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志友会報

思考の一掃
 感得する。これがなかなか難しい。刷新を必要とするからである。刷新するためには前に思い込んでいた思考などを改めねばならない。暗い固定観念や先入観を一掃する。この時の精神構造は、完全で、かつ正しく働いているから、いつまでも過ぎた事に囚われたり、いつ何が起こるか、実体もない明日の事を思い悩む必要はないのである。
 (中略)
 私たちは、自称武道家や自称武術家と称しても、その本性は、俗人の精神構造と殆ど変わりがない。「自称○○」を名乗ったところで、その中身は、「俗人」のそれである。正体は「凡夫」だ。
 「悟りだ」「開眼だ」といったところで、たいして俗人・凡夫と何ら変わりがないのである。むしろ、「自称○○」がある為に、凡夫以下の人格や品格しか持ち合わせていない者も多い。悟りとは、こうしたレベルに存在しないし、また、こういう類のものでない。精神構造の作用が、やはり日常の事柄の一喜一憂に関わり、これに振り回されているのである。小事に勝ったと謂えば、有頂天に舞い上がり、その日の喜怒哀楽に流されて居る。そうこうしているうちに、段々と退化し、腐敗していく世俗と言うものがあって、これに目を奪われてしまう。
(本文より)

裏 面

国破れて……
 実に卑劣な遣り方であるが、また効率のよい一石二鳥の遣り方である。手に負えない猛獣の有効利用を知っていたと言うことである。
 だが、国際政治や国際交渉に対して外交音痴の日本人は、歴史を構成している因果関係が人工的に組み立てられるという狡猾な裏側を知らないし、知ろうともしない。
 したがって、自分のマイホームにしか眼が行かないし、これを知ることについて研究もしない。自分の家の冷凍冷蔵庫に満杯の食べ物があり、自分と自分の家族だけが幸せであればいい。その種の幸せを願うのが、昨今の日本人であるようだ。
 近現代の日本の中に広島・長崎に原爆投下があったことは過去の事として記憶が薄れ、ヤルタ会談の秘密協定で何が画策されたかも知ろうとしない。それでいて自分だけの幸せを願うとは、まさに「不仁」ではないのか。自分さえ、自分と家族さえ安全であればいいと云う考えからである。これは自分の家族の個人間のことしか考えないと言うことで、また個人の平和と幸福だけを願うと言う構図であり、その幸福感は実に空虚である。
(本文より)


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平成29年 『志友会報』11月号



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 喜怒哀楽の情に流され、結局は焦りを生じて勝負の勘を失う。勘の拠り所を失う。感情が旺盛になり、感情だけで物事を判断するようになる。斯くして阿頼耶識を眠らせる。
 阿頼耶識は人間存在の根底をなす意識の流れをいい、輪廻を超え経験を蓄積して個我を形成し、また総ての心的活動のよりどころとなる意識である。唯識の世界のものである。森羅万象を映すものである。だが、それが曇る。映せなくなる。霊的神性が働かなくなる。
 (中略)
 何れにも偏らない「ほどほど」という中間点、あるいは釣り合っている「拮抗点」である。
 また、勝ちを競って我武者羅もよくない。「君子は先んじて譲り合うものだ」という言葉を胸に刻みたい。
 自分が……、自分が……と先を競わずに、まず相手に譲って、自分は一等下がって、頭を低くする行為である。我先に先を競う行為は、傍目で見ると見苦しいものである。
 競うものは、人に競わせ、自分はそれを遠望しながら、ゆったりと構えても悪く無い。自分は競争原理の中に加わって、先んじて人を制す……という愚行に奔るより、それを遠望して客観的視野を持つのも、また悪くは無いものである。
 我が丸出しの極端な努力は、逆転する。定理である。
 反対に負けて元々という中道は、努力する他力で結果的には良好な結末を迎える。
(本文より)

