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西郷派大東流と武士道

■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)

●室町幕府の限界と戦国時代への突入

 室町期に入ると、守護は国一揆の反抗を抑えようと躍起になった。
 この反抗を抑えた守護は、その後、強大化し、また、抑える事ができなかった地域では、叛乱状態の儘(まま)で放置されることになった。こうして幕府権力は統制する力を失い、その実体は衰退の一途を辿った。更に、「応仁・文明の大乱」(応仁元〜文明9年(1467〜77)で、幕府の屋台骨は大きく揺さぶられることになる。

 一般に「応仁の乱」と云われるこの大乱は、足利将軍家および管領・畠山長政(はたけやまながまさ/室町中期の武将。畠山持国の養子となったが、持国に実子義就が生れ、家督を争い、細川勝元の助けを得て、応仁の乱の発端を作った。のち幕府の管領となったが敗死。1442?〜1493)と、従兄弟の斯波義就(しばよしなり)の両家の相続問題をきっかけとして、東軍・細川勝元(ほそかわかつもと/室町時代の武将。三回にわたって管領となり、将軍足利義政の継嗣、畠山家の内紛にからんで応仁の乱を起し、東軍の主将として西軍の山名宗全と争った。竜安寺を創建。1430〜1473)と西軍.山名宗全(やまなそうぜん/室町中期の武将。嘉吉(かきつ)の乱で、播磨・備前・美作の守護であった赤松満祐(あかまつみつすけ)の旧封を得て、一族で八ヵ国の守護職を併す。後に細川勝元と結託して畠山氏に当ったが、将軍義政の妻富子がその子義尚を託したことから、足利義視を擁する勝元と対抗し、応仁の乱を起した。1404〜1473)とが、それぞれ諸大名をひきいれて、京都を中心に対抗した大乱である。京都は戦乱の巷となり、幕府の権威は全く地におち、社会や文化を含めて大きな時代の画期となった。

 また「応仁の乱」の結果、九州や奥羽のような遠隔地を除き、全国各地では守護大名が没落を始めていた。そしてこれに代わって、諸国の国人層が勢力を得て擡頭(たいとう)し、戦国大名として全国に群雄することになる。そして時代は、風雲急を告げる「戦国時代」へと突入する。

 南北朝期から戦国時代に至る迄の間、旧来の土地領有体制であった荘園制は崩壊し、集村的な村落が発達していた。この集村は、「村」としてのまとまりを持ち、荘園に代わる新しい土地の単位経済運営を行っていた。
 こうした集合体の村を、「惣」もしくは「惣村」といい、数個の惣村が集合・連合して、これは「郷」と呼ばれるようになった。これがやがて「郷村」と呼ばれるようになり、郷村制の基盤となって行った。この郷村制は、荘園制とは全く異なる社会体制であった。

 鎌倉幕府の支配体制は、荘園制の上に立脚していたが、室町時代に至ると、荘園制は否定され、新たな領主制を展開しようとする武士団が在地領主となり、また、国人層が地縁的結合によって一揆を形成し、農村の形態は大きく変わろうとしていた。在地の変化と、それに伴う社会変革は、歴史的に見れば人間の欲望がこれに関与して、常に新しい価値観の変動を齎すが、南北朝期や室町期を通じて、この時代は身分制度には甚だしい混乱が起った。

 十四世紀から十五世紀にかけて、頻繁(ひんぱん)に起ったのは「土一揆」である。
 土一揆は室町時代、近畿を中心に屡々(しばしば)起った農民の一揆のことで、年貢の減免や徳政を求め、あるいは守護の支配に抵抗した一揆であった。これは支配者への抵抗ならびに、自らの境遇を変革する為の闘争などを目的とした武装蜂起であり、中世の土一揆は、室町幕府に代表される権力そのものを攻撃目標と置いたのである。

 土一揆の事の始まりは、馬借(ばしゃく)や車借(しゃしゃく)らによって起こされるが、やがてこうした者達の蜂起が農民にまで飛び火し、正長元年(1428)には、農民が大規模に団結して反抗した為、大規模な土一揆となった。これは後に「徳政一揆」と呼ばれた。

 徳政一揆は、室町時代の土一揆のうち、特に徳政令の発布を要求した一揆であり、また、勝手に「徳政」と称して、土倉や酒屋などの金融機関を襲い、掠奪(りゃくだつ)を行うこともあった。これらの一揆は、農民の地侍的な階層が農民を指導し、煽動(せんどう)して、貧困農民のエネルギーを巧みに利用し、時の権力に対抗しようと企てたものであった。

 「応仁の乱」以降、新たな勢力として起った戦国大名は、その素性が、かつての名族ではなく、守護代や地侍(じざむらい)であり、あるいは国人などの、在地土豪から成り上がった者達であった。有力な者が他を征服して勢力を強化し、次々に、他の領地を侵略して跪(ひざまず)かせるのは弱肉強食の理論から云って、至極当然の事である。弱肉強食は「戦国の世の習い」であった。
 愚者は知者から喰(く)われ、弱者は強者の餌食(えじき)になるのである。十六世紀の日本の戦国時代も、こうした時代であった。

