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平成26年 『志友会報』7月号



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威嚇
 現代ならば、若さがよい……などと考えるのは、若者の暴走に当てられた現代の老人的な思考であるが、この時代は、老いをそういうふうに軽く見た訳でないから、この武士の暴走は、まさに暴挙としか言いようがなかった。
 いつに時代も若者は暴走する。歴史を見れば明白である。
 それだけに、白隠に斬り掛かった武士は、精神年齢的には幼児のそれと何ら代わりがない。
 「老いぼれに舐められてなるものか……」と、ただ面子だけで意地を張っていた。
 面子や意地にこだわるのも、若者に多く見られる現象である。
 あたかも負け将棋を、意地で、もう一番もう一番と繰り返す愚者の愚行だった。
 武士は愚行のジレンマ(dilemma)に嵌まっていた。
 それがまた大仰な退きとなり、前に出ようと思っても、動きがとれず、一歩前に出れないのである。それでいて、自分を抑えることが出来なかった。

 これを近年的に表現すれば、かつての1970年代の若者の暴走を彷彿とさせる。この当時の、団塊の世代と言う若者は、暴力革命を夢見て暴走した。日本中が赤一色に染まることを夢見た。
 だが、当時を振り返れば、あの当時の若者は今は孫を持つジジイ、ババアである。六十の半ばを越えたジジイ、ババアである。

 だが不思議なことにも、このジジイ、ババアどもがどうしたことか、また若者に交じって、若返り術で暴走し始めた。この団塊の世代の年寄りは、若さこそ人間の価値のように信仰している。しかし、その信者の七割り近くが介護を必要とする寝たっきりか、スパゲティー状態の植物人間か、既にガンなどの成人病で早々と死亡しているか、そして残りが、何とか躰を動かし生きていると言う状態である。
 六十五歳以上の高齢者で、90%以上の健康を維持できて、無病でいる者は、ほんの僅かである。
 しかし若さ願望は、こうなっても未だに旺盛である。若さへの執着が強い世代でもある。

 人間とは、雀百まで踊り忘れずと言うが、一旦覚えた暴走は、老いてもなお幼児的で、その稚拙なり思考は旺盛のようである。その稚拙をもって、白隠に向けて刀を振り上げた武士に、再び戻ろう。
 武士は刀を老僧、白隠に向けて上段に振り上げた。
 だが、刀を振り上げて迫っても気持ちばかりが焦って、躰が強張るのである。それは稚拙で幼児的な行為がそうさせるのであろうか。
 武士は自分の進退窮まった体勢を、自分ではどうしようもなかった。(本文より)


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平成26年 『志友会報』6月号



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威嚇之術
 現代人でもこの歳まで生きる人は少ない。多くは介護を必要とする年寄りが多い。
 このエピソードが、いつの頃の話か知らないが、かなりの高齢になってのことであろう。そう推測するのが自然である。
 むしろ白隠が若年で未熟ならば、経験不足から白刃に恐れをなし、斬られる確率が高くなる。若い頃の白隠は、また大悟をしていなかった。

 白隠は長寿を全うし、年輪を重ねた、高齢者だからこそ、多くの経験を通じて、こう言う場合の対処法を知っていたと検るべきであろう。
 この対処法こそ、「話術」であったと思料する。
 高齢者に、太刀を易々と躱す運動神経も反射神経もないのは至極当り前のことである。むしろ、こうした場合は「相手を呑む心得」がないと、真剣で斬り掛かる太刀筋は躱せない。つまり、「話術」だ。

 相手を気圧し、毅然と喝破する話術である。
 つまり、これこそ「武芸の心得」である。
 一般に、武芸などと言うと、肉体を通じて技術的な猛稽古の果てに、こうした心得が身に付いたと思われがちだが、武芸と言う術の中には「話術」という身体能力以外を使って、相手を挫く術もある。

 兵は詭道なり。
 武芸が教える、最も重要な箇所である。
 つまり気勢によって喝破する「威嚇之術」である。
 この威嚇之術では、呼吸の大事はあり、呼吸法を熟知しなければ、相手を気圧すことは出来ない。腹霊から発する、大地をも揺るがす波動を遣えねば、相手を怯ませることは出来ない。
 肛門から気が漏れていては、この術は遣えない。
 つまり、痔疾を患っている者は、この術を遣い得ないのである。

 人間は腹霊に威力がなくなると、気が会陰から下降し、地気と結びついて下に引っ張られる。その顕著な肉体的病状として肛門が弛み、そこから気が下に逃げるのである。
 こうなると腹霊が憑依された状態となって、以前の人格が眠らされて、外邪によって占領され、重くなり、腰の切れが悪くなる。こうした顕著な肉体的病状が現れてくる。
 それは腹霊を外邪によって占領されたからである。
 外邪に占領されては、乾坤一擲の場に敗北することになる。精神統一はなされず、場の邪気によって自らが崩壊する事になる。気合いというものは正確に伝搬しない事になる。

