている。つまり、躰(からだ)に合うものは「おいしい」と感じ、合わないものは「まずい」と感じるのである。
 水を口にして、いま飲んでいる水が「まずい」と感じたら要注意であるが、毎日まずい水を飲んでいる場合は、これを「まずい」と感じる力が失われている。
 したがって、登山などをして、岩清水を飲んだり、田舎の水を飲んで「うまい」と感じたら、普段の生活の中では「悪い水」を飲んでいるということになる。

 これと同じく、体に悪い物ばかりを食べていると、普段の感覚ではそれが「まずい」と感じなくなる。感覚器が鈍らされているからである。躰の感性が鈍麻し、それに馴染んでしまっているからである。

 そして、「うまい」「まずい」の感性のうち、水は特別であり、鈍麻した感性の中でも、水にそうした違いが出るのは、水は生体にとって非常に大事な物質であるからだ。
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