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西郷派大東流と武士道

■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)

●江戸幕府崩壊と武士の歴史の終焉

 武士階級には幾つかの階層があり、その階層形態はヒエラルキーを構築していた。将軍をヒエラルキーの頂点に頂き、その下には大名(江戸時代においては将軍直参で、知行一万石以上の者を言い「諸侯」とも呼ばれた)、旗本(将軍家直属の家臣で、一万石未満の武士を言い、「直参」とも呼ばれた)、御家人(旗本の下に位置し、将軍直属の家臣であるが、御目見以下に属し、大番・警護・修造などを役職とした)、陪臣(ばいしん/臣下の臣)、牢人(ろうにん)などの階層別があった。

 石高一万石以上の領主を大名といい、一万石以下で御目見(おめみえ)以上を旗本、御目見以下を御家人、大名や旗本の家臣を陪臣(家来)と呼んだ。
 その他、主君を離れた無録の武士を牢人と呼び、「牢人」の語源は、「牢籠(ろうろう)の人」という意味で、「浪人」とも書き、「浪々の身」などの表現がある。浪人とは、仕官先の御家と、職を失った武士の事で、主家を去り封禄を失った武士の事を「浪士」とも呼んだ。

 江戸・徳川時代、幕藩体制の成立期には、新たに主家を求めさせたり、帰農(百姓の身分に落とされること)させられるなどして、幕府は武士の数を減らし整理を行って来たが、それでも武士にしがみついて武芸や学問で身を立てようとする武士が居て、思ったように武士の削減は容易ではなかった。
 こうした体制下に、新井白石(あらいはくせき/江戸中期の儒学者で政治家。徳川家宣(とくがわいえのぶ)の時、幕府儒官。1657〜1725)のような儒学者や、その他の政治家も現われたが、一方では不満を持つ牢人も少なくなかった。

 例えば、由井正雪(ゆいしょうせつ/【註】姓は「由比」とも書く。正雪は江戸初期の軍学者で、駿河由比の紺屋弥右衛門の子というが、諸説ある。1605〜1651)のような、楠木流(くすのきりゅう/楠木正成を流祖と称する兵学の流派)の軍学を学び、江戸で軍学を講じ、門人五千人を集めて、「慶安の変」を企て、丸橋忠弥(まるばしちゅうや/江戸色の牢人。宝蔵院流槍術の達人で、江戸御茶の水に道場を開く。「慶安の変」に由井正雪の一味に加わり、これが発覚して磔刑となる。?〜1651)と結んで倒幕を計った牢人も居た。
 正雪は全国三千人余りの牢人を糾合(きゅうごう)して、江戸・関西・駿府(すんぷ)で兵を挙げようとして倒幕計画を企てるが、この計画が漏れて自刃(じじん)している。
 この後、幕府は益々「士道」を重んずる武家道徳を徹底させて行く。

 士道の心得は、武士階級を統制する目的で武家道徳を重んじる政策を打ち出す。各階層を貫く主従関係を以て、これを重視し、厳格な武家道徳を定め、これを乱す事を徹底的に禁じた。また、自家(じけ)での固定した「格式」(かくしき)と、気風を重んじる「家柄」を重んじらせ、これが家の格式として、やがて礼法と結びついて行く。

 この格式は、江戸時代に入って習慣上ならびに法制上、整備された家族制度が基礎となり、家を尊重し、家長の威厳を基に、家族が「家」を中心にして共同生活を送る「家訓」を定める基盤となった。家訓を定める事によって、家長の威厳を尊厳し、「家を守る」という生活基盤を確立させた。
 これは各家および各階層によって、あたらな格式を生み出し、「家柄」と「家格」と言うものが問題にされるようになり、武士個人における私生活は、こうした家柄や家格の中に埋没して行く事になる。

 しかし一方、武士階級に相応しい規律と道徳が確立され、品位を保つ事が要求され、士道もしくは武士道と呼ばれる道徳理念が成立する事になる。
 特に江戸中期に至ると、『葉隠』が登場し、武士道の理念を貫く「死の哲学」というものが擡頭(たいとう)する。

