●強弱論から脱皮して、求道者として道を求める
本ページに上げる技法篇は、あくまで大東流の儀法を紹介するための基礎的なサンプルであり、これが総てではない。口伝や秘伝に入る、宗家からお許しの無い箇所は総て省略している。「何だ、この程度か」と、侮る勿れ。
また掲載については、互いに優劣を競い、強弱論を論うものではない。こうした次元の低さを超越して、人生の糧として武技を練るのが、今日の武術や武道に課せられたテーマであり、この目的に向かって、求道者は「道」を求めるべきである。
ルールや武術的思想の異なる他流派他武術同士が、勝ちを争って、競うことは、人類にとって有害であり、この有害を諌(いさ)める上でも、わが流は門人以外に、他流試合や挑戦や手合わせの類を一切行わないのである。
死闘を演じるような、意地で試合して、喩え勝ちを収めたとしても、両者は無疵(むきず)ではなく、腕前が五分と五分の場合、それ相当の傷を負い、後遺症が残り、また不具者として、人生を棒に振る確率も高くなる。また、六:四でも七:三でも、決して勝っても無疵では済まされないだろう。世間の笑い者になるだけである。
さて、一方で「わが流は、他流試合や挑戦や手合わせの類を一切行わない」と言えば、「上手な逃げ口実」という、次元の低い勘繰りと、意見が起こるであろうと思う。
また、弱いから逃げるのであろう。弱いから言葉で晦(くら)ませるのだろう等と、卑下の中傷が起こるかも知れないが、では、強弱を論ずる場合、「何を以て強いというのか、何を以て弱いというのか」こうした基準になるべき定義があらねばならない。
しかし、こう力説しながらも、「逃げた」と豪語して、「他流試合や挑戦や手合わせの類を一切行わない」とする人道的な行為を、卑しめ、嘲笑い、自分の名前や年齢、住所や電話番号、職業や流派名を名乗らず、一方的に「逃げた、逃げた」と言いふらす、一部の心無い格闘技愛好者がいるのまた事実だ。
こうした人間の、人間的なレベルの低さと、無知はどうしようもないが、「武の道に学び」「武の道を練る」ということは、殺伐としたケンカに明け暮れ、そのために闘志を燃やすものではないはずである。
また強弱論を論って、どちらが勝ったか、負けたかを判定する、極め手も全くないからである。
極め手を決定するにも、相撲のようにマワシ一枚になり、土俵の中で裸になってそこで強弱を存ずるのか、ボクシングのようにリングの中で決まった時間内に打ち合って勝敗を決するのか、あるいはレスリングやその他の格闘技のように、武器を一切遣わず、素手で遣り合うのか、こうした基準と、それにともなう、ルールも必要になるが、こうした格闘のレベルは、あくまでスポーツの域を出るものではなく、「井の中の蛙」的な強弱論にしか過ぎないことは、何人の眼にも明白であろう。
むしろ、自分の信奉する以外の武術や武道が、強弱の決定を下す武技ではなく、他流派の戦闘思想に掲げられたその根底に流れる「武の精神」や「武の心」と言ったものを学び取るための、貴重な文化資産と考えたいものである。
「武の道」は、人と争うケンカの道具ではなく、人生の糧であると心得たい。
また強弱論を論ずるにしても、人各々に、ところ変われば品変わるで、得物の制約が無制限である場合、その上下の差は歴然とする。
世の中には、素手で競えば弱いが、刃物を持つと途端に強くなる、あるいは竹刀剣道では弱いが、真剣だと断然強くなるという武術家がいる。
新選組局長・近藤勇もそうであったし、伯耆流居合の達人・川上彦斉も、こうした後者のタイプの名人である。
したがって戦闘思想全体から考えれば、「井の中の蛙」的な強弱論は「真当(ほんとう)の戦い」を中心に据えた場合、それはほんの一局面に過ぎない事が分かる。
「真当の戦い」は命を遣り取りするものであるからだ。
しかし殺人罪に問われたり、傷害罪に問われてまで、死闘を演じたいという武術家や武道家が、人権問題が高らかに叫ばれている今日、果たしてどれだけ居るだろうか。
またハングリーな武術家や武道家が、一億円近い損害賠償請求に対し、果たして何人がこれに応じられるだろうか。
そして後々までの遺恨を引き摺りつつ、遺族の恨みや、仕返しに、果たして何人の者が、これに耐えられるであろうか。人を傷つけ、人を殺した負い目は生涯消える事がない。
●老獪を侮る勿れ!
