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古人の叡智が集約する護身武術
発祥の地/豊山八幡神社

■ 西郷派大東流発祥の地 豊山八幡神社 ■
(さいごうはだいとうりゅうはっしょうのち、とよやまはちまんじんじゃ)

●西郷派大東流合気武術発祥の地、豊山八幡神社

  スポーツライター  宮川修明

 西郷派大東流合気武術「大東修気館」道場は、昭和42年4月7日、現曽川和翁宗家が若冠18歳の時に、豊山八幡神社宮司・波多野英麿氏の庇護の許、同神社境内に開設された。
 それから以降、西郷派大東流は苦難の歴史を辿る。

大東修気館時代/昭和47年

▲大東修気館時代/昭和47年

当時の稽古風景

▲当時の稽古風景

 当時、同道場は北九州市八幡東区春の町の豊山八幡神社の敷地内から発祥したが、何ぶんにも曽川宗家個人に経済力は無く、以後、同東区の中央町に移転し、ここでは「合気武道館」を名乗ったが、ここも2年くらいで移転の破目になり、次ぎに落ち着いた先は「大進流空手道場」(八幡西区森下)に間借りしての細々とした運営だった。
 弟子も減少し、風前の灯火という瀕死の状態であった。
 西郷派大東流にとって、精神的には一番惨めな時代であったかもしれない。

 この後、八幡西区上津役に移転し「尚道館」が道場開きした。だがここも2年くらいで同区内の千代ヶ崎に移転し、細々とした活動だった。「大東修気館」を開設して以来、20年目のことだった。
 そして曽川宗家が、昭和61年、小倉北区馬借町に大学大検予備校『明林塾ゼミナール』を創設し、理事長に就任すると、その校舎内に40畳敷の「尚道館」を開設し、ここが以降活動の拠点となった。

 この時、既に千葉支部「習志野綱武館」進龍一皆伝師範(関東方面指導部長)の手で開設されており、関東方面からはここに多くの人達が学びに訪れていた。
 これが後の関東本部「綱武館」となるのである。現在は岡谷信彦正師範が、この後を受け継ぎ、道場長になっている。

 またJRA日本中央競馬協会・美浦厚生会館内には「美浦道場」が、岡本邦介皆伝師範(岡本氏は49歳の時、既に八光流柔術皆伝師範の腕を持ち、当時若冠 29歳の曽川宗家の門に入門した)の手によって創設され、現在の茨城支部を形成している。道場長は桑原清治正師範で、岡本邦介皆伝師範は顧問として桑原師範を補佐している。

 さて、平成元年7月、現在の総本部・尚道館は曽川宗家が全財産を抛って創設した道場で、120坪の敷地に、高天井2階建の鉄筋道場が完成した。そして既にここで今日迄の月日が流れた。しかしこれで安住の地を得たわけではなかった。再び受難が襲い掛かる。

「尚道館小倉道場」の道場開きの模様

▲昭和62年9月6日
大学予備校・明林塾ゼミナール内の一教室を
改造して作られた「尚道館小倉道場」の道場開きの模様。
曽川宗家の左横が、カネミ倉庫社長・加藤三之輔氏。

一掴一掌血、一棒一條痕

▲加藤三之輔氏を通じて、曽川宗家が受け取った、
日本陽明学の現代の大家,、安岡正篤先生(現在は故人)
から送られた王陽明の言葉「一掴一掌血、一棒一條痕」の色紙。

●受難の道

 さて、曽川宗家は受難の道を歩いた人である。
 予備校理事長時代(当時38歳)、自らも教鞭をとって、数学や理科物理分野を予備校生に指導していたが、北九州で予備校戦争が始まると、某大手予備校の間に挟まって四つ巴の戦いとなり、一番体力の弱い、(有)大学予備校明林塾ゼミナールは平成2年9月、あえなく倒産し、会社更正法も適用されないまま、高額な負債を抱えて整理屋や切取屋に喰い物にされていった。まさに受難の時であった。

 当時を回想して、曽川宗家は、
「借金地獄というような生易いものではなかった。まさに地獄そのもので、妻は恐怖から精神分裂病を煩い、また子供達は児童保護施設に預けられ、人間以下の扱をされてきた。高利貸しや闇金融の近代ヤクザに日本中を追い回され、単にストリート・ファイターとして路上で喧嘩するより、よほど辛かった。借金返済に迫られ、往来の路上でや、JRの駅のホームで土下座させられ、胸蔵を掴まれ、ピンタを張られるようなことは日常茶飯事だった。腎臓も売れと催促された。

 そして借金は見る見るまに膨れ上り、借金のための借金、返済のための借金を繰り返した。あれは実に辛かった。ストリート・ファイターとして喧嘩を売られ、殴られる方が余程ましだった。人間としての人格などありはしない。殺されて、何処かの川や湖に浮かんでいたとしても不思議ではない」と、このように語る。

 しかし不思議なこともあったという。
 「もう、これで駄目か、というぎりぎりの所まで追い詰められると、不思議にそこへ助け船がやってきて、地獄から救われている。こうした事が繰り返し起こり、生かされるとは、何とも有難いことかと感じた。

 しかしこれで終わったわけでない。
 一度、闇金融の近代ヤクザに恐ろしいリンチを受けてね。よく命が助かったと、今考えてもつくづく思う。いくら喧嘩師を自称してみたところで、借金の証文を突きつけられ、『金返せ!』と迫られた日には、武術家と自称しても形無しでね、土下座して許しを乞うしかないんだ。夜中に寝込み襲われて、平尾台(小倉南区にある山)まで連れていかれ、大きな穴を掘らされ、その中に埋められてヤクザから罵られたり、殴られたり、妻を風俗産業に売り飛ばせといわれたり、そして最後には奴等から小便を掛けられたとにきは参ったね。本当に参った。