 徳川時代、幕藩体制下の最も重要な役割を果たしたのは大名家であった。
 幕府は大名家に対し、種々の統制を行い、また、幕府に対して、忠誠を誓わせる絶対権力保持の政策を強めて行った。
 その第一は幕藩体制下の、大名の所領の配置であった。幕府は安堵(あんど/幕府が支配下の武家や社寺の所領の知行(ちぎよう)を保証し、承認すること)、転封、減封、増封【註】「封」(ほう)は、領地や階級を与えてを封(ほう)ずることを指す)、取潰(とりつぶし)などの手段を講じて、大規模な配置転換を行った。

 その第二は、『武家諸法度』(ぶけしょはっと)による行動の規制であった。
 『武家諸法度』は幕府が元和元年(1615)将軍秀忠の時、諸大名に下した十三ヵ条の制令であり、その後も、代々の将軍が下したものである。城池(堀)の修築、婚姻、参勤交代などを規定し、諸大名の武力を制限し、諸大名を監察し、秩序の維持を図ることなどを目的とした。
 またこの法度には、参覲(さんきん/天子もしくは徳川将軍に謁見(えっけん)する)作法、衣装の制、乗輿(じょうよ/天子もしくは徳川将軍の乗る馬車や乗り物)の制を定め、更には質素倹約な生活をする事、文武両道に努める事、支配階級である武家の守るべき事、正しい生活規範を示す事などを挙げた。
 以上は元和元年に制定されたものであるが、再び三代将軍家光の代の寛永十二年(1635)に、より細密な統制に改訂され、その後も必要に応じて度々補足修正がなされていった。 

 その第三は、各大名の系譜や、規模に基づく地位の区別が挙げられる。
 その区別の中心となったものは、徳川家から見て区別を行ったもので、御三家をはじめとして徳川家の分家関係にある大名を「親藩」(しんぱん)、三河以来の徳川家の家臣であるものを「譜代」(ふだい)、関ヶ原の戦い以降に家臣になったものを「外様」(とざま)とした。

 更に城地の有無、領地の大小による国持(国主)、国持並(准国主)、城持(城主)、城持並(准城主)および無城の順に区別した。そのうち城持並以上と無城とは、江戸城内での詰め所の差別の基準になるもので、また幕政への関与の系列ともなった。
 そして幕府は、城持並以上の大名領地の配置と深く関係して、大きな外様大名の多くは辺境地域に配置されたが、その近辺には親藩や譜代の大名を配置して、勢力の均衡に画策の跡が見られた。 

 江戸時代、幕府は大名の配置とその法的規制を強化して、公共の建造物の構築や修理、新たな増築や土木工事などは各大名に命ずる事によって、諸大名の経済力を削(そ)いで行ったのである。徳川家康を祀(まつ)った、日光東照宮などの修理や増改築がそれである。
 また、参覲交代(さんきんこうたい/江戸幕府が諸大名および交代寄合の旗本に課した義務。原則として隔年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に居住して将軍の統帥下に入る制度。【註】「参勤交代」とも)制によって、藩主の消費生活を二重にさせ、大名の財政に圧迫を加える事が目的であった。

 以上のような近世封建体制は確立したのは三代将軍家光の頃であるが、以上が具体的な成果として実績を示し、実質的に具現化されたのは四代将軍家綱(家光の長子で、在職1651〜1680。1641〜1680)の時代になってからである。
 幕府は中央集権的な権力体制を強化し、国持大名領でさえその所有権は各大名に帰属させず、幕府の権力によって容易に移動させる絶大な権力を持っていた。こうした中央権力的な支配権は、中世的な本領観念を一新させ、領主権の根源を将軍が握り、この権力の集中によって「御上(おかみ)」という概念が生まれた。

