●局面的な、勝ったか負けたかは人生において問題ではない
人生において、「勝ったか負けたか」はそれほど問題ではない。人生において、如何に修行したか、如何に試練を切り抜けたか、如何に自分自身と闘ったかということだけが問題となる。その際、「闘魂」が大事であり、敵は、外の敵より内の敵に勝つ事の方が、非常に難しいのである。
今話題の宮本武蔵しても、文豪・吉川英治の筆で脚色され、巧妙に作り替えられているために、これを武術に無知な一般大衆が見た場合、痛快を覚えるかも知れないが、本物の宮本武蔵は小説で描かれるような、「人間の出来た人」でなく、肚(はら)も度胸も意外と小さく、小手先のみが非常に巧みであったと言われている。
また頭が良くて、武芸者としては優秀であったが、武士としての評価は、それほど高くなく、辛うじて、武蔵の人物評価を高めているのは、晩年の巌流島以降の事であり、その中に武蔵の人間的な人間性や品性を、書や絵画の中に二三、見い出すだけなのである。
そして武蔵を哀れにしたのは、巌流島の決闘以降の、晩年においての就職活動であった。
武蔵の就職問題について、細川忠利と武蔵の関係を洞察すると、当時の時代背景に興味深いものがある。この時代の武士階級の間には、既に「武士道」といわれる古典的なものが芽生えつつあり、激しい激突するような戦いは終焉(しゅうえん)を迎えていた事に原因し、治者の論理として、儒教がもてはやされるようになっていた。
武蔵はこれまで六十数回の試合に臨み、無敗?(京の吉岡一門との決闘では、その史実からすれば、武蔵が逃げたとなっている)を誇ったとされているが、巌流島の決闘以降、試合をヒタリと止め、武技の精神的支柱には武士道と言うものがなければ、人物評価は高くならないと気付いているようだ。
そこで取り組んだのが儒教であり、禅学であった。その時から武蔵は、新たな遍歴が始まり、この遍歴を通じて『五輪書』あるいは『独行道』の下地をつくることになる。
要するに、晩年の武蔵の『五輪書』あるいは『独行道』は、当時の新時代の脚光を浴びつつあった藤原惺窩(ふじわらせいか)の儒学や朱子学の治者に対するものがその下地になっていると思われる。多くの武道家の解釈は、これを武術書と解釈したところにそもそも間違いがあるのであるようだ。
むしろ『五輪書』や『独行道』は武術書と言うよりは、一種の「武士道書」であり、三十歳以降の武蔵の裡(うち)には、青雲の志が燃え、青年客気(せいねんかっき)の余韻がを引いていたと思われる。
つまり自分の武技を、格調高く一般大衆にアピールするためには、技術的な面が優れていただけでは駄目で、やはり「文武両道」が求められる関係上、「武」の上に来る「文」が必要となり、両者の「手持ち札」が揃って、はじめて、自分の道徳的威厳を高める事が出来るのである。武蔵は、誰よりも先駆けて、これを感知した形跡がある。
戦国時代の動乱の世の終焉は、乱世の殺伐とした兵法に終止符を打ち、以降の評価は、武が「道」への評価と移行する事になる。
武蔵はこの時、熱心に就職運動を展開して、自らの評価を一点でも二点でも高くして、仕官先で高く扱ってくれるように仕込んだ形跡が強い。
それを示すのが、武蔵の様々な書籍や絵画の類であり、武蔵は細川家に仕官する時、「万石とまでは言わないが、せめて三千石の家老並みの禄高では」と考えていたようだ。
しかし安定してきた徳川治世下では、武蔵のような武芸者の達人は、あまり相手にされず、知性に富み、一方で武士道を貫く武士がもてはやされるようになっていた。武蔵の武芸自慢は時代錯誤のなり、完全に無視され、武蔵の武士としての評価はそんなに高いものではなかった。以降、こうした武技は見せ物や、興行の類となり、天覧試合を除いては、高級な扱いがされなくなっていたのである。
武蔵は苦難の就職活動をおえ、一応細川家に仕え、熊本城下に屋敷を拝領し、そこに住む事になるが、これまで六十数回試合を行い、その殆どを斬り殺し、恨みをもたれていたから、四六時中警戒の緊張が緩められず、ついに垢(あか)まみれになって洞窟に住み着くのである。
当時の試合は真剣勝負が原則で、それ故に、命を落とす事が仕方なかった。また、それ故に、敗者の親族が遺恨を残し、武蔵の命を狙うのも当然であった。
戦いに負け、勝負に負けた者の遺族は、当然ながら家名再興と知行(ちぎょう)の復活を願うのは当然であり、また勝者と言えども、勝ちに胡座(あぐら)をかくわけにはいかず、この点が現代と大きく異なっている。
