修行の場としての福智山考 1

福智山にみる自然観。この山は修行の場として、極めて理想的な山である。武術鍛錬の為に、心身を練り、その練った伎倆で人間性向上と、品格を磨くにはもってこいの山である。(平成19年8月11日、福智山山頂より撮影)


西郷派大東流合気武術 宗家


●福智山に想いを馳せて

 世に、自称「武道家」と称し、その「武」の持つ意味を全く解せないまま、生涯を終(お)える人は多い。それは「武の鍛錬場」が、屋内のみと思っていて、生涯そこから離れる事なく、鍛錬の本義を理解しないまま終えるからだ。
 したがって、これに固執した自称武道家は、野稽古の重要性を知らず、野試合の持つ意味を知らない。こうして知らないまま、理解しないまま、個人的闘技に明け暮れて、没して行く人が、現代は何と多いことか。

 また、謙虚や礼節の持つ意味を解さない人も多くなった。これは「人間と言うもの」「いきるということ」について、知る人が少なくなって来ていることを意味している。これままた、「命の根元」を見詰め直すという、目に見えない価値観を軽視しているようにも思われ、体躯の余すところ無く、バランスよく動かすということを忘れかけている時代だと言えよう。
 今日の武道界も、「目に見えないもの」を軽視する傾向にあり、これがまた武道家を自称する者の実体であろう。

 科学至上主義が擡頭(たいとう)した現代において、ただ、畳の上で、板張りの上で、あるいはリングの上で、予(あらかじ)め整備された平坦な場所で、個人的闘技に明け暮れ、それに汗を流す事が、「武の道」と信ずる人も少なくないようだ。
 しかし、「武の本義」はこうしたところにあるのではない。

 現代人は、大自然に対し、余り「畏敬(いけい)の念」は抱かないようである。自然を管理する科学万能主義が横行している為か、自然を甘く見て居る人が少なくない。
 したがって、自然の本質を深く捉(とら)えようとしない。自然からのメッセージを読もうとしない。そして、自分が、その自然界の生態系の一つに組み入れられれ居る事も、大方は見逃しているのである。いまや、自然は人間界と隔絶された存在になりつつあるようである。

 そして多くの現代人は、自然を知らないばかりか、「命」も「時間」も「空間」も、「自分自身」ですら、余り分かっていない人が増えはじめている。こうした意味で、自称「武道家」も例外ではないだろう。

 今日のような、余りにも自然から隔絶された社会は、自然を知らないツケが、今、吾々(われわれ)に廻って来たような気配すら感じられる。
 現代人が向ける目線の方向は、物質文明の上に築かれた、便利で快適で豊かな、自然から離れた生活空間であった。
 ところが、この生活空間から派生した諸現象の多くは、余りにも自然から懸(かけ)離れた事で起り始めている。

 現代人が患(わずら)う病気一つ取り上げてみても、どの病気もどの病気も、こうも完治しないのかと、一瞬唖然(あぜん)とさせられる現象が起こっている。その病状現象の究め付けは、何と言っても未(いま)だに難病の中に据(す)え置かれる「ガン発症」であろう。
 そして吾々現代人は、科学が発達した現代において、未だに「難病の領域」がある事に驚かされる。

 こうした意味から考えて来ると、世の中は「逆転」しているように思われる。
 この逆転現象の中で、吾々(われわれ)現代人は、あまりにもに多様な現象が起る為に、それに慣れっこになってしまい、注意が散漫になっているところがある。

 人間の行動原理は、心と躰(からだ)の相似形のシステムの上に成り立ち、これが比較的対照的であると云う事だ。つまり、心を汚染させた人は、躰(からだ)までを汚染させると言うことだ。その意味で、現代人を病気の坩堝(るつぼ)に陥れるストレスはその最たるものであろう。
 心が穢(けが)れるから、躰までが穢れるのである。その最たるものが「ガン発症」ではなかったが。

 そして、ごく明瞭(めいりょう)な当たり前の事に対し、この事に関して、何の興味も示さない人が多くなって来ている。
 本来人間は、自然と共にあった。これは明瞭過ぎる当たり前の事である。しかし、この当たり前の事が見失われている。
 それは潜在意識の考え方などに、その例を見る事が出来る。