 元々「御上」という概念は「天皇」に対して用いられていたものであるが、徳川将軍家が絶対な権力を掌握するようになると、この概念は同一本質をもつ一定範囲の事物に適用され、一般的な観念へと変化して行った。これは哲学的に云えば、一人歩きした世襲の単独概念のようなもので、「逆らっても仕方がない」というような、「諦め」に似た思考の事である。 

 日本における封建制度は、その成立と性格から見て、様々な諸説があるが、既述として挙げるならば、武士が発生し、武士が職能民として武芸を専業する時代から始まり、これがほぼ鎌倉幕府成立の頃であったと推測される。鎌倉幕府成立によって、封建制の成立がなされたと見るべきであろう。
 鎌倉政権の初期に封建制が生まれ、初期封建制を基盤として、そこには「守護」が登場し、文治元年(1185)、源頼朝が勅許を得て国々に設置したがその始まりだった。そして権力拡張の結果、室町後期には「守護大名」と呼ばれるようになった。 

 この守護大名によって我が国では、固有の封建制度を確立する事になる。守護大名は、十五世紀後半から十六世紀初頭にかけて、崩壊や解体の運命を辿るが、織田・豊臣政権及び江戸幕府の再構成によって、強力な権力機構の封建制が確立され、封建制は後も維持される。

 一方封建制については、南北朝の内乱期に荘園制が崩壊し、その崩壊の過程の中からこれに代わって封建制が登場したとする説もある。あるいは太閤検地によって「農奴」という、土地に縛り付けられる農民が出て来て、太閤検地以降を封建制社会とする説もある。
 更には、鎌倉幕府成立から既に封建制が成立し、それが形を変えて発展し、江戸時代に至ってそれが完成したと見る向きもある。 

 また、以上のような諸説が生まれるのは、日本における武士社会の政治的経済的な性格が、複雑多岐に亘り、一概に決定付けられないところにその複雑さを極める起因がある。
 その上、武家政権が鎌倉幕府成立後に発生しながら、一方に於いて、京都では完全に公家政権が存在した事を否定する事は出来ず、征夷大将軍となった鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は公家政権に妥協的な態度を取り、「承久の乱」においても、武家政権は公家政権を圧倒したに止まり、公家政権を消滅させるまでには至らかった。その証拠に、建武期には後醍醐天皇の天皇親政が復活しているからである。

 室町期から江戸期にかけて、公家側は、単に名目的な政権に過ぎなかったが、江戸幕府滅亡の時には、再び公家が登場する事になる。

 室町期から始まった商工業の発達は、江戸期に入り益々発達し、商品流通の激化を齎したが、これに伴って最も卑(いや)しいとされた商人が、経済的に大きく繁栄し、巨大な経済財閥的な様相を呈した。
 一方これに対して、城下町の周囲に住まい、消費階級化した武士が経済的に窮乏(きゅうぼう)すると言う状態が生まれた。また、農村に於ては商品経済の流通によって、農民の階層分解が進展し、こうした状態から封建制は行き詰まった。

 本来、封建制は中国周代に行われ、天子の下に、多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自領内の政治の全権を握る国家組織であった。
 日本では、荘園制に胚胎(はいたい)し、鎌倉幕府の創立と共に発展して、江戸時代には内容を変じたが外形は完備され、この時代に至って完成を見る。

 また、ヨーロッパにおいては、封建社会(feudalism)の政治制度は、領主が家臣に封土を給与し、代りに軍役の義務を課する主従関係を中核としたものだった。そしてヨーロッパでは、カロリング朝初期に国家制度となり、十一世紀から十三世紀に掛けてが最盛期となり、国王・貴族・家臣・教会などの領主と、その支配下に入った「農奴」とを基本的階級とする制度だった。
 また農奴は、封建社会の生産労働の基本的要素で、一生、領主に隷属し、領主から貸与された土地を耕作・収益し、領主への賦役と貢租の義務を負う農民だった。農奴の制度は、中世ヨーロッパの封建社会の典型的なものであった。 

