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西郷派大東流と武士道

■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)

●士・農の分離と武士道の興り

 織豊政権における全国平定に先駆けて、最も重要な国内政策は「太閤検地」(たいこうけんち)と「刀狩」(かたながり)であった。
 太閤検地は豊臣秀吉が行なった検地である。1582年(天正十年)から98年(慶長三年)まで、全国規模に施行された。
 六尺三寸竿(さお)、一反(いったん)三百歩、田畑上・中・下・下々の四等級の石盛(こくもり)し、京枡(きょうます/豊臣秀吉が中世以来乱れていた量制の統一をはかって制定した枡)の使用等、統一した基準を用いた。この検地によって、石高制が確立され、農民の年貢が確定した。更には封建領主の土地所有と小農民の土地保有とが全国的に確定された。
 またこの検地は、土地丈量の単位を統一した為、農民は権力者より直接実情を把握されて、生産源の石高が確定されることになった。

 封建的貢租の生産源が把握された為に、一地一作人の原則が確定され、農民は封建的農奴として土地に縛られることになり、また権力者は農民を農奴として、土地に緊縛(きんばく/きつく縛り付けること)することを目的とした。
 この検地によって、中世のこれ迄の荘園的な領有関係は精算され、直接的な生産者である農民と、農民に対しての土地占有権が認められ、これまでの土豪や地主等による中間搾取が排除されることになった。

 一方「刀狩」は、刀剣や槍、薙刀などの武器を一斉に没収することであり、1588年(天正十六年)の豊臣秀吉の刀狩令は有名である。
 検地も刀狩りも、既に戦国大名によって実施されていたが、秀吉の場合は、全国規模で統一的に行われた為、その実施は歴史的に見ても画期的であった。
  そしてその狙いは、土一揆や一向一揆のような、農民の反抗を抑圧し、農民の所持する武器を没収することで「反抗の牙」を抜き取ることであった。

  《武芸十八般》に数えられる、武器を取り上げられれば、半農半兵の武士といえども、権力者側と階級闘争を演じる術(すべ)はなかった。牙(きば)を抜かれた犬は、自分に被害を加える相手に対しても、吠えることができなくなったのだ。

 厳重な二つの法令によって、封建時代的な貢租の公的な負担者としての百姓の身分が決定し、農民・百姓は封建領主の経済源として、土地と領主に縛られて行くことになる。こうした現実を武士の農業経営から見れば、完全な士・農の分離がなされ、武士が農民から貢租に寄生する支配階級としての権利を手に入れたことになる。
 これによって武士の身分と、農民の身分がはっきりと固定化され、両者は封建社会における階級的対立を顕著にしたことになる。
 太閤検地と刀狩は、「兵農分離」を確立させ、近世的封建体制への基礎を確立させ、その支配体制は江戸期に入っても崩れることはなかった。

 江戸幕府における士・農・工・商は、豊臣秀吉の兵農分離に端(たん)を発し、この身分制度は、江戸期に入って一層明白となった。この身分構成は、武士、農民、町人を、政治的経済的意味から区別し、被支配階級のうち、農民は近世的な封建体制を為(な)す根幹とし、これを経済源と定めた。
 したがって経済源の直接な負担者であった農民は、庶民の中でも最も高い位置に置かれ、その反面、それだけに最も強い統制を受け、支配されて、土地に縛られる現実をつくった。
 移住や旅行、婚礼・縁組みから衣・食・住の全般に亘り厳しい制限を受け、土地に縛られ、ひたすら年貢を収める生産者として、強要される運命を辿った。江戸幕府の方針は、百姓は「生かさず殺さず」の、搾取の媒体に改造されたのだった。

 一方武士は、絶対権力を持ち、威厳を傷つけられれば百姓や町家の庶民を斬って捨てる「斬り捨て御免」の特権【註】「斬り捨て御免」が、この時代、頻繁に使われることはなかった。何故ならば、徳川政権は非武装国家を目指していたからだ。多くは時代劇映画やテレビの時代劇演家が勝手に作ったフィクションである)が許された。
 しかしその反面、武士階級に相応しい規律と道徳を守り、品位を保ち、こうした道徳理念が「武士道」として要求され、これを実践する「士道」が成立した。これを「士道」あるいは「武士道」という。

 また、「武士道」とは、わが国特有の武士階層に発達した特異な道徳理念である。
  この起りは既に、鎌倉時代から見られ、江戸時代に儒教思想に裏づけられて大成し、封建支配体制の観念的支柱をなした。その道徳理念を紐解(ひもど)くと、礼法の観念を主軸として、忠誠・犠牲・信義・廉恥・礼儀・潔白・質素・倹約・尚武・名誉・情愛などを重んずることを説いたのである。


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