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志高く、より良く生きるために

■ 壮年ならびに高齢者のクラス■
(そうねんならびにこうれいしゃのくらす)

●極楽と言う名の地獄

 霊的世界や霊界などという話を始めると、頭ごなしに否定的な考え方をする人がいる。この思考を、「科学的でない」と一蹴(いっしゅう)する。それは肉眼に確認できないからだという。自然科学というのは、肉眼に見える、可視の世界だけの現象と思い込んでいる。したがって、肉眼に見えない不可視世界の現象は自然科学でないと思っている。肉眼で「確認できない」という理由から、これを「科学的でない」と言い捨てる。

 しかし、「科学的でない根拠」は、古典的なニュートン物理学と比較してでの論理上からのことである。
 ちなみに、十七世紀のこの時代、素粒子すら発見されていなかった。それをニュートン物理学のレベルで、素粒子より、更に細かい、今日の科学では測定不可能な霊的エネルギーと比較しようというのであるから、何ともお笑いである。

 こうした考えを持つ人は、いわゆる酸性体質の特徴であり、頑迷に否定するさまは、かつての日本人が、神仏の前で純真な心をもって、大自然と謙虚に向かい合い、頭(こうべ)を垂れていた、あの姿を対照的である。

 また、日本の国家『君が代』を否定し、国歌斉唱に対し、起立を拒み、斉唱を拒む、日教組と日教組を支持する進歩的文化人も、共産主義の虚構理論が見抜けない酸性体質の人である。
 また、日本的な精神文化を何処までも否定して、唯物論に固執する人がいるが、こうした考え方の持ち主も、霊的世界を頭ごなしに否定する人同様、思考力に柔軟性がない、酸性体質の人である。
 同時に、頑迷な唯心論に凝り固まり、念仏宗(ただ一心に念じる唯心念仏)のような極楽浄土を信じる人も、頑迷な信心に固執することから、柔軟性のない酸性体質の人である。

  さて、人間は死後、自分の命体(霊魂)は、最も自分に相応しい状態に置かれる。これを決定するのは、生きていた時に抱き続けた「意識」である。死ぬ瞬間まで抱いた意識である。意識は、肉体を持たない意識体である。あるいは「意志」の表象でもある。これらを総称して「霊」と呼ぶ。

 では、霊とは何か。
 霊は時空を超越した意識体の持つ「意志」のことである。意識体の意志は、異次元世界から、肉体を合体する為にやってきた意識である。肉体に憑依し、肉体をコントロールしようとする「意志」である。
 意志は神気(しんき)と合体し、心情を司る心の元気を通じて、肉体の精気へ憑依(ひょうい)した存在である。つまり、憑依の姿をとりながら、意志を発している存在である。それが人間の心を司るメカニズムである。
 超時空の存在である霊は、その本質は意識体に宿る「意志」であり、この意志だけでは、肉体を持たない為に、意志自身が、あるいは意識体自身が物理的な作用を発生させることは出来ない。

 そこで生きた人間の魂(こん)と結んで、「神(しん)」に宿り、意志の表象として、肉体をコントロールしようとするわけである。つまり、人間は肉体に憑依した意識体ということになる。その為に、外象としては、「精(せい)」は肉体となり、「気」は心情となり、「神」は念(あるいは唸)となって、三重構成で、意志の伝達作用を司る。これに霊魂本体を加えれば、四重構造となる。この四重構造は、普段は「神」は眠らされ、肉体と「気」を形成する心が結んで生活現象を起す。これが「生きている」という状態である。

 しかし、肉体には耐久年齢があり、多くは百年以内に寿命が尽きるようになっている。尽きれば、まず、心を司っていた「気」は、肉体である「精」と、魂である「神」を分離させ、解き放つ。これが「人の死」であり、肉体は宇宙のそれぞれの元素に還元されていく。また一方、解き放たれた霊魂は、意識を伴って、意識体となり、意識に相応しいところへと帰納して行く。