裏 面

惻隠の情の喪失
 日本人は骨抜きにされた。尚武の気風が失われた。国際政治や国際交渉に対して、外交音痴の日本人は、政治選択の一つである戦争が、その後の歴史に、どういう歴史的な意味が含まれるか、全く理解していないのである。では、なぜ日本人から尚武の気風は失われたか。
 武士道の根幹をなす惻隠の情が失われたからである。慈しみであり、これを実践するには「たしなみ」と「やさしさ」と「勇気」が武の道の三要素とされたからである。
 日本人の歴史史観は、実にミクロ的であり、明治以降の教育を検れば、歴史と言う教科を「年号暗記」の教科に仕立て、単に年号と事件を暗記してそれで終了とする教育方針を取り続けてきた。常に近視眼的に、ミクロ分野だけを専門化し細分化して、未来を担う子供達に、その種の教育を施しただけであった。暗記であって、考えさせない教科であった。一切のマクロ的見地が抜け落ちていた。
 つまり、国際政治の流れという概念がなく、単に微視的に視て「戦争は悲惨だ」とか「戦争はもう懲り懲りだ」という感情論並びに恐怖論で、特に戦後教育は牽引したことであった。したがって、これ以上の議論が出来ないのである。
(本文より)


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平成29年 『志友会報』10月号



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知行合一
 知行合一に従えば、修行者は道の入口に立った時から、既にこうした致知の根元である「行ない」は始まっていなければならない。また、一方で我が流で云う「習・離・破」を、書道の進行ランクに合わせて、「習・破・離」(この言葉は書道の教えにある習う・離れる・破るから来ているが)と言い直す者がいるが、問題は最初の「習」であり、習った後に、自分は修行者として何を目指すかと言うものが、実はその目的でなければならないのである。
 (中略)
 しかし、わが流は、剣術の上段振り上げの動きを旨とする為、動きは肩球を上下させる。これこそが「縦の動き」であり、肩を上下させる秘術である。これは太極図などのシンボル図が顕わしている。
 縦の動きは喩えば、「多数捕りの捌きはどうすればよいか」という複数の敵を前にした場合に戦い方の戦闘理論に通じ、ここにも「型」で動くのではなく「動き」で対処すると言う事が課せられて来る。こうした時の裁きに於いても、普段から見切之術を会得しておく必要があり、それが「紙一重で捌き」である。捌きは「自分で体得するもの」であり、人から説明を受けて、それで理解できると言うものではない。脅威の敵にも、負けない境地を作るのであれば、自分で人を集め、稽古相手を作り、模擬格闘としてこれを実践し、「紙一重」で捌く躰捌きを自分の躰で会得しなければならない。「紙一重」の捌きを多数捕りの中で再現するのであれば、実際に多数の人間の中に入って、稽古する以外方法はなく、行動の伴わない者に、実体験は不可能でる。
(本文より)

裏 面

熱い日
 日本は先の大戦で大敗北を帰した。完膚なきまでに叩き潰された。そして残酷残忍だったことは、世界人類史上、広島・長崎に原子爆弾を投下されたことであった。此処では多くの非戦闘員が死んだ。生まれたばかりの赤ん坊も当時の敵国であった国際連合軍(米英を始めとする枢軸国に対するソ・中・仏・蘭・濠など)から検れば、非戦闘員ではなく、将来の戦闘員と看做されて無慙に殺された。
 そして国際政治から検れば、広島・長崎に原爆投下は正しかったという論理が罷り通っている。実際に人間を原子爆弾と言う日本人の頭上に、人工太陽を直撃させておいて、実験動物に仕立てておいて、これが正しかったと言う見解を持つのが、現実に国際政治であった。
 近現代史の歴史に記録されたことは、昭和二十年八月十五日に、日本は国際連合軍に対して無条件降伏したことであった。大敗北という汚名が無理矢理戦勝国から被せられた日でもあった。
 この日の天候を記憶する人は、「恐ろしく暑い日だった」と言う。
 この暑い日は、実は灼熱の人工太陽に灼かれた「熱い日」を連想させた一日であったのだろうか。あるいは総てが焼け野原で、焼け爛れた日だったのだろうか。
(本文より)


