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西郷派大東流と武士道

■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)

●六波羅探題政権に代わる鎌倉・室町期の武士団

 平氏の六波羅探題(鎌倉幕府が京都守護に代って、六波羅(ろくはら)に置いた機関であり、最初は「六波羅守護」といわれた)政権は、中央政界内部における武士の発言権の強化と云う形で具現化されたもので、その内部には、地頭(じとう)の設置と云う新政策も含まれていた。
 しかし、それは普遍的に制度化されることはなく、結局、武家政権成立への重要な役割は果たしたが、当時の平氏政権は、まだまだ武家政権とは云い難いものであった。武家政権の確立は、鎌倉幕府成立以降の事である。

 平氏政権を倒した源頼朝は、地方武士を組織する為に、これまでの武士団の中に制度的な主従制を設け、「御家人制度」を作り上げた。
 挙兵以来、頼朝は自らの許(もと)に馳(は)せ参じた武士達を自己の家臣として迎え入れ、その私領の領有を保証する代わりに、平時や戦時に関係なく、「滅私奉公(めっしほうこう)の義務」を負わせて、強力な主従関係を結んだ。

 頼朝の家臣団は、特に身分が尊重され、「鎌倉殿の御家人」とか「関東御家人」と呼ばれ、厚遇を受けた。そして御家人は私領を拝領され、更に功績のあった者には、新たな領地を恩賞として与えると言う制度を設けた。
 また御家人は、主人が下さる恩賞を「御恩」と称し、これに対して、御家人が主人に報いる忠誠の奉仕が「ご奉公」であった。

 御家人の奉公には、京都大番役、鎌倉番役、臨時軍役などであり、恒例ならびに臨時には、関東公事(かんとうくじ/鎌倉公方の意味で、鎌倉府の長官として関東を支配した足利氏の称で、尊氏の子・基氏に始まり、執事上杉氏を関東管領に任じて統治)があった。このように恩給制を巧みに取り入れて、これを媒介として主従関係を緊密にして行ったのである。この支配体制が整うと、御家人体制にあっては、将軍の権威が極めて強くなり、将軍の一方的な身分支配が確立される。言葉を換えれば、将軍の、御家人に対する、巧妙な「奴隷化」 であった。

 この支配体制は、ヨーロッパの封建社会を覗いてみると、こうした奴隷化主従関係の形は殆ど見られず、ヨーロッパに於ては、主人と従者がキリスト教的な契約のよってその関係を結び、鎌倉幕府に見られるような双務契約的な関係は、むしろ薄いものであった。
 この意味で鎌倉幕府の幕藩体制は、御家人制度に於いて、奈良・平城京の古代的な性格が見て取れるのである。

 武士の主従制は、鎌倉幕府の発生と時を同じくする。この主従制は、自然発生的に生まれたと言うより、意図的に画策された規範や慣習がその基礎となり、御家人制度の政策を遂行したと思われる。
 しかし「承久の乱」(承久三年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を図って敗れ、かえって公家勢力の衰微、武家勢力の強盛を招いた戦乱)を経過した頃から、訴訟も頻繁(ひんぱん)に起り始め、武士社会の道理を確立する為に、貞永元年(1232)八月に『関東御成敗式目』(またの名を『貞永(じょうえい)式目』)五十一カ条が制定された。

 『関東御成敗式目』は、北条泰時(ほうじょうやすとき/鎌倉幕府の執権。承久の乱が起るや叔父時房とともに京都に攻め上り、鎮撫(ちんぶ)の後、六波羅探題となり、父の没後、執権となる。1183〜1242)が、「承久の乱」後の、当面する政治や法制の諸問題に対処するために編纂(へんさん)した五十一ヵ条からなる法典であり、室町時代に至るまで武家の根本法となった。

 「承久の乱」後、この職は、北条氏一門から選任され、大事は鎌倉の指揮を受け、小事は専断した。北・南に分れて駐在した六波羅探題は、元々は朝廷の監視および尾張(おわり)・加賀(かが)以西の諸国の政務・裁判を総轄(そうかつ)する為のものであった。そして『関東御成敗式目』の登場によって、武家の根本原理が制定される。
 これによって泰時は、公武双方から、後代までに亘って名政治家として評価されたのである。
 また、『関東御成敗式目』は、江戸時代には習字の手本として、民間に普及した経緯を持っている。