 帰納先はそれぞれに、生前の生き方の思考で異なる。悪を好む者は悪の階層へ、善を好む者は善の階層へ行き着くことになる。そして、極端な悪に偏って、悪に対する悔悟の念や、良心の呵責(かしゃく)が無ければ、それはそれなりの悪が棲(す)む階層へと行く事になるであろうが、9割方の多くの庶民の場合は「極楽行き」となる。
 換言すれば、極楽以外には行けないから、また庶民であるとも言える。

 庶民の心情には、些(いささ)かの人情の機微(きび)があり、反省する気持ちがあり、悪事に対して悔悟の念が湧(わ)き、常識と分別知(ふんべつち)があり、悪事を働いたことに、良心の呵責に嘖(さい)まされる善良な心を有している。こうした心を持つ階層こそ、「庶民の典型」であり、生まれながらに極悪非道の心を有しない。したがって、その殆どが、間違いなく「極楽行き」となる。

 しかし、問題は此処からである。極楽と言っても、種々、広範囲に亘(わた)って存在する世界で、ここはピンからキリまである。恐ろしく階層化された世界である。思考別・意識別にグループ化され、上下に階層化されている。

 神の意志に添い、神と共にありたいという想念を抱いた者は、極楽と言う名の「天国」に行く事になる。また、神の意に添わず、神とは異なる極楽を、一方で「地獄」と言う。
 多くの庶民は、こうした「地獄的な極楽」あるいは「極楽的な地獄」へと落ちて行くことになる。そして、此処が「幽界」であり、「霊幽界」である。オカルト書籍では「精霊界」とも呼ばれている。しかし呼び名は問題ではない。

 庶民の「極楽行き」は、次のように決定される。
 庶民と言うのは、本来が無垢(むく)な存在であり、同時に無知でもある。権威の言に弱く、無力な小市民的善人であり、大した悪事も働けず、支配する側ではなく、支配される側である。その性質は従順であり、為政者の政治スキャンダルにも沈黙と忍従を守り、政治や世界動向に興味を示さず、スポーツ観戦やレジャーや芸能界情報を楽しみ、また、支配者や権力者から、一般には微生物視される階層である。

 しかし、この階級こそ、「愛すべき微生物」であり、権力者や支配者を支え、あるいは彼等の犠牲になり、常に酷使される側にあって、一握りのエリートに奉仕させられてきた。搾取(さくしゅ)され、酷使されても、黙々と勤め、沈黙と忍従を強いられた底辺階級であった。「愛すべき微生物」は換言すれば、一握りのエリートの生贄(いけにえ)になって、踊らされてきた存在でもあった。

全共闘の時代、日本中に革命の嵐が吹き荒れた。
 当時の「団塊の世代」の多くは、革命分子の底辺の細胞として否応なくデモに借り出され、画策者の意図に乗せられて現場での階級闘争を企てたり、ベトナム戦争の時には、ベトナム反戦のフォーク・ソング集会に借り出されて走狗(そうく)となり、細胞の末端としてポスター貼りやビラ配りに酷使された。一握りのエリートに無条件で奉仕されられた、まさに「愛すべき微生物」だった。

 運動を画策した組織の旧七帝大の学閥エリート達は、末端の革命分子(多くは二流以下の三流・四流の学閥の学生が主体で、その他、民青所属の高校生と中小の労働者。中小の労働者は社内で侮蔑を込めて「アカ」と呼ばれていた)をデモ現場で戦わせ、自分は同士と呼ばれる女と、ラブホテルにしけこんでいた。そしてその女は夫婦気取りというより、情婦のそれであった。まるで毛沢東の江青の如し……。

 民青幹部のキャップといわれる連中は、同盟員の女子高生の中から、いち早く美少女を探し出して、わが所有物として独占していた。
 進歩的文化人は若者向けの『朝日ジャーナル』などに、「ソ同盟礼賛」の左翼論文を掲載し、若者を魅了していた。そして、その後、彼等は民放のニュースキャスターになったり、NHKの解説員となり、ブルジョワ路線を歩いた。
 階級がないと信じられていた世界にも、やはり階級は存在していた。末端は常に酷使される運命にあった。

