其の一 
其の二 









●古人に学ぶ

 ある著名な武術家の著書に、直心影流の榊原鍵吉(さかきばら‐けんきち)と、その弟子の山田次朗吉(やまだ‐じろきち)の話が出て来る。
 榊原鍵吉は天保元年(1830年)十一月、麻布広尾の榊原邸で生まれたが、天保十二年の十三歳の時、男谷精一郎(おたに‐せいいちろう)の門に入り、直心影流剣術を学んだ。以降、研鑽十年、天性の素質と才能に加えて、稽古熱心であった為、免許皆伝を得て、安政三年築地の講武所剣術教授に抜擢(ばってき)され、また小川町の講武所剣術師範として、師の男谷精一郎とその門下十三人衆と共に名を連ねる程の腕前になっていた。

 こうした鍵吉の得意絶頂にあった頃に、入門したのが山田次朗吉(やまだ‐じろきち)であった。
 山田次朗吉は師匠の榊原鍵吉と共に、雪の九段坂を歩いて来た時の事が、この話には出て来る。この話は、ある咄嗟(とっさ)に起った事を取り上げている。
 雪の為に鍵吉の履いていた下駄が滑って鼻緒が切れ、我が師・鍵吉が顛倒(てんとう)しようとした瞬間、山田は鍵吉の躰(からだ)を咄嗟に支え、残る片手で、今度は自分の履いていた下駄を素早く脱いで、師の足許(あしもと)にあッという間に差し出したのである。一瞬のうちに踏み履かせ、顛倒(てんとう)を防止すると同時に、我が師の足許(あしもと)に、自らの下駄を踏み敷かせたのである。
 
 これこそ、まさに臨機応変の最たるもので、これ以上の「妙」はない。
 顛倒しようとする人を支えるくらいなら兎も角として、咄嗟に自分の履いている下駄を脱いで、その足許にさっと差し換える妙技を行えるのは、凡夫には中々できる事ではなく、つまりこれはその人の持つ、才能と素質が、このような妙技に至らせるのである。しかし内弟子として修行に励む人間は、このくらいの気配りを行ない、それが例え叶わぬにしても、この気配りは必要ではないかと思う。

 雪に滑って、鼻緒が切れ、顛倒しかかると言うこの事件は、ごくありふれた事であるにもかかわらず、その根底には、予期できない偶然性は秘められている。こうした現象は偶然に起るから、「咄嗟」と言い、こうした出来事に、対応できるから、「臨機応変」と言うのである。そして偶然性と言う、予期できない事象は、そう簡単に、気配だけで感じ取れるものではない。
 それでいながら、咄嗟の出来事に対し、師の顛倒を支え、下駄をすかさず差し出したと言う、随伴者として当然の行為は、心の在(あ)り方を如実に教えるものである。漫然(まんぜん)と師の伴(とも)をしていては、こうした事は出来ないはずである。こうした働きができるのは、その根底に「薪水の労をとる」という心構えが、普段から常に備わっている為である。

 昨今は道案内と称して、師匠の前を自分勝手にスタスタ歩く、礼儀知らずの弟子が多いが、もし、山田次朗吉が榊原鍵吉の前を歩いていたら、顛倒しかかる師匠の躰を支え、残る片手で自分の下駄を脱ぎ、それを師匠の足許に挿(す)げ替える等と言う妙技は行えるはずがなく、やはり、この場合は「三歩下がって師の影踏まず」という諺(ことわざ)が功を奏した事になる。

 しかし「薪水の労をとる」とは、門人の上に胡座(あぐら)をかいて君臨し、師は弟子に対し指導者面(づら)する事ではない。また、こうした事を現代の若い門人に要求する事でもない。
 しかし、修行するという日々精進の世界は、有事に際して咄嗟の措置が出来なくては、その人は武道愛好者や趣味の域で止まる人なのである。
 また精進する世界を、単に勝ち負けにこだわって練習する人間には、こうした「切実」かつ「純真」な心が理解できず、ついには有事に際して、何一つ役に立たない禍根(かこん)ばかりを積み上げている人なのである。