 吾々(われわれ)は人間の意識の中で、潜在意識と顕在意識のある事は知っているが、顕在意識でない意識の事を潜在意識と勘違いしている。何故ならば、潜在意識と認める意識も、また顕在意識であるからだ。
 だとすれば、吾々人間は潜在意識など、持たないと云う事になる。

 これが正しいとすれば、本来、本当の潜在意識とは、その捉(とら)え方が違うのではないか、という気がして来る。
 また、昨今は右脳教育の事が盛んに持ち切りとなり、これ等のトレーニングが流行しているが、右脳が左脳に比べて「良さそうだ」と感じる判断を下しているのも、実は右脳ではなく左脳なのである。そして、こうした総(すべ)ての基準が訝(おか)しいと指摘する人は殆(ほとん)ど居ない。

 また、幾ら考えても理解できない事は、その場で急に思考が停止してしまうのも、また現代人の特長のようだ。難解なことや未科学の分野は、これに好んで足を踏み入れる人は少ない。
 では、この特長の背景には、いったい何が存在しているのか。

 現代は、資本主義下にあって、金銭至上主義からくる利潤追求のみが最優先し、金銭に絡(から)む以外の事は「見逃し」や「聞き逃し」が横行する社会である。誰もが文明社会に凭(よ)り掛り、注意散漫になって、かつては直ぐに気付いて居た事が、中々気付かなくなっていることだ。何事にも自覚症状を伴わない人が多い。

 この注意散漫を換言して、「寛容」と表現する人が居るが、寛容を云う言葉を少しでも知っている筆者は、逆に、この言を発した人に憤(いきどお)りすら感じるのである。寛容とは、「徳」を現わす言葉であるからだ。

 注意散漫者に、果たして「徳」は備わっているのか。
 また、現代人は「寛容」という大き過ぎるシステムの実情に、気付かない事こそ、ある意味で「ずぼらな寛容」であり、この手の寛容が、生命すらも蔑(ないがし)ろにしてしまう現実を作り出している。

 では、現代と言う世の中は、いつからこのように変わってしまったのか。
 それは、現代人が豊かさを筆頭に、便利さと快適さを、切に願った時に起因しているように思われる。
 つまり、大自然を離れ、平地での屋内と言う「孤立・固定化した場所」に逃げ込んでしまったときから、人間と大自然は擦(す)れ違いの平行線上を歩くようになった。

 それは奇(く)しくも、謙虚であるはずの修行者が、一段自身を高い処に祀(まつ)り上げ、「武道家」と自称した時から始まったのである。これは謙虚への欠落であり、大自然に対しての傲慢(ごうまん)であった。これにより、人間は「節度」を忘れ、「礼節」を忘れるようになった。
 此処に現代の「捻(ねじ)れた醜さ」があるように思う。
 そして、この「捻れた醜さ」は、現代人に広く浸透し、自分自身が大自然の生態系の一部である事を忘れさせる要因となった。

 こうした背景には、やはり何処まで突き詰めても、現代人と自然との隔絶が大きな要因となっているようだ。
 確かに現代人は、自然と隔絶した生活を送っている。また、自然が如何なるものか、映像の世界で眼には焼き付いているものの、体得感から、体感としての自然を本当に知っている人は少なくなった。

 多くの人は、直ぐに安全地帯に逃げ込み、都会的で合理的で豊かで、更には便利で快適な生活に凭(よ)り掛かろうとする。かくして大自然の中に踏み込んだ、自然合体型の人生には、あまり興味を抱く人は少なくなった。

 多くの現代人は大自然と倶(とも)にある生活と称して、アウトドアスポーツを楽しんでいると言う。しかしそれは、家族ぐるみで出掛ける、一年の内の数日の、外でのキャンプやハイキングや、また河原での焼き肉パーティーなどを楽しむ程度のもので、真摯(しんし)に大自然に接するというものではない。事後のゴミや壊れ物などを放置する現実は多く、返って大自然を傷つけ、汚しているだけである。

 現代人は確実に自然から遠退(とおの)き、この中に足を入れなくなってしまっている。
 もう現代人の中で、大自然に反応して、ぞくぞくするような身顫(みぶるい)と臨場感を持ち得る人は、確実に少なくなって来ている。これは平地での車社会が、このように導いたのであろう。そして、現代人は歩かなくなって久しい。