 革命分子達はその後、大学を卒業して、企業に就職したが、今度は資本家から酷使され、過労死や突然死で斃(たお)れる、皮肉な二重苦の人生構造の中で生きなければならなかった。
 青春を振り返って、あの赤旗の波で日本中を覆う、革命の嵐は、一体何だったのか、そう思わずにはいられない筈であろう。搾取は資本家の中だけに存在したのでなく、革命運動の中にも大いなる矛盾と、大いなる搾取があった。
 人民革命、プロレタリア独裁といえば聞こえがいいが、結局一握りのエリートの為に奉仕させられた末端分子は、生贄になる以外、道は残されていなかった。これが共産主義という政治システムの虚構理論の正体であった。

 
 赤旗一色で荒れ狂った時代、アメリカに対する抵抗は少なからぬものがあった。アメリカを「帝国主義」と一喝して決めつけ、それを徹底的に攻撃し、批判したのは全共闘の階級闘争を企てた若者達であった。当時の政治的な思考は、左翼社会主義的な考え方が主流になり、「祖国ソ連」を叫ぶ学生や労働者が日本中に充満していた。「共産主義者であらざらねば、人にあらざる」が、当時の学生や労働者の流行語であった。

 「祖国ソ連」こそ、正義と信じ、世界の中で、ソ連やそれに付随する国家のみが、「正義」を展開していると信じていた。ソ同盟だけが、一等も二等も他の国家より上と信じていた。こうした論理の下(もと)に生まれたのが、進歩的文化人が標榜(ひょうぼう)する、「ソ連の核は正義である」が、「アメリカの核は悪である」という流言だった。当時の若者は、これを本気で信じていた。「核」にも、善悪が存在していたのである。
 それだけ、当時の若者は純真であり、また、進歩的文化人の巧みな言葉に操られていたともいえる。

 しかし、こうした反米を叫ぶ学生や労働者も、デモの後ではジャズ喫茶や歌声喫茶に集合し、アメリカが発祥のロックンロールやフォークソングに現(うつつ)を抜かした。反戦フォーク集会では「毛沢東語録」を右手に高らかと掲げてフォークソングを歌い、あるいは西部劇を見て、ガンマンさながらだった。その日の話題といえば、プロ野球やプロレスを話題にした。唯一つ違っていたのは大相撲の話題だった。周囲を見渡す限り、どこもここもアメリカ的なもので溢れていた。

 一方で「ソ同盟」を叫びながらも、日常的な生活指向は、何から何までアメリカ的であった。横文字文化に汚染され、アメリカ文化が反乱したという状況であった。食卓を見れば、テーブルの上は、星条旗で埋め尽くされ、アメリカ食品が所狭しと並べられた。ハンバーガーやコカ・コーラなど、批判の対象であったアメリカ的な食品を、多くの若者は何の抵抗もなく口にしていた。
 それだけ当時の若者は、思考的に錯綜(さくそう)し、矛盾にまみれた現実を、矛盾と気付く自覚症状もないまま、「ソ同盟」に入れ揚げていたことになる。

 『朝日ジャーナル』『諸君!』『前衛』などのイデオロギー的な、左派誘導の洗脳雑誌を見ても、進歩的文化人に操られていた観が強かった。
 こうしたものが若者に支持された裏には、当時の反米的な考え方に反抗する、強い者への憎しみであったかも知れない。憎しみの対象は、常に権威や強大なるものへ集中した。その限りでは、行動右翼の掲げるスローガンの「大企業粉砕」もの、その域を出なかった。どこにもここにも、強者への憤(いきどお)りの論理が働いていた。