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平成29年 『志友会報』9月号



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伝統武術と伝承武道の違い
 世間では「伝統」と「伝承」の区別は曖昧であるが、両者は厳密な意味で大きく違っている。則ち伝統とは、「時代とともに変化していくもの」であり、伝承は時代が移り変わろうとも、古いものを級位以前のまま旧時代の源流当時の事を伝えるのが伝承であり、ここには時代とともに変化すると言う進化や進歩がない。すなわち発展する原因を持たないのである。
 (中略)
 さて、西郷派大東流合気武術は、他の大東流柔術(古典の柔術百十八箇条をベースにする)と異なり、まさに伝統武術である。創意と工夫によって時代とともに変化し、古典の儀法に照らし合わせて、良いものは取り入れ、悪いものや、時代にそぐわなくなって古くなったものは再構築し直し、あるいは捨てると言う事を常に行い、伝統武術の新陳代謝を自ら行って自浄作用を繰り返す武士道集団である。
 自浄作用は伝統の根本である「習う」から始まるものであるが、それは単に古典の伝承を習うに過ぎない。しかし「習」が次元を高め、高度化すれば、必ず習・離・破の段階を踏んで変化して行く。
 最近では習・離・破の本当の意味を知る者が少ないが、本当の習・離・破は自分の師匠から離れ、次に、破る事だと考えているようだが、これは大きな間違いである。
(本文より)

裏 面

見られている
 緊張が常時に起こっているのでなく、突発的に発作的に緩急の間をとって交互に繰り返される緊張で、当然、激した緊張が起こればストレスを発生する。だが無意識の緊張はそうではない。それもストレスを感じるような緊張ではない。リラックスした無意識の緊張である。
 そう言う緊張はいいものである。隙を作らないで済む。こういう程よい緊張は、内部の性命エネルギーを、老いてもなお、燃え立たせ、このエネルギーと命の燃焼が無縁のものではあるまい。

 ところが、現代の長寿を約束されてしまったような年寄りはどうだろう。老いてもなお、生に縋っているのではあるまいか。生に縋って、何をするでもなく、只生きていたいとする年寄りは多くなったように思う。
 そして性命エネルギーが枯渇しているから、肉体的な表皮とは別に、年齢相応に涸れていると言う痕跡が見られない。ただ動物的に生き存えているのである。
 老いても、いまだ金・物・色から卒業で来ていない。欲に耽っている。
 こう言う欲に絡む長い老後を、これからの年寄りは、どう過ごして行くのだろう。何で埋め合わせをして行くのだろう。
 昔の日本では、国民の多くが貧しかったから、当然不如意なことが多くなる。それゆえ年寄りにもすることが多くあった。年寄りの仕事は沢山あった。
 年寄りにも人間としての存在価値があった。しかし、今の年寄りは存在する何らかの価値と、生きる目的が不明確である。人生のラストスパートにあたり、何かを燃焼させ、次に世代にバトンタッチして行く伝統や、伝えねばならぬ伝達物を持っているのだろうか。
(本文より)


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平成29年 『志友会報』8月号



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皿飛ばし
 五行の剣の刀法に、「皿飛」なるものがある。
 「皿飛」とは、まず試刀で「水平横一文字斬り」の臂力と、腕力や握力の鍛練が出来ておらねばならず、巻藁一本分から初めて、二本・三本・四本・五本と段階を上げて行かなければ成就するものではない。
 しかし試刀術の経験の無い者に、この論理を説いても理解は出来ない。論理だけを、言葉で説明しても、あるいは口角泡飛ばして力説しても、その動作や行動線は絶対に理解できないのである。もし、これを真摯に学び取るのなら、試刀術を実践として行う必要があり、居合刀や木剣では絶対にその意味を理解する事は出来ない。「斬る事」が問題になる。
 行いが伴わない者に、「知行合一」は無用の長物であり、むしろ生半可な知識だけで、伝統武術を研究しようとすれば、命取りになる事も忘れてはならないであろう。木剣や模擬の居合刀では、僅か一本の巻藁すら斬る事が出来ない。自ら、行い、参じて体現し、感得する事である。
(本文より)