 後に、鍵吉の高弟・山田次朗吉は『日本剣道史』を著わすが、この中には、明治20年(1887年)十一月十一日の伏見宮(ふしみのみや)邸での、我が師・榊原鍵吉が、“兜(かぶと)割り”の天覧を供にした事を述べている。
 「此の日、この場に招かれた剣客は皆一流の聞えある者のみであった。我が師榊原は前々より斎戒沐浴し、鹿島明神を祷(まつ)り、出入りの刀剣商より取り寄せたる胴田貫どうたぬき/肥後の刀工の一派で慶長の頃)の一刀を携えて出頭した。(中略)兜は名に負ふ明珍鍛えの南蛮鉄桃形、合図に任せて一順、二順、警視庁の逸見宗助(へんみ‐そうすけ)、上田馬之允(うえだ‐うまのじょう)腕を鳴らして進み出て、曳(えい)ヤの声は勇ましかったが、刀はカンと跳ね返って兜は掠(かす)り傷がも負はず、或いは刀を辷(す)べらして危うく倒れかかった者もある。榊原は徐々と傍近く歩み寄って、すらりと抜きたる胴田貫を真っ向に振り翳(かざ)し、気合いの充(み)つると同時に、エイと叫んで打ち下したる手練(てだれ)の冴えは、ズカリと斬り込む鉄兜に、三寸五分を喰い入ったのである。あな斬ったり。割ったりと(中略)嘆美の容子(ようす)は各人の色に形(あら)はれてあった時に鍵吉、五十八歳であった」と記されている。

 こうした鍵吉の偉業の裏には、弟子の「薪水の労をとる」影の力があった事は、言うまでもない。榊原鍵吉は剣に長じた人物であったが、理財の才に欠け、惜しいかな、明治の世になってサーカスの曲芸師まで遣り、また不肖の異腹の兄弟の多かった事が災いして、鍵吉自身の晩年は、必ずしも恵まれた人生とは言えなかった。

 日清戦争の宣戦布告の翌月の明治二十七年九月十一日、鍵吉は六十五歳の人生を閉じた。そしてその亡骸は、四谷南寺町の西応寺に葬られた。
 鍵吉は逸材の人物として、才能並びに伎倆(ぎりょう)に優れ、しかし理財には欠けていた為、人間としての身を律する方法を知らなかった。もし、鍵吉に理財の才があれば、かくも惨めな死に方はしなかったであろう。
 しかし唯一の慰めは、山田次朗吉の、あの九段坂のちょっとした事件であろう。
 あの事件こそ、鍵吉自身も弟子の山田に救われたはずで、心から凄い奴がいるものだと、心服したに違いない。随分と救われたはずである。

 さて、わが西郷派大東流も、随分と遠くから、わが流派を学びに来る人がいる。しかしその人達の多くは、単に儀法(ぎほう)の修得を目的に来るのであって、「薪水の労」をとりに来るのではないようだ。技だけ学べば、大半はサッサと帰ってしまう。しかし中には、一日、二日と寝食を共にする人もいる。そして稀(まれ)にではあるが、便所掃除や風呂番や飯炊きまでして「薪水の労をとる」ような事をする人がいる。

 恐らくこうした人は、目指す目的が一般の門人とは異なっている事が挙げられる。
 一念発起(ほっき)して、ある事を精進し、努力を重ね、ついに高次元なものを会得する者がいる。こうした人を「名人」と呼ぶ。高手(こうしゅ)の人間でもある。しかし高手の人には、二つのタイプがある。
 一つは幼少の頃から何等かの武術を学び、日や精進して師の教えを守り、人間として仕事に精を出すと共に、また、武術も練る。弟子に慕われ、人格も優れ、技もよく切れる人だ。そして生涯をこれで終わる人である。

 一方、もう一つの高手は、やはり同じように幼少の頃より武術を学び、然(しか)し乍(なが)ら、よき師に出合わず、技術面ばかりにこだわって、強弱論を論じ、喧嘩三昧を好み、好戦的になって、自己の強い事を誇示したがるようになり、「喧嘩○○」と称して、自己の能力を過信する人である。このタイプの人は、実力があるが、人格が伴わない為に、狂暴で自惚(うぬぼ)れの強い人間となり、普通の人間が持っている人格さえも失っていく。こうしたタイプに憧れて、格闘技を志す若者も少なくない。勝てばよいと言うタイプである。

 こうした人は本当の意味の「薪水の労をとる」と言う事を嫌い、ただ思い切り肉体を使い、汗を流してハードな練習に明け暮れ、必殺法のみを修得しようとする。
 わが西郷派大東流に於いても、遠くから学びに来る人には、こうした二通りのタイプの人がいる。
 前者は必殺法習得法のみを学びに来る人で、高級儀法【註】高級の場合は「儀法」の文字が使われ、低級の場合は「技法」の文字が当てられる)ばかりを好み、後者は技の全般を見抜き、高級儀法が低級技法から成り立っている事を知っている。
 また前者は「いいとこ取り」を狙い、後者は「地道に地固め」をする。しかし前者のタイプの人は、内弟子としては不向き・不合格であり、生涯それ止まりの人である。技を身に付けたとしても、気狂いに刃物では、人々の人望を得ることが出来ない。