 ところが、旧態依然に、アメリカに憧(あこが)れる若者の心理は、矛盾甚だしきものがあった。
 当時の若者達は、アメリカ西部劇の単純なストーリーに痛快性と勧善懲悪(かんぜんちょうあく)な感想を持ち、人種問題も何処吹く風で、白人の総(すべ)てを抵抗なく受け入れ、無差別に拳銃を撃ちまくり、悪党を大勢を殺すヒーローに拍手喝采を送り、肺ガンを気にせずに蒸しまくる葉巻姿のヒーローをカッコいいと思っていた。しかし、一方で「ソ同盟」を標榜し、一段とアメリカに憧れの眼を注いだのは、一体どうした理由からだったか。
 映画が、一種の誇張で作られているという原則も忘れて……。
 デモで暴れまくった一部の若者は、アメリカ文化に憧れて、その後、アメリカン・ドリームを夢見て渡米する者も少なくなかった。

階級闘争とは、一体誰の為の戦いだったのか。限りない暴力に明け暮れ、群集心理で操られ、破壊に明け暮れた暴挙は、やがて内部分裂を展開していくことになる。
全共闘が猛威を振るったあの時の行動は、暴力の捌け口の狂気だったのか。
 
 しかし、団塊の世代も、定年後の人生は高が知れている。退職者の約80%中小の出身者だ。
 運良くガン発症にもならず、痴呆でボケもせず、寝たきりにもならず、あるいは植物人間にならず、正気で生きられたとしても、せいぜい15年か、20年ほどであろう。したがって、「よりよき死」を得る為に、残りの人生をそれに充(あ)て、その準備を始めなければならない時期に達しているのではないか。
 あなたは、もうすぐ死んでいく、自分自身の死に、どれほどの心の準備を整えているのか。

 愛すべき微生物的庶民は、青春の頃、革命エリートに奉仕させられ、就職後は資本家から搾取(さくしゅ)され、あるいは企業から酷使され、こうした状況下に有りながらも、ただ黙々と働いた。

 多くは、沈黙を守り、権威筋の言には弱く、最新の流行やファッションを追いかけ、仕掛けられて踊らされ、贔屓(ひいき)の歌い手が出演するライブハウスには欠かさず詰め掛けた。あるいは野球や、サッカーのサポーターとして観客席に居座り、同じファッションをして気勢を上げて憂(う)さ晴らしをし、繁昌店の前には長蛇の列を作り、「お客さまは神様です」とおだてられ、一時(ひととき)の優越感を味わい、パチンコや競馬などの小ギャンブルで、五万とった、十万とったと喜々して、一喜一憂に浮き沈みした。マイホームやマイカーのローンを払うために働き、銀行やクレジット会社に購入代金を返済する為に働き、意味不明な税金や、言掛り的な税金を「しかたがない」とぼやきがら税務署に納め、額に汗をし、あるいは肉体・頭脳労働者として心身を酷使した。その見返りが何かも分からずに……。

 こんな愛すべき庶民が、死後、霊界に行くとしたら、絶対に「極楽」以外にはあり得ないだろう。
 その為に、あなたはどんな心の準備をしているのか。あなたにとって、死に逝く準備とは何か。

 また、沈黙と忍従とを強要され、長い物には巻かれろ主義で、上下の差こそあれ、お人好しな人生を歩いた。一方、某生命保険会社が公表する、「一件当たりの葬儀代が平均200万円相場」という言を信じ、中には悪徳な葬式屋に騙されて、800万円も1000万円も吹っかけられる親族もいた。こんな家族に囲まれた人の、死に逝く先が、決して地獄などではあり得ないだろう。
 等しく、平等に、死した後は、多少の上下はあるものの、挙(こぞ)って「極楽行き」である。これこそ愛すべき微生物への餞(はなむけ)であろう。その他大勢の「庶民」という階層の哀悼である。しかし庶民こそ、搾取される媒体でもあった。

 そして、その習性を探れば、「可もなく不可もない」と言うところであろう。大方の人は、多種多様であり、その行動は混沌(こんとん)としていた。
 この階層には多種多様の人種がいて、個人個人の行動の予測は不可能であるが、しかし、混沌としながら、時間の経過とともに、ある特異点に達すると、そこに集結する習性がある。これがその他大勢の庶民の実態である。いま、予測不可能な微生物は、カオス理論の説く、特異点に向かって動き始めてたといっても過言ではない。総てが善良な市民だった。