 生活に基準や風習が異なる武家社会では、律令や格式(きゃくしき)とは別に、武家社会の恒例行事を納めた基本法が『関東御成敗式目』であり、これは室町時代に至っても尊重された。戦後期の戦国諸大名の家法にも多大な影響を与え、これを手本として、各々の大名家で家訓がつくられた。そして江戸時代に至っては寺小屋などで、児童の教財にも使用された。

 さて、武家社会を貫く原則は主従制であったが、鎌倉期の武士団を見てみると、主従制と云う「縦の原則」の他に、同族結合と云う「横の原則」の結合が走っており、双方が相乗効果を齎(もたら)す特異な主従関係であった事が分かる。

 当時の武士社会では、所領の分割が相続と云う形で行われ、女子にも分割譲与がおこなわれていたが、所領を分割して、庶子家(しょしけ)が独立しても、全く分離することはなく、同族の間に強い団結力を保持していた。この同族全体を「一族」とか、「一門」と呼び、その一門の嫡家(ちゃくか)の家長を「惣領」(そうりょう)といい、惣領家からみて庶子家の家長を「家子」(いえのこ)と称した。

 家子は惣領家の従者ではなく、惣領との間には親族としての横の繋(つな)がりを持っていた。おのおの家の家長は、各自の郎党以下の武士団を率い、惣領の許(もと)に結合して、一族としての武士団を形成していた。当時、こうした一族の団結を「党類」とか「伴類」と称したが、これが惣領家から見て、親族の武士団を指したものである。
 当時の武士団は、同族的結合によって武力を維持し、また一族の所領の支配を行ったが、一族の同族的結合を「党」と称し、軍事行動や大番役、ならびにその他の御家人役勤仕(ごんし)も、一族単位で行われた。

 この党的結合は生活形態としての同族結合を重視した上に、更には、郡司組織としての武士団の結合がは重複され、鎌倉幕府の支える基盤を作ったのは、同族的武士団であったことは明白な事実であった。
 そして当時の幕府は、強力な統制力を持つ惣領を御家人制度のもとに組織することで、統制下にある武士団を把握する事が出来、個々の武士団の発展によって、幕府の基礎は拡大して行った。

 しかし、これは同時に、分割相続により、所領を配分された各庶子家は、各々独自の所領支配を目論み、領主制は発展するに伴い、惣領の外に独立しようとする動きを強めた。これは庶子家の経済的基盤を拡大する目論みであったが、一族の統制を破る強力な庶子家が出現し、同族的武士団組織の解体に繋がるような動きが見え始めた。
 これにより、鎌倉幕府は存立の基礎が脅(おびや)かされ、危うくなって来る。そこで幕府が思い立ったことは、惣領制の維持に努めると共に、女子の「一期分(いちごぶん)の制」をもって、女子に対しては、所領の譲与を「一生のみに限る」と限定し、死後は元の惣領に返却することを定めた。

 しかし室町時代に至ると、一般庶子家は、家臣団の中に組み入れられ、農村から新たに成長した国人(こくにん)や、国衆(くにしゅう)と呼ばれる小領主が地縁的に結合して国一揆(くにいっき/在国小領主たちが、荘園領主や守護に対抗して興した一揆のことで、山城国一揆はその代表格)を形成した。
 荘園領主に対しては、年貢減免を要求して反抗し、あるいは段銭(たんせん)賦課(ぶか)などの問題で、守護に対立する農民層の矢面に立つのが国人であった為、彼等は相互の団結を強固にし、国一揆は益々強大なものになって行った。
 ちなみに段銭賦課は、段銭奉行がこの役職を司り、この奉行は室町幕府の要職であった。

 一方、守護も農民統制の為に国一揆と連携して、勢いに乗る守護領国の分権的権力が強化される傾向が見られた。この結果、中央権力に於ては、分権的傾向が強まる守護と、専制化する将軍権力と衝突する現実が生まれるようになった。室町幕府の威厳は、守護大名との相互連携と、その牽制(けんせい)の上に成り立っていたのである

 将軍権力としては、守護大名の強化ならびに育成を図らねばならず、また一方に於いて、守護の力が強大化すると地方分権が進展し、中央政権としては双方の抑止力の働きかけに、内包する矛盾を抱えていた。そして室町幕府の特質が此処にあり、またその限界が此処にあった。


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