武人と称される武術家や武道家は、一方で道場の看板を背負い、一方で武人の意地を背負っている。こうした看板と意地を背負った人間に、負けるということは絶対に許されず、素手で負ければ刃物、刃物で負ければ拳銃か猟銃と、段々エスカレートして行って、最後は殺し合いになる。こうしたことを承知の上で、武人の意地だけで、死闘を演じる者が、果たして何人居るだろうか。
もし居たら、この人は、どうしようもない程の狂人であり、既に人間としての心と、人格を失っていることになる。
しかし一方に、幼児的な考え方から抜け切れず、それでけに昨今は、ある種の格闘技において強弱論を振り回し、好戦的で挑戦に挑む、次元の低い輩(やから)も少なくない。
あるいは、自称「日本一」を自ら宣伝し、あるいは「史上最強」(最近では世界最強と言うそうだが)と豪語する輩も、決して少なくないのと同じように……。
何を以て日本一と称するのか、何を以て史上最強と称するのか、理解に苦しむが、ルールも、戦闘方式も、戦闘思想的の考え方も違う、異なった他流派や他武道が四つに組み合って、一方的な方法により、場所を限定して試合し、偏(かたよ)った展開の結果、勝敗が決着したとして、これをどうして公平に判定し、他方が優れていて、他方が劣っていると言い切れるのだろうか。こうした豪語には不可解を覚える限りである。
また、幾ら史上最強と豪語した、リングの上での百練百勝の選手でも、厳寒の冬山を「マタギ」と伴に、山には入れば、三十分も経たないうちに道に巻かれ、後はそのままで無慙(むざん)な死に方をしてしまうのは否めない。
条件や時期や場所や戦闘場所が異なれば、こうした武道やスポーツの格闘技経験者の百練百勝の剛者でも、彼等に容易に負かされてしまうのである。
そもそも「戦い」というのは、こうした非日常における有事の「命の遣り取りの戦闘」を指すものであって、定められたルールに随い、定められた試合場、定められたリング、定められた土俵で戦うものではない。すなわち戦いとケンカは、根本的に違うということを心得て貰いたい。
ケンカは「喧嘩」の文字からも窺(うかが)えるように、まず、「口」が出て、あるいは眼が絡み付き、罵詈雑言が投げ尽くされた後に殴り合いとなる。
無言のまま、気付かれないようにそっと忍び寄り、ナイフで刺して姿を消すような、無言のケンカはないはずである。
しかし「戦い」や「戦争」ともなれば、こうしたことが当り前となり、絶対に罵(ののし)り合いはない。
これまで戦争に徴兵されて、戦った兵士は、全く武術や武道や格闘技の経験の無い、ごく一般の善良な市民だった。その市民が、半年ほど練兵されれば、武術の手練(てだれ)以上の、名うてのスパイナーとなる。
太平洋戦争末期、かつての日本陸軍の歩兵部隊の兵士や、海軍陸戦隊の兵士も、実は一円五厘の赤紙で徴兵された、農村の名も無い人達だった。
幾らトレーニングを積んだ、強力(ごうりき)で、腕に覚えのある巨漢のプロレスラーやプロ力士でも、場所が変わり、ルールが変わり、好きな武器を手に持って、食糧を背負い込んで、ジャングルのような、あるいは山岳地のような苛酷な所で、無期限の試合をしたとするならば、果たして健康で、今迄に全く武道経験やスポーツ経験の無い、格闘知らずの素人にも、負けることがある。
巨漢は巨漢だけに、その食糧も半端ではあるまい。背負うコンバット・ザックの中は食糧で一杯になり、武器を詰め込むスペースはその余裕もあるまい。武器の代わりに食糧だけが一杯になり、僅か3.5秒で爆発する手榴弾も、投げつけられれば、果たして俊敏に身を躱(かわ)せるかどうか。
肚(はら)を満たすだけ、腹一杯食べれば、自然と眠たくなるが、こうした眠気にも耐え、緊張感を連続させる事が出来るかどうか。
体力的には、若者は老人に比べて体力的に優れ、体格的に優れていると言うが、それは同じ試合場の、赤い畳で線引きされた畳の上か、リングの上か、土俵の上で、禁じ手を定めたルールに随い、三分間のゴングと伴に闘った場合であり、場所・天候・時間の無期限・禁じ手の無差別・武器の無差別・罠の無差別・毒薬の無差別がある場合は、必ずしも若者が優位であるということは断言できない。
制約がなければ、長年武術などを遣(や)って来た老武術家は、これまでの蓄積した教訓や智慧を有しているので、奇想天外な作戦に出たり、老獪(ろうかい)な奇手の手段を用い、簡単に若者を死に追い詰める事が出来る。