 これを評するならば、地獄に落ちるほど悪人ではないが、かといって、神に準ずるほど立派でもないというところであろう。
 所謂(いわゆる)、中程度のランクにいて、金持ちでも貧乏人でもない自称「中流意識」を持ち、生きていた時もこの階層に属し、死した後も、「中程度の霊界」に逝くと言うことだ。

 この中程度の霊界こそ、「極楽」であり、一般的な人の死後の世界は、大方が此処で暮らす事になろう。しかし、「極楽」とは名ばかりであり、ここは名付けて「極楽と言う名の地獄」なのである。

 大方の、中途半端な無神論者の行き先は、神仏は信じないが、クリスマスには室内にクリスマスツリーを飾り、大晦日から元旦に掛けては神社仏閣に詣でて、入学試験の前ともなれば合格祈願する為に神社仏閣などで合格祈願の絵馬を奉納し、家を建てる際には地鎮祭を行ってお払いをし、厄年には律儀に厄払いの為に神社に詣で、それでいて神仏の存在は信じないと言う一般庶民が行くところが、つまり「極楽と言う名の地獄」なのである。

 無神論者の中には、頑固な物質主義の唯物論に凝り固まった人もいよう。こうした人達が異口同音にして云う、合い言葉は、「死後に霊界なんかあるわけがない、人間は死んだら、それまでよ」とか、「死亡が確認された時点で、意識は総て消滅する」という暴言である。しかし、無神論者の生前の意識は、死後も、そのまま残留し、霊界へと移行して、霊界で目覚める事なく、意識を眠らせて、何十年も、何百年も暮らす事になる。勿論、ここで言う「何十年」や「何百年」は、地球時間での時間単位である。

 このような地球の時間単位で、眠り続け、意識を持つ事もなく、意志も表示せず、薄暗い幽界の、大きな木の暗い根元で、ずっと蹲(うずくま)り続ける。こうした無神論者や唯物論者、あるいは唯心論に凝(こ)り固まった念仏宗徒は、死した後、冬眠する動物のような地縛霊(じばくれい)に、あるいは雪の泥濘(ぬかるみ)を何処までも歩行する浮遊霊(ふゆうれい)のように、「極楽と言う地獄」で暮らす事になる。

 思考や唸(ねん)は、そのまま意識体として、死後も引き摺(ず)るのである。病気が酷くて痛ければ、痛いままに、あるいは何事かに苦しみ、その苦悩が募ったまま死ねば、苦悩の唸のままに、死後の世界へと旅立つことになる。死の瞬間の意識は、何処までも残留する。

 仏道では、「生まれ変わる」ことを輪廻(りんね)と言う。
 生体と命体を持った生命体は、生死を繰り返しつつ、古い肉体が死ねば、その肉体の殻(から)を脱ぎ捨てて、新たな肉体を貰(もら)い、生まれ変わって来る。これを仏道では「輪廻転生(りんねてんしょう)」と言う。
 しかし、「輪廻」は、何もこうした輪廻ばかりではない。

 「生まれ変わり」が出来ない輪廻もある。これが、「憑衣の輪廻」である。
 人間は、誰でも死を免れない。死ねば霊界に行く。霊界を全く信じない人も、霊界に行く。生前「死ねばそれ迄よ」と豪語した人も霊界に行く。「死後、意識なんかあるものか」と、自然科学的な言を声高(こわだか)に吐露(とろ)した人も霊界に行く。無神論者であろうと、唯物論者であろうと、唯心論者であろうと、「生」の後は、「死」が待っている。必ず死ぬ。死ねば霊界に行く。この事だけは、事実だ。何人も否定できないし、免れる事も出来ない。死は必ずやって来る。死ねば肉体は失われる。肉体は失われても意識は残る。 ただ、今日の自然科学では、死者の意識が物理現象として観測されないだけだ。