 その後、ヨーロッパでは農奴解放などの運動が、フランス革命を皮切りに展開され、封建社会から近代社会への転換途上で行われ、これによって農奴は、一般にその身分的拘束を解かれて、自由民となった。
 更に、1760年代のイギリスに始まった産業革命(industrial revolution)は、産業の技術的基礎が一変させた。小さな手工業的な作業場に代って、機械設備による大工場が成立し、これとともに社会構造が根本的に変化したのである。これによって近代資本主義経済が確立し、1830年代以降には全ヨーロッパに波及した。この波及の嵐は、市場を求めて中国大陸にも、日本にも押し寄せる事になる。

 幕末期、日本の封建経済は農民の階層分解により破綻状態にあった。この経済矛盾にうまく絡み付いたのが、ヨーロッパから波及した近代資本主義の嵐であった。ユダヤ金融資本が指揮する近代資本主義のエージェント達【註】例えば、坂本龍馬に取りついた、アイルランドのフリーメーソンで武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー)は、尊王攘夷論を思想的背景として旨く利用し、明治維新を企てて日本をイギリスとフランスで割譲する内戦状態を画策した。

 トーマス・グラバーはフリーメーソンの日本支社長として、1859年、二十一歳の時に長崎に来て、土佐藩郷士の坂本龍馬に巨額な運動資金を融通し、その上、武器商人に仕立て上げ、土佐藩の藩船「伊呂波丸」を操船させて、亀山社中を経営させた。その後、新たなシナリオを描いて、龍馬に薩長同盟の仲立ちをさせると共に、明治維新を画策させて、その後イギリス駐日公使パークスに討幕支援を行い、1911年、七十四歳で東京で死去した人物である。

 トーマス・グラバーが仕組んだのは、「徳川幕府」対「西南雄藩」(薩・長・土・肥)の対決であった。幕府軍にはフランスの軍事顧問団が付き、西南雄藩にはイギリス軍が付いたのである。このシナリオはフリーメーソンの意向に下がい、フランスとイギリスで日本列島を割譲し、その後、欧米列強の植民地にする計画だった。 

 この巧妙な画策を冷徹に分析し、そして植民地計画を見破り、日本の内戦の危機に危惧(きぐ)したのが徳川慶喜(慶応二年、将軍職を継いだが、幕末の内憂外患に直面して、翌年遂に大政奉還を決意。1868年、鳥羽伏見の戦を起して敗れ、江戸城を明け渡して水戸に退き、駿府(すんぷ)に隠棲した。1837〜1913)だった。
 慶応三年(1867)十月、慶喜は「大政奉還」(慶応三年十月十四日(1867年11月9日)徳川第十五代将軍慶喜が政権を朝廷に返上した)に踏み切る。これによって鎌倉幕府以来、政権を取り続けた武家政治は終焉(しゅうえん)を迎える。そしてその後、慶喜は蟄居(ちっきょ)に継ぐ蟄居を繰り返し、一切政治から離れ、再び返り咲く事はなかった。

 明治二年(1869)に定められた新たな身分制度によって、武士のうち大名は「華族」(皇族の下、士族の上に置かれた族称である。はじめ旧公卿や大名の家系の身分呼称で「旧華族」という。また明治十二年(1884)の「華族令」によって、維新の功臣と、その後、実業家にも適用されて、西欧の制度を取り入れ、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位が授けられて特権を伴う社会的身分となった)に、それ以外の武士は「士族」(明治維新後の族称の一つで、旧武士身分であったが、法律上の特権や特典は無かった)として「卒族」(明治初年の族称で、足軽など下級の武士を区分して設けた)に編入された。

 しかし明治四年(1872)には卒族が廃止されて、新たな士族は平民に編入された。そして禄高を世襲する者を「士族」、その他の卒族を「平民」に編入した。こうして九世紀に及ぶ、武士の歴史は終焉(しゅうえん)を告げるのである。
  それは日本が西洋化の波に揉(も)まれ、西洋の横文字文化を導入し、日本人が日本精神である「武士道」も「士道」も失うことだった。


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