 しかし本来、修行者と言うものは、一徹な精進と、気魄(きはく)があってこそ、修行の根元に迫(せま)れるのである。
 武術修行とは、単に平坦な整備された屋内練習場に止められるだけのものでない。修行の「場」としての場所は、大自然の中には幾らでもある。これを知らない限り、あらかじめ人工的に整備された試合場でのチャンピオンでも、一度、深山や冬山に分け入れば、山仕事でならした老練な林業家の健脚とは較べものにならないほど、その足取りは「幼稚ぶり」が表面化しよう。

大自然の中に、人間が修行する「修行の場」は、山脈列島である日本には幾らでもある。単に修行の場が、あらかじめ人工的に整備された、屋内とは限らないのだ。

 現に、格闘技の世界最強と称されるチャンピオンでも、若い時から山仕事で慣らした老練な人と一緒に入山すれば、前に行く林業家の姿を見失い、2、30分たらずで足を捲(ま)かれてしまうであろう。実際にマタギと遣(や)ってみれば分かることである。
 それは險(けわ)しい山路の登り降りで、速足か、マラソンで競ってみれば容易に分かる事だ。

 それに入山で難しいのは、入山後に気象条件が豹変(ひょうへん)する事だ。山の天気は変わり易い。これが平地での闘技と異なるところであり、実際の山岳戦は平坦地の試合のそれと異なるのである。平坦地の屋内試合場が全天候型とすると、大自然の山河は、まさに天候に大きく作用される危険な場所となる。道場内での稽古上手が、必ず勝とは限らない。

 そして山に入って、一番恐ろしい事は、天候の急変による「天気の悪化」である。また気象条件の悪化により、地形まで変わってしまう。こうした悪化は、大自然が相手であるから、人間の力ではどうしようもない。随(したが)うしかない。

 振り返ってみると、気象条件は人間の命と密接な関係を持っているのである。入山した人間を、生かすも殺すも、大自然が下す、気象条件一つに懸(かか)るのである。そこで「知ること」の智慧(ちえ)が必要になる。

暗天に覆(おお)われた悪条件は、決して平野部の平坦な試合場の屋内では見れないものであり、大自然の気象の変化にも心を配らなければならない。
 しかし、山はもともと「自己浄化の場」であり、古人はこうした「場」を求めて入山したと思われる。これは修験道にしても同じであろう。そして、そこには「破ってはならない一定の掟
(おきて)」がある処でもあった。それが山への「畏敬の念」となった。

 さて、筆者が近年、福智山に登ったのは、平成3年8月14日以来のことであった。その後、何度か福知山登山を試みたが、頂上まで後700メートルと云うところまで迫ったが、台風や大雨により、途中で引き返して、頂上を究める事は遂(つい)に成就しなかった。そして平成3年以来、後進者の道案内として福智山に登ったのが、平成19年7月21日だった。
 振り返れば、あれから16年間も福智山から遠退いて居た事になる。

 19年の7月には、本来は先の週の7月14日に登る予定であったが、台風の為に交通機関が総(すべ)て止まって、この日の山行きは成就はならなかった。そして、念願の頂上を極めたのは、7月21日のことだった。山頂まで直通の最短コースを通っての登頂であった。
 この日、尺岳(しゃくだけ)を展望できる頂上付近は、濃い乳白色の霧が懸(かか)っていて視界が悪く、高度を上げるごとに、益々霧が深くなり、数メートル先を見るのが「やっと」と言う状態であった。

 山頂に向かう途中、辺りは鶯(うぐいす)や郭公(カッコウ)が鳴き、晩春か初夏を思わせる風情が漂っていた。また、頂上の石を積み上げた石垣には、夥(おびただ)しい鈴虫が居て、山頂は霧の深い初秋を思わせた。
 この日の気温は11度で、半袖のTシャツで登ったので、非常に肌寒かった。そして、本来ならば、360度グルッと廻っても、遮(さえぎ)るものがなく、北九州の山並みや、遠くは九重連山、玄海灘、関門海峡までが一望できる筈(はず)であったが、辺りは濃い霧で遮られ、視界は利(き)かなかった。