 それは波調(霊的波調)が違えば、その波調はキャッチできないのと同様だ。
 AMラジオで、FM電波は捉えられない。FM受信機で、SHFの電波は受信できない。それぞれに周波数が違うからだ。
 素粒子の世界では、光までしか測定することが出来ない。それ以上に極小のエレメントは測定不能である。それはトップクオーツが難解な物であるように……。

 今、生きている人は、それが五年先か、十年先か、二十年先かは分からないが、必ず死して霊界に行く。そこで意識が残留する。
 人は、誰一人として「霊界行き」が免れない。そうであるとするならば、私たちは生きている間に、その事をしっかり学んでおかなければならないのではないか。しかし、これを真摯(しんし)に学ぶ現代人は少ないようだ。

 生前、「霊界なんかあるものか」と断言した人も、死後、霊界があったことに驚き、困惑する。それにより、地縛霊か、浮遊霊になる。
 霊界の最下位の幽界や霊幽界は、此処に来て、救われずに、迷い彷徨(さまよ)う不成仏霊がわんさといる。何の希望も、目的もなく、迷宮と化した幽界から一歩も出られず、目指す目標もなく、長期に亙り、長き日々を無意味に過ごす霊。絶えず飢餓感に嘖(さいな)まされ、喰っても喰っても喰い足りない霊。残念無念の復讐心に燃えた霊。ストリートファイターの喧嘩師(けんかし)を自称し、好戦的で阿修羅(あしゅら)の如き闘いを好む霊。こうした現実を、オカルト思考の戯(たわむ)れと一蹴してはいけない。

 これらの幽界に居る不成仏霊と交流し、現代人は生きているのである。交流するから、霊体質や霊媒体質の人は、不成仏霊の唸(ねん)を受けて、「霊障」と言う、肉の眼で確認された災いが顕われる。精神病や准精神病と考えられている神経症や鬱病(うつびょう)も、一種の霊障と考えられる。

 精神科医でも、神経内科医でも、精神障害を起している患者を投薬によって救う手立ては熟知していよう。ところが何故、この種の病気を発症するのか、その病因については説明できない。
 その背後には、間違いなく、不可視世界での禍(わざわい)が関与しているからである。憑依という現象が起こっているからだ。だから眼に見えないものは説明できず、未だに、「なぜ発症するのか」という素朴な質問には答えられない。しかし、自然科学は眼に見えないものを認めない。

 しかし、精神障害への予防は可能であろう。
 食餌法(しょくじほう)に誤りのある人は、食肉や乳製品やその他の美食の、動蛋白摂取により、霊的波調を粗(あら)くする。
 更に、現代栄養学の言を頑迷に守って、「肉と野菜をバランスよく食べる」のスローガンのもと、これを実行して、食肉に含まれる第二級アミンと、野菜に含まれる硝酸塩を体内に取り込み、硝酸は唾液中で亜硝酸に還元され、二級アミンは亜硝酸と反応して、ニトロソアミンを合成し、その結果大量のジメチルニトロソアミンを生成させる。ジメチルニトロソアミンは、胃ガンなどをはじめとする発ガン作用が大きいので、ガンを患うことになる。
 これこそ、憑衣の典型的な現象ではないか。ガンこそが憑衣現象である。

 また、精神面においては、精神分裂病を始めとする精神障害や、神経症を始めるとする心理的な原因によって起る精神の機能障害に出くわす。
 あるいは、交通事故、火災、殺人、自殺、その他の、前途に何が起こるか予測できない不慮の事故や、災難で突発的に死に至らしめられる霊の中には、死の瞬間の衝撃が、あまりにも激しかった為に、肉と魂の引き離しが急激に行われ、そのショックが転じて、金縛(かなしば)り状態になり、動けずに地縛霊化する。