 波動を遣う場合、肛門から発気が漏れてしまうからである。そうした場合、口先で“籠る言葉”の遣り取りとなり、相手は怯むどころか、怯えていると検て、逆に付け込まれる。返り討ちに遭うのはこのためである。
 だが、白隠は怯まなかった。波動が前に出た。口に籠らなかった。
 白隠は、この「術」を知っていたことになる。(本文より)


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平成26年 『志友会報』5月号



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生命のひと雫
 日肉体と言う物質は、誕生の「成」からはじまって、青年期の「住」に至り、その年代から年齢を老い「壊」に入って、死して、遂には「空」に至ることを説明しているのである。
 人間の魂は、再び元の大宇宙の「ひと雫」に戻るとしているのである。

 これは宇宙のあらゆる物質が、「成住壊空」を根本にしているからであって、これを『四劫』といい、この四つの生成から破滅までの四大期を顕し、世界が成立するには、若しは出て、若しは退くを繰り返しているのである。
 そして世界が成立するには、ある期間を得て、これを成劫、成立した世界が持続する期間を住劫、世界の壊滅するに至る期間を壊劫、次の世界が成立するまでの何もない期間を空劫というとしているのである。生命体の壮大な仕掛けである。壮大な中で循環していることが分る。

 物質には定められた運命を辿り、幾度も誕生し、また幾度も消えるが、それは完全に消えるのではなく、第一の地球が空に至ったとしても、再び第二、第三と誕生して、地球そのものが無くなる訳でないことを、生命は、常に永遠であると言うことが説明されている。
 これは人体と言う、肉体部の生体にも言えることであろう。生体は、命体とともに循環する。
 まず人間の肉体は、しっかりとした原理で造られている。また、不可視世界の命体も同じである。霊肉はともに精巧を極める構造になっている。

 普通、体力と言う「力」は、遣えば遣うほど減る、あるいは運動すればするほど疲労すると考えられがちだが、実はそうではなく、むしろ遣えば遣うほど元気が漲り、活力を増すものである。そう言う原理で構成されている。
 それは人体には「活動性肥大」と「不動性萎縮」の二つの機能があり、動物である人間は行動を停止してしまうと、逆の疲労を増し、また肉体は錆び付いて動かなくなり、退化してしまうものである。動かすことにより、肉体機能が顕然となる。

 要は運動である。運動しないと錆び付く。
 度を超した極端なスポーツ行為は躰に悪いが、エネリギー保存の法則に従い、上手に運動させれば、それを行うほど、新しい新鮮なエネルギーは蓄えられるものなのである。
 物質不滅の法則は、正しい許容範囲で、度を超すことなく遣われている限り、厳然と働くのである。これは消費させることにより、遣えば遣うほど生命エネルギーが蓄えられ、元気の源は蓄積されると言うことを顕している。ただし、消費において、度を超した無駄遣いは厳禁である。

 消費とは無駄遣いをすることでない。健全に消費されてエネルギーが蓄えられることを言う。
 また極端な溜め込みも現金だが、中道の意味からすれば「ほどほど」が一番いいのである。酷使過ぎは不可である。
 生命エネルギーは消費と言う流通を通して、健全に消費されている限り、それが新たに蓄積されて行くのである。

 では、命体を構成する霊的エネルギーは、どうなるのか。
 霊的エネルギーは三次元顕界にない。四次元以上に存在する。
 三次元世界に顕われる現象は、四次元以上の世界の投影された世界であり、実在界は三次元にない。もっと上の高次元にある。

 したがって、現象界で起こっている種々の事件や事象は、四次元以上の世界で起きた事件や事象が三次元顕界に投影されたものに過ぎない。投影元の原形は、四次元から放映されたものが三次元世界に映し出されたに過ぎない。三次元では、それは「架空のもの」と解してもいい。
 この世の物質現象は、四次元からの投影された影に過ぎないのである。
 三次元顕界の現象界にいる物質としての人間が派生させる事件や事象は、四次元の投影元が放映した映像を見ているだけに過ぎない。総てのアクションや行為も、元は投影元に存在している。(本文より)


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平成26年 『志友会報』4月号



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成住壊空
 日本史を振り返ってみても、日本人が最も好む戦績としては、「義経の鵯越え」であり、「正成の千早城」であり、「信長の桶狭間」であり、更には「忠臣蔵」や「日露戦争当時の日本海海戦」等にも見る事が出来、いずれも比較を絶する大敵に勝ったと言う実例から窺う事が出来る。以上の戦勝の実例は、こんな勝利など、誰一人予想しなかった事である。そしてこれらの戦いは、誰が観ても、客観的には無謀な戦いであり、勝つ確率など殆ど無かったのである。