老人は老人なりに老獪であり、若者の人生より長く、見聞もそれだけ豊富であり、教訓も多く積み重ねてきている。また幾つもの試練も潜り抜け、様々なピンチも克服して来ている。狡猾(こうかつ)な駆け引きもしただろう。今まで生きて来た彼等の年輪には、こうした生きてきた証(あかし)の教訓の多くが刻み込まれているのである。
巧妙な罠(わな)も仕掛ければ、硫酸など劇薬を投げ掛けたり、トリカブトの毒薬成分の抽出法を知っていたり、砂とガラスを砕いて作った眼潰しなどの隠し武器の妙も、心得ているはずだ。
したがって一切が無差別・無制限となり、厳寒の冬山や泥濘(ぬかるみ)に湿地帯に入れば、エアコンの快適な都会生活しか知らない、今の若者は、老獪な老人には手も足もでないであろう。
老人とは、昼間の公園で日向ぼっこをする老人を想像する勿(なか)れ。
公園でゲートボールを楽しむ老人を想像する勿れ。
床に就いたままの寝た切りの老人を想像する勿れ。
世の中には、若者から尊敬されない老人ばかりでないのだ。
こうした近未来の惚け老人予備軍の背後にも、人目に目立たぬようにひっそりと暮らし、一度有事となれば、驚くべき力を発揮する老武道家もいる。
巧みに罠を仕掛け、隠し武器をマジシャン顔負けの手品のように遣い、縄術(天蚕糸や電気コードを用いて絞め殺す術。あるいは頸に絞め痕が残らないようにしてフォルマリンを併用しつつ絞め殺す)の絞殺法にも巧妙で、劇薬の調合に長(た)け、天候や地形や自然現象に詳しく、政治や経済や軍事や世界情勢にも精通し、真言調伏(しんごんちょうぶく)を自在に操り、八門遁甲を用いて軍立(いくさだて/奇襲を仕掛ける開戦の決行日時の決定計算法)を行い、戦いを能(よ)くする、老獪で矍鑠(かくしゃく)な、肚(はら)の坐った老武術家の居ることを忘れてはならない。
試合場のリングや土俵のみで競って、それに勝ち得たとしても、それは決して永久の勝ちを収めたことにはならない。
むしろ、年齢と共に、若者に代を譲るような勝ちは、晩年での空しさだけが付きまとうものである。こうした勝ちに、西郷派大東流合気武術は、終始こだわらない。
したがってわが流は、門人以外の部外者に対し、なん人たりとも、一切の手合わせはしないのである。
なお、わが流は「所有する武技の一切を行使しない」と如何なる挑戦をも受け付けない。戦いは死闘を演ずるもんであるから、人を傷つけたり殺したりすることもあるし、逆に傷つけられたり、殺されたりすることもある。したがって、所有する武技の一切を行使しないというのがわが流の方針である。
一方、「一切の手合わせはしない」と断言しているのであるから、合意において死闘をする決闘罪すら成立せず、挑戦者が一方的に挑戦、あるいは暴力をけしかけた場合、これによって発生する怪我、その後の後遺症などについての人体的障害は、勿論、責任を取って頂くが、これは瞭(あきらか)に傷害行為あるいは殺人行為を予告する傷害・殺人未遂罪が適用される。挑戦状は裁判の判例からも、刑法上、脅しととるようだ。
未遂罪は、犯罪の実行に着手したが、結果が発生せず、犯罪が完成しなかった場合に適用される「刑法に、特にこれを罰する規定がある場合に成立する罪」としての未遂罪に該当するので、以降の執拗な手合わせや挑戦は、ご遠慮願いたい。
くれぐれも、今日における「武の道」の修練は、決して十六世紀戦国期の「乱世の兵法」ではないので、この辺を間違わないようにしてもらいたいものである。
また、乱世の兵法に時代を逆も取りさせることは、大きな間違いであり、武の道の根底に流れる、道徳や倫理を冒涜するものである。
既にわが流は、日本国の刑法で処罰される「争い」を否定している以上、これに刃向かうことは、まぎれもなく犯罪者のそれであり、自らの武人としての人格と品位を落とさないためにも、こうした類のことは、固くご遠慮申し上げたい。
また、こうした嫌がらせともとれる、執拗な、礼儀知らずの挑戦があった場合、わが流は直ちに警察に、ストーカーのストーキング行為ならびに傷害・殺人計画未遂事件として告訴する予定があるので、こうした対象者になられることなく、武術・武道・格闘技の愛好の諸氏は、今後も健全な心で、人生の糧として「武の道」に邁進していきたい次第である。