 つまり、動けない苦しみの波調が、生きている何者かへ、訴えを起こすのである。ここに「もう一つの輪廻」の実態がある。
 人間は、現象人間界で、生きながらにして、先に他界した「極楽と言う名の地獄」で苦しんでいる人の唸(ねん)を、もろに受けて暮らしている。そこで苦しんで居る人の霊の唸に、取り憑(つ)きを受ける。そして、取り憑きを受けた人は、取り憑かれたまま、憑衣ガン、憑衣精神病、憑衣神経症などの病気、あるいは憑衣交通事故、憑衣火災や憑依殺人などで、憑かれたまま、苦しんで死んで他界する。

 更に、他界したその人の霊は、「極楽と言う名の地獄」で、幽界や霊幽界に居て救われず、不成仏霊の儘(まま)、次の世代の子孫に取り憑いて、その子孫を苦しめる。その子孫が、やがて他界して次の世代の子孫に取り憑いて、また、その子孫を苦しめる。
 これは苦しむ人間に魂があればこその因縁継続であり、それは代々に亘(わた)って繰り返され、「不成仏の霊の苦しみ」は、永遠に子孫に受け継がれていくのである。これこそ、まさに「極楽と言う名の地獄」で苦しむ、「輪廻」の典型ではないか。

 このように、生きながらにして、幽界や霊幽界の波動に汚染されてしまった人達は、その精神世界の中で生活している自らの霊魂も、こうした「極楽と言う名の地獄」の唸に包まれてしまうのである。
 したがって、「食の化身」に間違いがあった人は、霊界入り後、殆ど助かる見込みがなく、「極楽と言う名の地獄」で、永遠に暮らす道程を、生前の人間界で決定していると言っても過言ではないようだ。

 ここに《予定説》の現実があり、「極楽と言う名の地獄」に行く人は、既に、精神世界の汚染物質に汚染された人であると言えよう。
 したがって、人は生きている間に、この事に対する「心の整理」を実践することである。霊界と言う世界は「想念の世界」であり、「波調の世界」である。その想念は無限に分かれ、その波調は無限に存在する。つまり、「神の世界」が解れば、「神の道」が解り、その解った分だけ、「自分が解る」のである。

 そして、更に特記すべき事は、霊界には時間や空間の概念がないことだ。また、あるにはあるが、人間が意識体として、地上を移動して居た時のような、時間や空間とは全く異なっている。つまり、霊界における時間や空間は、「状態の変化」を言うのであって、地上界の様々な想念波調が入り混じる、地上界での肉体の殻(から)を被った、人体を有した時の状態とは、全く異なるという事である。

 つまり、「肉体が有るうちに“改心”して、心の整理をし、霊界の事を知る必要がある」ということである。自分が死んで肉体を失い、不成仏霊になってからでは“改心”ができないということである。
 意識体と言う霊体は、自分の属する霊界の階層以外、知らないということであり、階層が違えば、何も分からないという事である。それは地球上に棲(す)む私たち日本人が、日本以外の外国について勉強し、民族や文化について知る事はできるが、これが異次元の霊界になると、殆ど分からないのと同じである。

 現世は三次元波調で成り立っているが、異次元の波調は三次元での波調では、これをキャッチすることができないのと同様である。次元が異なれば、波調も異なるのである。したがって、霊界の最下位に居る幽界人の中には、自分が棲(す)んでいる場所を「神界だ」と勘違いしている者も多いのである。
 その為、幽界の住民となった霊の中には、自分が神界に属していると、勘違いしつつ、既に「神の地獄」に墜(お)ちているのである。

 この事は、自分の金を持ち、それを自分の為に貯え、少しばかりの金持ちになると「金の地獄」に墜(お)ち、新興宗教などに凝(こ)って、神に囚(とら)われると「神の地獄」に墜ちているのである。
 また、念仏宗のように、阿弥陀如来の膝元に縋(すが)って、極楽浄土を一心に唱え、それを念じると、既に「極楽浄土と言う名の地獄」に墜ちているのである。