 強大化する幾人かの国人(こくにん)並びに地侍(じざむらい)は、己の存立を図る為に、比較的有力な土豪に付き従い、これを契機に強大化した土豪は戦国大名になって行った。
 戦国大名の領地支配は、守護大名の守護領国制と多分に異なる為、戦国大名の領地支配は「大名領国制」と呼ばれた。
 大名領国制に於ては、「寄親」(よりおや)や「寄子」(よりこ)の制度が用いられ、大名の支配は家臣団やその陪臣、更には農村の内部にまで及び、その支配権は守護大名の比ではなかった。
 室町時代に登場した守護大名は、一国ないしは数ヵ国を支配して、大名化したものだった。
 ところが室町末期になり、世が騒然(そうぜん)として、風雲急を告げる戦国の世になると、大名化した守護達は次々に没落し、これに代わって新興の戦国大名が登場するに至った。

 新たな戦国大名の登場で、農村の内部にまで武士団の編成が及び、農民は足軽(あしがる)として歩兵の役を担うようになる。
 こうした軍事的統制は城郭(じょうかく)にまで及び、領国内でに自立する家臣団の支配する小城郭は反抗させない為に、次々に破壊されて行った。更に外部からの敵を防ぎ、戦国大名の支配権は一本化した強力なものになって行く。

 戦国時代後半になると、本城と支城を中心とした城下町が造られ、武士を此処の周辺に住まわせ、臨戦体制による軍事行動が可能な戦闘配備を敷いた。つまり、城の側に町が生まれたのである。外国のように、城の内側に町はできなかった。日本においては、城は城であり、町は町であった。この発想は日本特有のものであった。
 こうして戦国大名の争覇(そうは)は益々激しくなり、この間に、ヨーロッパ人より鉄砲と火薬が日本に持ち込まれる。

 鉄砲伝来は、これまでの戦いを一遍させ、戦国大名の戦闘方法は大きく変わった。従来の一騎討ちは無くなり、集団戦法が中心になり、歩兵として戦っていた農民を鉄砲で武装させて銃兵として用い、こうした戦術の発想が、その後の戦い方を大きく変えてしまうのである。そして銃兵達の戦い方が、旧来の騎馬戦にとって変わり、郎党といわれた武士団の地位を大きく向上させたのである。

 戦場で鉄砲が主役になると、城郭の構造は鉄砲や火薬の破壊力に耐える為に、厚い白壁様式に変わり、鎧兜(よろいかぶと)も鉄板を用いて強固となり、然(しか)も従来の鎧兜より薄くなって軽装となり、その分だけ、銃兵は身軽となった。これまでのような、布と漆(うるし)で固められた重い鎧兜を身に纏(まと)う必要がなく、軽装で身軽で、然も堅牢で、軽快で、素早く動けるようになったのである。
 また、長い修行を要する武芸の修練が半減され、鉄砲のみを持って、引き金を引き、正確に標的に当てると言う命中率だけが問題にされるようになった。

 武士の存在は、発生時古代の源初的存在の武士団から、中世の鎌倉時代に至ると、その構成様式は、鎌倉時代に至って大きく変貌する。
 古代の於ての武士団は、農民的なところが多く見られた。ところが鎌倉時代に至ると、御恩と奉公を基盤にする御家人が登場した。御家人は鎌倉期や室町期における将軍譜代の武士であるが、鎌倉期に於ては、将軍に奉公する御家人が登場した。

 また室町幕府下では、守護大名及び国人や国衆と云う農村富豪の子弟が参画した存在形態が発生した。そして戦国時代には、新興の在地土豪が成り上がって、「下剋上」を齎(もたら)し、戦国大名にまで伸し上がる、かつてとは全く違った武士団が登場することになる。
 下剋上によって、各地に割拠した大領主は、守護大名に代わって、戦国大名として出現したのである。そして時代は戦国時代へと突入する。

 戦国大名が群雄割拠し、争乱が繰り返されている間、ヨーロッパに於ては、十五世紀末の地理上の発見以来、大航海時代を迎えていた。次々に、ヨーロッパ人の知らない新大陸が発見された。
 ヨーロッパ諸国では大航海時代に於いて、世界各地の未開発国を植民地に従えつつ、中継貿易による重商業主義的な発展が盛んになった。

 特に、ポルトガルとイスパニアは、東洋貿易の覇者としてその鎬(しのぎ)を削るようになった。鉄砲や火薬の日本への伝来も、西洋人の重商業主義的な植民地確保の為の足掛かり政策であり、西洋は発展途上国を目指して植民地主義の輪を拡大して行った。また、日本においても、こうした西洋流の重商業主義に刺戟されて、南蛮貿易において、重商業主義的な傾向を見せ始めた。ポルトガルはマカオを通じて日本との中継貿易を展開し、イスパニアはマニラを通じて中継貿易を展開した。
 そして南蛮貿易の影響は、日本にキリスト教の伝来と布教を許したということである。

 こうした状況下、織田信長や豊臣秀吉のような、統一的封建権力を樹立しようとする覇者が現われるようになる。そして急速に擡頭して、全国を平定しようとする動きの中で、「士・農の分離」が起こり始めるのである。


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