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古人の叡智が集約する護身武術


■西原万記子先生の死去について■
 

●心より御冥福をお祈りいたします

 平成22年8月25日、八幡西支部黒崎道場長の西原真紀子先生が急性肺炎のために死去いたしました。ここ2年ほど前から、血液のガンで闘病生活に入っておりましたが、本年の8月中旬より体調を崩され、これまでの様態が急変し、ついに25日還らぬ人となりました。享年69歳。
 心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
 
                              平成22年8月28日

西郷派大東流合気武術総本部・尚道館謹書   



 
黒崎道場長 故西原万記子 先生について

 西原先生は、四十二歳の時、西郷派大東流合気武術の門を叩いた。
 最初、娘さんが小学生の時、わが流を習っていて、娘さんの付添いとして、毎回道場に顔を出していた事が切っ掛けであった。そして娘さんの稽古を見ていて、「自分でもやれるのではないか」と思ったのが、入門する動機だったと言う。
 また宗家からも、「子供さんの稽古を見ているだけではつまらないでしょう。待っている時間も無駄ですし、どうですか、一緒にやってみませんか」と誘われた事が、わが流に接する最初だった。
 それからもう二十年以上の歳月が流れた。わが流の中では、門人としては古参の方に入り、そうした今も真摯に、わが西郷派大東流を学ばれている。永遠の課題は「合気とは何か?」だそうだ。

 現在は既に六十の半ばを越えられる年齢でありながら、それでもそうした年齢を全く感じさせない。おそらく人生に、確固たる目的を持ち、その目的に向かって邁進されていることが「老い」を感じさせないのであろう。
 人間の老いは、決して肉体の年齢のよって定まるものではない。夢を捨て、かりそめの幸せにしがみつこうとする、消極的な気持ちが老化現象であるから、逆に二十代や三十代でも、その兆候が始まっている人も少なくない。
 そうした人に対峙して、西原先生は積極的に稽古に挑み、若さを失わず、ますます魂が進化しているように思える。

 ふと西原先生の修行に対する真摯な姿を見ながら、われわれ門人は、生涯かけて、人生を修行の場と考え、それに向かって魂を進化させていかなければならないと言うことに気付かされるのである。生きとし生けるものが複雑に絡み合っている現世。何を見、何を聞き、何を触れ、何に打ち込むかが問題となる。
 こうした意味で、われわれ門人が西原先生の姿を見ながら、人間に生まれた事の「初心」の気持ちに、素直に立ち戻らせてくれるのである。
 実は西原先生が、老いを感じさせない秘訣は、この辺にもあるようだ。

 そして今も、元気に後進の指導に当たられている。
 これからも、もっともっとお元気で指導に当たられて下さい、と心からそう思う次第である。ところが、その矢先、お亡くなりになったことは、何とも残念なことである。

西郷派大東流合気武術総本部・尚道館 謹書     

 
略歴:
昭和十四年生まれ。福岡県立八幡高校卒業。五十歳過ぎてから放送大学入学、ごく最近まで在学。九州国際大学・西郷派大東流合気武術部師範などを歴任し、西郷派大東流合気武術五段。同流名誉師範。黒崎道場長。そして平成22年8月28日、西郷派大東流名誉六段。
 (【註】写真は平成15年頃の西原万記子師範の、在りし日のお姿です)


 ●西原万記子師範の死を悼んで

                                  平成22年8月28日
 
                                  西郷派大東流合気武術宗家 曽川和翁

 平成22年の年、私は家内を失い、そして今度は西原師範を失った。私の周りから、次々に人の死んでいくのを目の当たりに見ると、私自身随分と年をとったと思うばかりでなく、私がこの世に取り残されているような錯覚を抱く。
 私自身、平成13年12月末期ガンを告知されて以来、身を慎むことに精進してきたのであるが、私以上に元気だった人が、次から次へと去っていくのは何とも生きていて遣る瀬無い気がする。

 そして思うことは、「随分と娑婆に長居しすぎたな」という、溜息とも、嘆きともつかない言葉が吐露される。

 世の中は益々変化が激しくなり、この情報過多の時代、その一方においては、日本崩壊主義者たちが日本を破壊し、売国奴たちが大手を振って大道を闊歩するこの世の中、娑婆に居て、あまり長居することも憚られ、自身で、「もうそろそろ汐時かな」と思うことすらある。そして先に死んでいく人たちに、幽かな羨望すら錯覚するのである。そして娑婆での切り上げ時を思うのである。また、そう思うことが随分多くなった。