こうした点を挙げると、武蔵が巌流島の決闘以降、細心の注意を払い、生活して行くために身を護ろうとするのは当然である。山中の中腹の洞窟に寝起きし、風呂にも入らず、髪も解かず、『五輪書』執筆のために寝食を忘れて、これに傾けたと言うのは、ごく自然な流れである。
果たしてこうした生き方が現代において、その人生の道に叶っているか、否か、大きな疑問である。
●武術家・武道家の精神構造とその品性
一般に武道家といえば、肚(はら)の出来た、大きな人柄と人物像を想像するはずである。
ところがこれに反して、こうした人間性の持ち主は、意外にも少ない。
マイナーな武道雑誌に登場する壮年期や初老の武道家にはこの類が多く、尻の穴の小さいのには驚かされる限りである。
「出る杭(くい)は打たれる」あるいは「出る釘は打たれる」という諺がある。武術界や武道界とて例外ではない。
世間には、優れて、抜きん出ている人、あるいは彗星(すいせい)の如く現われる人は、とかく憎まれるの、喩えがある。武術界や武道界とて例外ではない。
また差し出て、独断的に振る舞う者は、他から憎まれて制裁される喩えが、この諺には含まれている。
順風満帆の人生など在り得ない。苦労なく、何事も計画通りに運ばない。もし、こうした幸福の女神が微笑むような、得意絶頂期の悦に入っていたら、それこそ妬みの対象になるはずである。
また「好事魔多し」とも言い。
一時の順風満帆(じゅんぷうまんぱん)、あるいは善い事や、うまく行きそうな好事には『琵琶記』(びわき/後漢期のその妻、趙五娘を主人公にした貞節の物語)にある通り、とかく邪魔が入りやすいもので、こうした状況下、他人からの中傷誹謗や羨望(せんぼう)が入り込んで来るものなのである。
こうして、武術修行に打ち込んでいると、そのお陰で色々な種類の、武術家や武道家、格闘家やスポーツ選手を見る機会を得ることが出来る。
また武は、「礼に始まり礼に終わる」とも言われながらも、それを豪語する人ほど、意外と礼儀知らずであったり、強い嫉妬(しっと)の持ち主だったりすることが少なくない。
武術や武道の世界は、この世界だけが特別な、人格者の世界ではなく、この領域は、俗人のそれと変わりなく、ありとあらゆる種類の人間が吹き溜まっていて、ドロドロとした穢(きた)なさすら感じられる羨望(せんぼう)の世界でもある。
一端(いっぱし)の武道家として、あるいは著名な武道家として名の通っている人が、実は、非常に心が狭く、また嫉妬深い人で、他流他派を中傷誹謗したり、最もらしい理論を並べて、自己顕示欲を曝(さら)け出し、それを武勇伝として自慢話をするのは、よく知られていることである。
そしてこういう心の狭い武道家が、一度嫉妬に狂うと、それが直接中傷に変わり、誹謗に変わる。
その妬みの深さは、過去の歴史を引っ張り出したり、系統図を引っ張り出して、全く現在を相手にせず、過去に拘わる憎悪で、妨害し、マイナーな雑誌に投稿して、徹底的に詰るという見苦しさすら、露骨にするものである。まず、「自分はどうなのか」という反省の気持ちすらないのだから、ますます手に負えないのだ。
また、こう言う類(たぐい)の武道家が、弟子や会員の前では、空念仏のように「人の道」を説いたり「礼節謙譲」を論(あげるら)うのであるから、全く、空いた口が塞がらないとは、この事である。
現実に武術・武道界には、純粋な人間の求道精神の壮挙に対して、ありとあらゆる手法を用いて、背後や側面から横槍を入れ、その誹謗・中傷をもって、自分を大きく見せようとする類がいることは、実(まこと)に悲しむべき事実である。
今日、日本には数社のマイナーな武道雑誌があるが、特に試合のない古武術系で、演武形式の、著名な武道家の一人に祭り上げられている人で、師範として取り巻から傅(かしず)かれ、人格者のように思われている人が、実は、大変心の狭い人で、全く場違いな武道雑誌に、他流他派を中傷誹謗記事を載せているのを見ることがある。
内容の中心は、他流他派を過去を得意げに暴き、全く現在という「今」の次元を問題にしていない記事で埋め尽くされていることだ。
そして一方で、自分の自己顕示欲を満足させる、お追従記事や堤灯記事を、編集者に書かせているという、恥知らずな行為を憚らないという御人も居るようだ。
こうした手合いも、実は陰湿なストーカーであることは間違いないのだが、残念な事に、彼等は自身がストーカーであるということに気付かず、逆に世の中をリードする人格者と思っているから、何とも始末の悪い限りである。ストーカーのストーキング行為という病気は、やはり自分の衆生の為(な)せる人間の業(ごう)というもので、死ぬまで治らないものようだ。