●心正しく、体すなほにしてのち礼というべし
わが流は、これまで様々な武術や武道や格闘技を志す、他流他派の愛好者から、度々他流試合や手合わせを所望されてきた。しかしこうしたものにも、一切ご遠慮願い、わが流が絶対に、これに応じないと断わり続けて来た。
ところがこうした断わり続けた、以降も執拗に付きまとうストーカー如き、陰湿な心無い者がいて、限りない迷惑と過度な精神的苦痛を味わっている。
悪戯メール、人を小馬鹿にした心無いメール、考え違いの甚だしい弱肉強食論の高らかに豪語する論文調のメール、挑戦状メール、昼夜を問わない悪戯電話、無言電話、「殺すぞ」と凄む脅迫電話、家族への脅迫並びに嫌がらせ等があい続き、非常に迷惑している限りであるが、まさにこれはストーカーのストーキング行為ならびに傷害・殺人計画未遂事件相当の犯罪であり、犯罪者の行為である。
まさか、他流他派の武術や武道や格闘技の愛好者が、こうしたことをしているのではなかろうが、もし、居るとしたらその人間は「武技」を学ぶに値しない人間であり、その人間の身に着けたこれまでのテクニックや心構えは、全く人に評価されない、地に落ちた、恥ずべき無用の長物となる。
人生の生き甲斐として、あるいは人生を生きる道として、武術や武道や格闘技が精神修養のために利用されるのであって、ストーカーのストーキング行為ならびに傷害・殺人計画未遂事件相当のこうした陰湿な行為は、「ある志をもって斯道に励む者」の姿ではなく、礼儀を弁(わきま)えぬ、語るに落ちた卑賤(ひせん)の輩(やから)の仕業である。
かつてわが流も、若気の至りからこうした挑戦に対し、受けて立ち、カッと熱くなって挑戦に応じたこともあったが、今考えれば全く無益なことであったと、後悔している。
単にケンカ両成敗で、後腐れない決着がつけば文句ないが、負けたことに対して何らかのシコリが残り、素手で負けても刃物で負けてないなぞと、次から次へとエスカレートした事件に巻き込まれたことがあった。
挑戦者にとって、わが流が負ければ、それで自己満足するのであろうが、武人にとっては一種の屈辱であり、誠心誠意、命賭け戦うことが礼儀と心得るので、それを実行したところ、生涯に亙る傷を負わせたことがある。それは今でも心に引っかかる負い目であり、果たして当時の判断が正しかったかどうか、未だに考えさせられる解決できない問題になっている。
そして今人権が叫ばれる、日本国憲法下で、挑戦されて、どう対応するかが重要な課題になっている。
そこでわが流としては、こうした挑戦者か手合わせを所望する手合いに対して、まず、三か月ほど長期の体験入門をして貰い、一般門人と同じように、同じ稽古をして貰て、西郷派大東流合気武術が如何なるものか体験して貰う事にしている。
挑戦者の中には、たいした腕もないのに思い上がり、自分が一番強いと信じて疑わない次元の低い者が少なくない。
そうした者をうっかり相手にした場合、当然マスコミの非難の鉾先(ほこさき)はこちらに向けられ、世間の笑い者になるのは、わが流であるからだ。
要するに、礼儀を心得た人は、安易にこうした挑戦や手合わせは所望しないものであり、結局こうした挑戦者は「どちらが強いか」ということに目的があり、そういう類にはあっさりと、「あんたの方が、ずっと強いよ」と言って遣ることにしている。
「強いこと」と「負けないこと」と言う事は、意味が根本的に違うからだ。
勝たなくてもいいが、「負けないこと」が大事なのだ。裏を返せば「争わない」ことだ。
「負けないため」には、こういう手合いを相手にしないことである。
礼儀知らずと命を賭けて、真剣勝負することが、馬鹿ばかしくなるからである。つまり礼儀をつくなさい者に対しては、なん人たりとも相手にしない事にしている。
強いか弱いかを論ずるものは、大方が礼儀知らずで、この礼儀知らずの頭の悪さは、繰り返し繰り返し学習させても、学習できない、下等動物の頭脳構造によく似ている。
さまに、魚か爬虫類に、難解な法律学か、高等数学の微分方程式を、熱を入れて講義する如きである。これに遣われるエネルギーは、相当なものであり、また、無駄の最たるものである。
わが流で最も重要視する事は、武術や武道や格闘技を志すその人が、「礼儀正しいか否か」と言うことを、人間の判断の基準に置いている。人格並びに品性の高い人は、実に礼儀正しく、どこまでも他人行儀であることを貫(つらぬ)こうとする。