 念仏宗は念仏を唱え、阿弥陀如来を信仰しているつもりでも、実は阿弥陀如来に囚われた狭い仏を自分の心の中で作り出して、苦しんでいるのである。念仏を唱えて、これを信仰し、苦しんで居る人は以外に多いが、本人は念仏三昧(ざんまい)に明け暮れ、苦しんではいないと思っている。これこそ、「苦しみ」を歓喜(かんき)と捉えているのである。何とも自虐的(じぎゃくてき)ではないか。
 その意味で、「地獄信仰」を作り上げた法然(ほうねん)も親鸞(しんらん)も、地獄に行ったことになる。

 こうした「苦しみ」を捉(とら)えた人は、自分では阿弥陀如来を一心に、心に念じ、それを心より信じたことで、自称“改心”したと思っている。しかし、実際は改心どころか、逆に霊的な進化を妨げ、神界からの直流波を阻害して、外流の影響を強く受けてしまっている。
 方便の世の中は、既に終っている。そして、宗教すら終わっている。その事を知らずに、自宗の教義だの、教理だのを言い募り、坐禅だの、行法だのと豪語して優越感に浸ったり、これらに固執することこそ愚であり、それに救いを求める時代は、既に終ったのである。

 しかし、世の中の多くの人は、囚われた神に縋(すが)り、囚われた仏に縋っている。また、それ以外の新興宗教を信仰する人と言うのは、その団体やその宗教こそ、唯一絶対で、世界一のものであると思い上がる傾向にある。その為に、宇宙の創造神が、「最終的な人類救済の為に、わが宗教、わが教団に降りた」と主張する者が少なくない。新興宗教を信じる多くの人は、「太鼓洗脳」や「不眠洗脳」、「河原洗脳」や「断食洗脳」を受けて、このように主張する。

 このタイプの信仰をする人は、創造神の何たるかが少しも分かっていない。
 こうした主張する人間の多くは、信者獲得の為に教団の走狗(そうく)となり、奔走するその姿そのものが、実は自分で眉唾物(まゆつばもの)であると証明しているようなものである。

 確かに、大宇宙の創造神は存在する。正確に言えば、「存在するらしい」としか言えない。何故ならば、創造神と言う巨大な神は、地上神界の主宰神(しゅさいしん)である、国常立大神(くにとこたちのおおかみ)でさえ、お分かりでない。神であっても、大神、それも巨大な宇宙創造神となると、次元が全く異なって、大神と雖(いえど)も、次元が違えば知る事すらないのである。

 霊界は、あらゆる階層が入り乱れ、複雑に絡み合う世界であるから、その意識体も、肉体の殻(から)を脱ぎ捨てた後にも、例えば、論争好きな人間は、死した後も激しく論争を遣(や)り続け、階級闘争を繰り広げている。
 また、戦国時代の戦いに明け暮れて、戦場で斬り合って死んだ侍の霊は、地上界で、数百年の時間的な隔たりを持ちながらも、今もなお、斬り合う相手を探して戦い続けている。これはまさに阿修羅道(あしゅらどう)であり、争いの絶えない世界に意識を置いて、なおも飽くなき戦いを繰り広げなければならない。

 あるいは糸紡ぎのようなことを、死した後も、来る日も来る日も、何十年、何百年と続けている霊もいる。つまり、こうした意識体こそ、人の落した「唸」であり、この唸は「死」を悟らなければ、再生する事なく、何百年も同じ事を繰り返している。これが不成仏霊の実体である。

 よく活きて、霊学をよく勉強した人は、宇宙の霊的構造を悟り、それぞれの意識エネルギーが循環することを知るが、物質界の色や欲に魅(み)せられて、そればかりを追っかけた人は、永遠にその中に閉じ込められる。此処に《予定説》の説く、「永遠の命を得る人」と、「そうで無い人」の差が生じるのである。そして、その差はいつ生じたかと言うと、「神が予(あらかじ)め、定めた宇宙開闢(かいびゃく)の時から」と言うのである。
 その意味からすれば、改心する人も、予め神から予定されていた事になる。


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