 そして、次に登ったのが、21日後の8月11日だった。この日は烏落【註】この呼び名は登山者により様々で「からすおとし」という人もいるし「からすだに」という人もいる)を迂回(うかい)する歩庭平(ほってだいら)を経由するコースを通った。天気は快晴であったが、非常に風の強い日で、福知山山頂からの景観は、まさに絶景であった。これまで少年時代から、百回以上この山に登りながら、このような、まるで深遠なる宇宙の彼方を見上げる空は初めてだった。
 更に、その三日後、再び福智山に登った。

 ところが、この山に16年間登らずに忘れて儘(まま)になったブランクは大きかった。烏落を迂回するコースを通ったが、16年ぶりの山は風倒木などもあって、かつて見覚えのあった道はすっかり変わり、一瞬、道が何処に存在していたのか、見失うところだった。それだけ筆者にとって、この山から離れてしまったブランクは大きかった。もう何もかも、この山について忘れかけ、かつて健脚で慣らした足は60歳を迎えた老人の足取りであった。長い年月のブランクで風化しかけていたのである。

 しかし、19年7月、改めで山頂へ再挑戦し、この險(けわ)しい山行きを極めた時、かつての懐旧(かいきゅう)の想いを馳(は)せて、福智山での若かりし日の修行の日々を、懷かしく想い出したのである。また、大自然と平行線であってはならないと云う反省が脳裡(のうり)を過(よぎ)った。

 福智山に、先代の山下芳衛先生に連れられて、筆者がこの山に挑んだのは、小学校6年の頃だったであろうか。
 父は八幡製鉄の職工で、その頃、筆者は桃園町の製鉄アパートの社宅に棲(す)んでいた。皿倉山の麓にあたる八幡区は、どの地域にいても皿倉山を仰ぐ事が出来た。ここは遠足で何度も登った事がある。しかし、福智山の存在は知らなかった。

河内貯水地に架かるメガネ橋。当時はこの橋の上を西鉄のボンネットバスが行き来していた。(昭和36年頃の撮影)

 当時の福智山に至る登山道のコースは、八幡区河内(かわち)を経由して、八幡製鉄の河内貯水地に至り、そこから更に奥に向かって、田代(たしろ)という山村に入り、そこから福智山に至るコースを登って山頂に向かうことだった。当時、河内貯水地の奥端の「メガネ橋」までバスが通っていたが、それから先の田代までは歩かねばならなかった。
 しかし、当時とは多少道も変更されているらしく、定かに当時の山路の様子を思い出す事は出来ない。

 ただ、この山路を経由しながら、登る路程の中で、筆者は自然に対する色々な智慧(ちえ)を学んだ事がある。あの時は、こうだったと懷かしく「懐旧の想い」に浸る事もある。そしてあれから、約五十年の半世紀ほどが流れて居た事にあらためて、その歳月の長さを思い知らされるのである。

 そして、今も鮮やかに想い出されるのは、筆者が大学を卒業した翌年、山下先生と福知山山系を、修行を兼ねて登山旅行した時の事だった。今は定かでないが、当時は福知山山系は、修験道の英彦山に通じるルートがあった。

 英彦山頂上の英彦山神社を参詣した後、香春岳(かわらだけ)などを経由して、福智山に至る山岳ルートがあったように記憶している。今となっては、何しろ四十有余年前の事であり、記憶は定かでないが、修験道の僧坊か、修験者を世話する宿屋だと思うが、こうした処を泊まり歩きながら、尾根伝いの登山の旅をした事があった。

 英彦山は今でも名高い、修験道の山である。また、福智山は白鳳(孝徳天皇朝の年号「白雉はくち」の異称で、飛鳥時代と天平時代との中間にあたり、7世紀後半から8世紀初頭までをいう)元年、英彦山修験の流れをくむ、釈教順(しゃきょうじゅん)が開山したと伝えられる英彦山修験道行場の一つがあり、修験道が盛んだった最盛期には、僧坊12坊を数えたという。そんな名残りが今でも残っている。

 こうした古(いにしえ)の地を歩いて旅したのである。
 筆者にかつての懐旧を蘇(よみがえ)らせたのは、19年7月21日の、改めで福智山山頂へ挑んだ、この日だった。この日以来、寝ても覚めても、この山の事が想い出されて、ありし日の記憶を辿り、もう一度、当時を振り返って、今は消えてしまっていると思われる山岳ルートに再挑戦したい気持ちで一杯であった。



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