しかし「どちらが強いか」という目的で挑戦を挑む者は、傲慢であり、横柄であり、口の利き方が横着で、態度も立派なところがなく(一応は立派だと見せかけ、うまく繕っているが)、言葉遣いも慇懃(いんぎん)であるように見えて、実は無礼を平気で働く種類の人種である。
また、こういう人間に限って、氏名(フルネーム)・住所(都道府県市町村並びに町名や番地)・職業・年齢・電話番号を伏せて、繰り返し一端の武道論の暴言を吐くのであるから、卑怯千万という他ない。
こうした挑戦状を叩き付ける相手に対し、わが流は「一切試合をしない」「手合わせをしない」と断言していても、一方的に挑み掛かって来る輩がいる。これは全く無抵抗で、弱者の不具者を叩く行為に酷似する。卑怯千万とは、この事だ。
既に、こうした武道家を標榜する人間は、人格並びに品格が失墜している。
恐らくこういう人間も、「強いか弱いか」が問題であり、どうやら彼等の愛好する「武の道」は、実は「武の道」の名を借りた、強弱論に対処した、強弱の行方の追求であるのかもしれない。
そして一時の勝ちに酔い痴れ、優越感を抱くようだ。更に、全くお粗末な目標を掲げて「武の道」に勤(いそ)しんでいるから、現代のこうした弱肉強食論は、様々な世代に、多くの混乱を齎しているといえよう。
単に、わが流のページに掲げる技術的なレベルの強弱を確かめるのであれば、実際に長期の体験入門を受講するか、入門して、そこで確かめれば済む事であり、こうした事もせずに、部外から安易に、強弱を批評したり、自分の主観で物事を断定することは、瞭(あきらか)に片手落ちであり、無躾谷(ぶしつけきわ)まるものであると言わなければならない。
日本古来の武術が、かくも顛落(てんらく)し、人格並びに品格が失墜して、強弱論ばかりが問題にされるのは、実に嘆かわしい限りである。
現代社会においては、かつての武士階級の社会制度が崩壊し、江戸時代からの子孫が、武家や農家や町家にかかわらず、明治維新以降、誰でも武技を学ぼうと思えば、気軽に学ぶ時代が訪れた。また現代は巷間では、第三次格闘技ブームと言われているようだ。
そのために、受講する層の上下が混乱し、その価値観は試合を通じて「勝つこと」だけが問題となり、武士階級で最も大切にされてきた、「礼儀」や「礼法」は軽く見られるようになった。こうした武技の目的は、近代に至って「単に勝つため」あるいは「強いか弱いか」という事に焦点が絞られ、これに向かって練習を重ねるという現実が生まれた。
そしてこの現実が、礼儀正しさと、礼儀の意義を失わせ、単に、馘(くび)から下を丈夫にして「勝てば英雄」という、おかしな考え方を武術界、武道界、格闘技界に培養してしまったのである。
「武の道」は現在流行の格闘技や、相撲の興行とは根本的に異なる。
興行は選手同士、力士同士が躰を張って試合を行い、その木戸銭で興行収入を得、その利益によって、生活の糧をこれにもとめるものである。
一方、「武の道」の求道者はあくまで、これを人生の拠り所として、ここに「人としての道」を求めるものであるから、瞭(あきらか)に両者には考え方と、その思想が根本的に異なっている。
前者は、自分が勝ち続けなければ観客は喜ばないし、負けてばかりでは客足も遠のくであろう。弱い力士にファンの少ないのは、こうした結果からも窺えよう。
一方後者は、「勝ち負け」や「強弱」にその目標を掲げないから、修行の目的は「礼儀を正す」という、己自身の心への格闘となる。
しかし多くの競技武道や興行格闘技は、「勝ち負け」や「強弱」が総てであり、「礼儀が正しい」という、人間で最も大切なものを後回しにするようだ。
こうした現実は、昨今、甚だしく「武の道」の品位を低下させ、「道だの」「心だの」と唱和しつつ、青少年を指導しているのだから、お粗末というより、その資格すら口にすることは出来ないはずだが、こうした輩ほど、安易に「青少年育成」を口にして、先生と傅(かしず)かれているのであるから、何とも不可解である。
古語に言う「心正しく、体すなほにしてのち礼というべし」という、良識派の崇高な教えは、一体どこに行ってしまったのだろうか。
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