 しかし、日本人はこうした戦いにおいて、決して無謀な戦いとは言わず、むしろ名将に率いられて、逆転優勝する、名将の模範的な戦闘振りを絶賛する国民性を持っている。「小能く大を制す」に異常な執念を燃やし、最後は神風が吹いて、逆転優勝するのではないかと言う願望を抱いている。

 だが、しかし願望だけではどうしようもない現実がある。
 こうした決戦に等しい戦いでは、名将が天も地も、味方につけ、強力な運気を伴っていなければ勝つ事は出来ない。ツキに見放されていては、到底勝つ事が出来ないのである。戦いと言うものは、凄まじいものである。単に人間同士が戦うだけではない。一度戦いが始まれば、天も地も戦いを始め、その自然界の凄まじさの中に人間が置かれてしまう。そして此処で作用するのは、人間の持つ運気がものを言う。

 したがって戦いに勝つには、単に人の頭の中で考えた戦略だけではどうしようもない。大自然が味方に付いた時機、戦いに変化が生じるのである。
 こうした変化を最もよく顕わしたものが、「蒙古来襲」の時の台風ではなかったか。
 これは正攻法で勝てなかった実例である。
 当時の日本人は、大自然現象の一つである台風を味方につけたからこそ、逆転が起ったのではなかったか。これを人は「神風」と呼んだ。

 神風は常に吹いていて、必ず耳許で囁くものである。
 しかし神風の囁きを聞ける人間は、ごく限られた人間であり、謙虚にこれに耳を傾ける特性を持っていなければならないのである。

 つまり神風は外側から囁くものではなく、霊的には内側から囁くものであり、これに謙虚に耳を傾ける霊的神性が必要なのである。主眼とすべきところは外に存在するのでなく、主体が自分の内側に内蔵されている以上、自身の内側に眼を向け、その心境において、まず自分とは何かを模索しなければならないのである。
 そして模索において重要な事は、右にも左にも偏らない「平衡点」である。これを孔子は「中庸」と言い、釈尊はこれを「中道」と言った。
 そこそも平衡点を失っていて、右と左の協力体制が組める訳がないのである。(本文より)


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平成26年 『志友会報』3月号



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耳許で囁く神風
 現代は情報過多の時代である。情報が多すぎて、それを一々吟味する能力が失われつつある。氾濫する情報は、現代人への愚鈍への反逆であろう。
 これもひとえに作用に対する反作用か。益々鈍感になっていく。これが現代の何時沢ざる姿である。それは鈍感になり、更には無能化され、かつ誘導化される事であった。考えないからである。現代人の「鈍感後遺症」は益々悪化の一途にあるようだ。

 現代と言う情報化の中で、こうした異常に対しての危険を感知する意識が鈍感になるのである。要するに無能化の嵐は吹き荒れているのである。
 ではこうした実情は何を意味するか。

 つまり大半の現代人は霊的神性が失われてしまったのである。物質に固執したためである。者に固執し、霊的存在の意味を見失ってしまったのである。眼に見えるもののみを信じ、眼に見えないもの存在を非科学とか迷信と一蹴してしまったのである。ここに鈍感の実態があり現代人が益々愚鈍になっていく現実がある。
 人間の中には、危険や異常現象を、出来るだけ小さく感じようとする策動が働き、異常に対して、危険を感じないような心の迷いが生じる。この迷いが、いつの間にか、異常を異常と感じず、平常心で危険を回避しようとする心の働きが起る。

 平常心とは、一見落ち着いた行動に見えるが、非日常意識の薄い凡夫に限り裏を返せば、不安がそうした心の迷いを生じさせるもので、このように危険に対して麻痺感が起れば、ついには危険を回避できなくなるのである。そして、備えがない場合、日常が非日常に変化した場合、これに対応できず敗れるしかないのである。

 『孫子』を誕生させた中国における春秋戦国時代は、諸侯間の争いが絶えず、喰うか喰われるかの戦争に明け暮れた時代であった。今日の資本主義社会の競争原理が働く、社会構造によく似ている。
 春秋戦国時代が日本の十六世紀の乱世の兵法にも酷似し、戦争が日常で、平和が非日常と言われる異常な状態であった。一見現代と似ても似つかない感覚に囚われる。

 今日は、平和が当然のように考えがちになる。因襲や伝統や固定観念などに拘束される。戦争こそ、異常事態のように思われる。しかしこれは表面上の事であり、その水面下では、戦国時代以上の陰戦が繰り広げられている。
 この現代の心理戦こそ、陰戦の最たるものであり、裏側には勝ち抜く為の妙締が隠されているのである。
 戦いは、一対一で、正々堂々と戦うものではない。「一人を大勢で袋叩きする」ことが、戦い方の根本原理である。
 しかしこれを見逃す勝負師や喧嘩師は多い。(本文より)


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