裏 面

因果のコマ
 原因があって結果が生じるとする科学的見方からすれば、その一コマに限り、因果が実在していようが、全体像からすれば、一コマ、一コマの部分対処は、既に錯誤を生じさせた起因となり、その起因に応じて次ぎなる起因が派生し、一つの錯誤から第二の錯誤は生まれ、第二の錯誤から第三の錯誤が生まれ、結局人為では、その度に無駄な苦労を背負い込むことになる。
 一つの現象に注視すれば、それは一つの対処策では役に立たない。ミクロ的に見ているからである。事象をミクロ的に検た場合、一つの現象は、まず原因があり、しかしこれだけでない。原因に付随する有機的なる見えない部分の絡み合いがある。原因に絡むものは、基因であり、誘因であり、更には遠因があって種々の無数なる原因と結果が絡み合っている。
 そしてこれを解明しようとすれば原因の原因を追い求め、確かに心因は掴むことが出来ようが、根本的対策はここで終了する訳でない。真因の真因の追求が必要になっていくからである。
(本文より)


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平成29年 『志友会報』7月号



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志友会報

習・離・破と習・破・離
 稽古ごとには習・離・破【註】一般には習・破・離という。わが流では「離」と「破」が逆になっているので注意。しかし、これは伝承的な稽古事に見られるもので、伝統を有するものは、師の教えを最後は破る事で、現代にマッチした伝統を守る)がある。だが残念な事にこの点に研究がなされていない欠陥が習い事にあると言えよう。
 (中略)
 もう少し人間の命と云う根本を研究すれば、その防禦本能はどちらを優先するか、それらが見えて来よう。人間は、人間以外でなく、またそれ以下でも以上でもない。
 したがって武術家と云えども、人間であり、武術家である前に人間であると云う認識がなければ、武術など遣っても仕方ない。人間であるならば、必ず無意識的にあるいは本能的に護りの形を自然と作るものである。これが出来ないのは、人間ではなく、また生き物でもなく、生命の有る、生きとし生けるものの命ではない。
 剣術の術理と云えども、人間を対象にして考え出されたものであり、「命」を研究すれば、正対であるか半身であるか、こんな事は人から教わらなくても分かるものである。
(本文より)

裏 面

現象界の一コマ
 総てが「大いなる一」の中にある。
 ところが、人為は自然の流転の中の一過程、一コマを取り上げてこれに体系付け、そこに人為的な流れを付け、これを原因から起因した結果とした。これは自然現象を「一コマ」として視ているに過ぎない。
 本来に自然現象は映画のフィルムに譬えれば、その一コマは連続しているのである。これを自然に置き換えれば、自然のフィルムは直線的でかつ平面的な画像集積でなく、立体的でかつ有機的であり、これは総てが一体になったものである。

 しかし、ある科学者は一コマのみを切り出して、その部分の一現象を検れば、あたかも原因と結果が体系的に整然として見えるように錯覚する。これを全体像として長期的な眼で高所から洞察すれば、大自然と言う実体は何処に原因があり、何処に結果があるか全く混沌として分からなくなる。こうなると原因も結果も、その種の思考レベルでは判別が出来なくなる。この期に及んでも、執念深い科学者は、それでも立て直しを考える。その立て直しと言うのは、その因果を微に入り、また細にわたって解き解しを図るだろう。
(本文より)


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志友会報H25年4月〜9月



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