 何故なら、私の周りから1人消え、2人消えしているからだ。錯覚かも知れないが、いい人は、みな早く消えていくような気がする。意気投合する仲間も近頃はすっかり少なくなった。それだけに、そろそろ切り上げ時か、などと思ってしまうのである。
 意気の合う隣人が消えていくことは、酒を飲んでいる傍(かたわら)で、ケーキやカスタードプリン、アイスクリームなどを食われているようで、何とも遣る瀬無いのである。

 テレビを見ても、テレビ局は白痴番組に出演する芸能人やスポーツ選手に乗っ取られ、仲間内だけが、へらへら面白おかしく、くだらない番組を作り出しているように思える。低俗番組に、一緒になって面白がる人間は、まだいいだろう。
 しかし、私のように、低脳の芸能人に馴染めない、また彼らの笑えない芸に取り残されたような人間は、どうしても低俗番組や白痴番組に、心から同化できないのである。
 いま日本は、不況の時代の真っ只中にありながら、物質的な豊かさを享受している。その上、個人が際限なく尊重される価値観の中では、その豊かさを本当に活かす方法を誰もが見出せず、ひたすら自己利益追求にひた走っている。

 かつて、忠孝を義とする「儒学的精神」と「論語主体性」の世界の中で育った日本人は、いまではそのことがすっかり廃れてしまっている。
 「敬」の一字も確かに存在したが、いまではそれを顧みることはない。そして『論語』の世界では、無能な人間に対しては、敬意を払う必要はない、とはっきりと断言されているのだが、「礼」が廃れ、「孝」が顧みられない現代の世では、無能で、人気者のキャラクターほど重宝がられている。
 そのキャラクターは、確かに人気者だが、本質的には全く責任感の欠如した人間である。その多くは、責任感もなく、時代の危機管理意識もなく、ただ仲間内だけで、へられはと面白おかしく、日々をバカなことに浪費し、現実を、全く生きていないように思える。あまりのも無責任極まる情報の垂れ流し人間が多いように思える。
 そして、日本人の中にも、多少は現実を直視し、使命感の意識を持っている者もいようが、況(ま)してや、いまの世の中の無理解極まる重圧に耐えかねて、妥協と墜落の淵の前で真剣に悩んでいる人は、そんなに多いようにも思えない。私の周りにも、妥協の道を真剣に模索した人は少なかった。

 私個人の六十有余年の人生を振り返れば、戦後日本の世の中は、至る所で無責任が横行していた。いまもその延長上にある。その最たるものが「日本の崩し屋」である民主党ではなかったか。彼ら、崩し屋たちの横暴は眼に余るものがある。彼らは、また外国のエージャンとである。

 西原万記子氏の生前、よく会報などを通じて、こうした話をしたものである。西原氏はその良き理解者の1人だった。こうした理解者が、また1人減ったということは何とも残念であり、1人去り、2人去りという実情の中で、ついに自分一人取り残されたという観も、否めなくはない。つくづく惜しい人を亡くしたと思う次第である。
 率直に言って、私は生涯、家族にも弟子にも、あまり恵まれなかった。しかしその中にあって、私より八歳年上の西原氏は、紅一点の輝ける存在だった。地道に、わが流のために働いてくれた人だった。重ね重ね残念である。

 そして西原万記子氏が亡くなられた翌日の夜、私、末娘の彩、末坊主の竜磨、それに神奈川県横浜市より三白四日の予定で個人教伝に来ていた中橋雄介師範を伴い、お通夜に参列し、その二日後の8月27日午後七時より八時、かつての黒埼道場(場所は北九州市八幡西区の黒埼体育館内)を訪れ、氏の供養のために稽古を行った。
 最後に西原万記子師範のご冥福を心から、お祈り申し上げます。


 
 
子供の指導にあたる西原師範。
宗家臨席のもとで。

 (【註】写真は平成15年頃の西原万記子師範の、在りし日のお姿です)


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