この意味で、武道家の焼餅は、陰湿な青少年のストーカーよりもっと悪質といえるであろう。
武術家や武道家といわれる人の中にも、知的レベルと理解力が高い人が居るが、一方で知的レベルだけではなく、人間的にも低くて、弱肉強食論を振り回し、好戦的で、自分の流派意外、認めようとしない人も少なくない。
●愚かな強弱論は、どこから生まれたか
人間にとって、批判能力というものは非常に大切なものである。
批判の無いところに、進歩や発展や進化はないからだ。
ところが「批判」と「悪口」は根本的に違っているので、両者を混同しないことが大事である。
批判の無いところには、何の向上のあり得ないことは武術の世界においても同じであり、それを優れたものへと、時代と伴に進化させていくことは武術家としての使命であるが、それを行使する場合、それを分けるものは知性か、感情か、という問題が起こり、これは能々(よくよく)注意をしなければならない。
また他武術や他武道の批判がましい言動も、要注意して掛からねばならないが、これが感情的な領域に入って行って、悪口にならないように、知性を働かせなければならない。
そして慎むべきは、逃げ道の無い批判や、悪口の言動であり、これがこじれて、次元の低い強弱論に終始する結果ともなる。
悪口の応酬で、言い争うことに収拾がつかなくなると、人間は愚かにも言論ではなく、暴力を行使して、格闘するという実力行使に出てしまうものである。
したがって悪口は慎みたいものであるし、批判も言葉を選ぶという、慎重な態度で望まなければならない。
そして一度批判したばらば、その言論には毅然として、最後まで責任をとるという明確な態度が必要である。途中でしどろもどろに弁明を述べたり、言い訳をするのは見苦しい限りであり、毅然とした態度こそ、武人に課せられた真の姿である。
毅然とした態度をとることは、古来より、武術の世界では鉄則とされるものであるが、不心得にも、かつての自分の所属した団体や、道場の師範筋や、組織を悪しき態(ざま)に貶(けな)して、名誉を失墜させたり、極めて目障りな挑発で、マイナーな武道雑誌に投稿したり、雑誌記者に、お追従記事を書かせて、第一人者のような貌をした武道家を見受けることがあるが、これはまさに「後足で砂を掛ける」の例え通り恥ずかしき行為であり、古来より、道場間や組織間で紛争の火種になって来た原因は、こうした理不尽な恥ずべき行為が起因となっている。
そして罵詈雑言の応酬が、やがては実力で決する、愚かな強弱論を展開することになる。某武道雑誌で、ある武道団体同士が罵り合う見苦しさは、この最たるものであろう。
西郷派大東流合気武術の門人は「恥辱に対する態度」に対して、厳しく指導する。
特に見苦しいのは、言い訳、弁解、責任転嫁、弱い者苛め、無抵抗の者への攻撃、他流や他人の悪口などで、これらは総て卑怯者のすることであるからだ。
また失敗を誤魔化したり、自分の特典ばかりを要求して、主観的な物の考え方をする者に対しても、厳しく指摘し、自分が何をして貰えるのかといった甘ったれた考え方でなく、自分は他人のために何が出来るか、あるいは何をすべきか、真剣に考えよと、常日頃から、門人各位にその方向性を示し、常に初心に帰ることを促している。
こうした厳格な指導の中で、最重要課題は、「無抵抗の者を甚振(いたぶ)るな」「弱い者苛めするな」「横柄な態度を慎め」「誰に対しても敬語を遣え」「同じことを二度言わせるな」「同じ失敗を三度繰り返すな」ということであり、それにも増して、「他人の失敗を笑ったり、それを喜んだりするな」ということで、これは人間として、厳格に守らなければならない態度である。
西郷派大東流合気武術では武術家や武道家である前に、「まず、人間であれ」と教える。
人間であるから人間の眼を通して、物が正しく映るのであって、単に偏見の色眼鏡で見る、弱肉強食論では、物が正しく見えてこないからだ。
わが流は、他流の先生から時々お招きに預かり、道場を訪問させて頂く機会があるが、その時に、他人の稽古を見て、それが下手であっても笑うな。その場合に絶対に薄笑い一つするな。他人が真剣になって稽古している姿を、安易に批評したり、崩した姿勢で見世物にするなと、言い聞かせている。
そして人間ならば、何事も謙虚に、慎んだ態度をとる事は当然のことである。
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