●「地道に地固め」が内弟子の第一任務

 武技には二通りのものがある。高級儀法と低級技法である。
 低級技法は簡潔で単純で、敵に悟られ易い欠点を持っているが、万人向きで非常に使い易い。
 もう一つの高級儀法は、難解で複雑で、修得困難であり、非常に使い難い。そして高級儀法の欠点は、それだけを修得しても、決して実戦に役に立たないことである。
 何故ならば、高級儀法は低級技法によって誘導されるからである。この事を後者はよく知っており、観察眼が鋭いと言える。しかし此処まで観察眼の鋭い人は稀であり、多くはこうした観察眼を持たない。目先の強さを追い求め、小手先の器用な技ばかりに固執しようとする。そして薪水の労など二の次だ。

 これは「薪水の労をとる」と言う事が、如何に難しいかを現わした、人間関係および子弟関係の粗・密の難しさである。
 しかし薪水の労をとった経験の無い者に、名人は決して生まれない。
 名人は、「習う」の段階で、既に、薪水の労をとる努力をしているのである。そしてこの努力の開きは、十年、二十年と年を追うごとに大きな開きを見せ、かくして何十年遣っても凡夫の域を出ない者と、やがて弟子に慕われ、名人の名に相応しい隔たりが起るのである。

 さて、尚道館の内弟子制度は、「後世に西郷派大東流の儀法を伝え、その指導者を育てる」と言う目的で展開されている。
 将来、わが流の指導者になり得るような有能な若者を、向こう二年間、短期速習で徹底指導し、血の通った寺小屋教育で、先生と生徒が一対一で教示する真剣勝負の場を提供している。
 先生は宗家である私自身であり、生徒は内弟子の一人一人である。

 しかし子弟関係を交わしたからと入って、直ぐに何でも教えてもらえると言うものではない。例えば、先生は、食べ物を口までは運んでやるが、それを噛み砕き、呑み込んで、消化させるのは生徒の役目である。この辺をよく理解していなければ、途中で挫折してしまうのである。

 私は、かつて父から三歳の時に山下芳衛先生の許に預けられ、武術の真似事をはじめたが、実際に手取り足取り習ったのは、三歳より数えて、何と十二、三年後の中学も終わりの頃だった。この十二、三年の期間、直接何かを教えてもらったような事はなかった。私が「馴染む」まで放置されたと言っても良かった。
 食べ物は口まで運んでも、それを噛み砕き、呑み込み、消化させる力がなければ、そこに幾ら食べ物を詰め込んでも無駄なのである。この事を山下先生は能(よ)く心得ておられたようだ。
 内弟子は、最初から消化能力のある者のみを対象としている。しかしこれ迄の生活環境や、思い過ごしや、先入観あるいは固定観念もあるので、こうした事を排除する為に、一時期「馴染む時間」を置き、大きなショックを起こさないように、その指導は慎重に進めるようになっている。

 昨今は、芸能タレントならびにスポーツ・タレントになる為に、多くの若者がそれぞれに名の通った師匠や選手の許(もと)に殺到していると言う。しかし、その扱い方の根底には何があるだろうか。
 芸能界でもスポーツ界でも格闘技界でも、弟子の扱いは一種の消耗品のようなところがあるようだ。代わりは幾らでも居(お)り、必ずしも「育てる」ということをしないでも、道具としての「しつけ」をすれば、それで興行が成り立つようだ。要するに、そのタレント候補者の才能と素質を逸早く見つけ出し、その部分のみを磨けば、立派な商品として光ると言う事であり、「金の卵」を製造しているに過ぎない。つまり「モノ」としての扱いだ。

 したがってこうした若者を、必ずしも人格教育を施して、人の道を教えると言うようなことはしなくても済むのである。昨今のこうしたタレントの手合いが、傲慢で、横柄で態度が横着なのは、結局人間としての躾をしっかりとしないからである。
 裏から考えれば、体裁の良い、人格や品格の伴わない道具であり、商品であり、これを使い古せば、次に新たな代用品を需(もと)めると言った、取り替えの利く、モノとして扱われているのである。
 こうした矯正保育機に入れられ、そこで製造されたタレント志望の若者達が、齢をとって舞台や試合に出れなくなり、人々の記憶から忘れ去られた晩年の日々を迎えたとしたら、果たして輝かしい未来はあるだろうか。

 尚道館での一挙手一投足の実践は、常に「育てる」という事を目標に置き、人格教育を行って、将来の指導者たらんとする若者を育成する「道場」なのである。そして「道場」を、人格育成の場として考えているのである。
 その一番最初に育成する課題が、「礼儀を正す」という事である。