 当時は警察にこうした事情を訴えても、借りたものは返さねば、という返事しか返ってこない人権無視の時代だった」(この内容は『合気口伝書』綱武出版刊に詳しく出ているので、興味のある方は参照のこと。まるでフィクションの小説を読むような感じを受ける)と、まるで他人事のように、あっけらかんと言い放つ。

 おそらく曽川宗家は、私など想像を絶する、死の淵をさまよう以上に、もっと恐ろしいものを見て、経験してきたのであろう。こうした事は凡夫には経験できないことである。またその次元も同じでない。

 しかしこうした経験をしながら、不朽の精神を見せ、叩かれる度に強靭な精神力をつけていったのは、曽川宗家が少年時代から死ぬような思いで稽古に打ち込んでいた裏付けがあってのことだろう。凡夫のレベルではとっくに自殺していたはずである。
 それが「どっこい」生き残るということは、曽川宗家ならではの、「したたかさ」であると思う。

 相撲でも、土俵際まで追い詰められて、土俵際の淵に足が掛かると、この瞬間に諦める力士と、淵に足は掛かりながらもこれを必死で堪え、我慢に我慢を重ねてしぶとく護り通し、とうとう「残って」ウッチャリを食わす力士がいる。曽川宗家はまさに後者の方だ。

●天命の章

 今でも、会社時代の負債責任が億の単位であるという。これに対しても他人事のように言う。普通だったら、借金が四千万円も超えたら、とっくに返済を諦め、保険金を掛けて自殺する経営者が多い時代に、曽川宗家は安易にこの道を選ばなかった。如何なる軋轢(あつれき)、如何なる脅迫にも打ち勝って、不朽を見せ「どっこい」生き残る道を選択したのである。

 「どんな事があっても、簡単に諦めないことですよ。孟子や老子の『天命の章』を読めば、人間は簡単に諦めてはならないことが書いてある。それを繰り返し読めば天命とは何か、と言う事が分かってくる。
 天命の章には、『天の将(まさ)に大任を是(こ)の人に降(くだ)さんとするや、必ず、まずその心志(しんし)を苦しめ、その筋骨(きんこつ)を労(ろう)す』とあるじゃないですか。
 人生、平凡が何よりと言う人もいる。だが平凡では、もしこれが自分自身を主人公として、人生劇を演じる場合、見ている観客はつまらないものだと思いませんか。

 私はね。宇宙の何処かに十万人くらい一度に収容できる大劇場があって、そこに各々の人の人生劇場を演ずる場合、例えばある人は兵士の役でその主人公になり、戦争に駆り立てられて、一兵卒として最前線に送られたとする。そこで猛烈な敵からの攻撃があり、その弾の一発に当たって即死したとしたら、この人を主人公とした、この劇はどうなりますか……?
 例えばこれが映画として、放映されてから1分以内に即死し、これでジ・エンドになった場合、観客であるお客さんはどうなりますか。金返せ、と怒るじゃありませんか。

 やはりね。頭部に弾を打ち込まれても、それで死ぬのではなく、執念で生きのびて、敵にひとあわ吹かすくらいのサービス精神が無いと、劇は面白くなりませんよ。
 私は観客にはサービスする方で、死んだかと思われながらも、奇蹟的に助かって、どっこい生き残るとした方が、このストーリーは面白くなるじゃありませんか。

 かつて会津戊辰戦争の時、横山主税(よこやまちから)という、非常に家柄の良い上級武士がいましてね。この人は会津藩主・松平容保からも目を掛けられ、可愛がられた人で、頭も良かったと聞きます。
 しかし白川郷で、薩長軍を迎え撃つ攻防戦で会津軍の総大将として君臨したのですが、会戦が始まると一番に先陣を切って突出し、一発の敵弾を頭部に受けて、呆気なく即死してしまうのですよ。もう、こうなったらこの人の人生劇は面白くありません。この人は近代戦を指揮した経験が無く、また戦いというものを本当に理解していなかったようです。

 しかし横山主税の後を受け継いだ、家老の西郷頼母は違っていましたよ。天邪鬼(あまのじゃく)と表されながらも、どっこい生き残るのが得意な人で、駄目かと思われながらも長生きした人ですよ、人生はああでなくては……」と、自らの人生劇を語る。
 世の中には全くわけの分からない?不思議な人が居るものだと、つくづく感心させられる次第である。

 これまで数学・理科畑を歩いてきた曽川宗家は、別に文才があるというような特別な人とではなかった。単にごく一般的な、むしろ国語の文法や、言い回しもそれ程うまくなく、失礼だが、こうした面では凡夫の域を出なかった人であったと思う。
 ところが、厄年の42歳の頃、大学予備校が倒産し、それを機転に、気付いたら作家に変身するという変わり身の早さは、はっきり言って空いた口が塞がらないという観があった。

 そしてまた学術論文を書き続け、何と、52歳のとき、哲学博士(数理哲学/論文『実の時間、虚の時間』)まで登り詰め、イオンド大学(アメリカ合衆国)の教授(数学、哲学)にまでなった人である。
 曽川宗家は、無名でいいと言う。凡夫でいいと言う。地味な研究者あるいは一学徒でいいと言う。そして争うことを好まれない。
 それでも「負けない境地」だけは持っていなければならないと言う。
 私はこうした「曽川和翁」という、変わり種に、長らく興味と親しみを憶(おぼ)え、その一種独特な「獰猛な人柄?」に振れる度にエネルギーを貰って元気になり、また、人を魅了する不思議な一面がある人だと、つくづく感心させられるのである。


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