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平成27年 『志友会報』6月号

志友会報

玄気
 人は「玄気」を得ると、これまで衰えていた反射神経も取り戻してくれる。玄気を得た事により、宇宙意識が癒しを与えるからである。背筋に、まず「幽鬼」が宿り、鬼神が力を貸す。これが「密教ヨガ」の治療法らしい。
 つまり、素振りこそ「乳酸を叩き出す唯一の法」であるからだ。
 それと併せて、水と湯を一分間ずつ交互に入る、西式健康法の冷温水浴を実践する。日々の行法と思い、また背景には「日々戦場」や「常時戦場」の備えに対する心構えが、また健康法の一つである。
 (中略)
 一方で密教は幽玄なる宇宙を説いているため、陰陽の「闇」の部分にまでも迫っている。しかし、密なる事としてこの公開を拒んだ。
 あたかも、かの孔子が死の世界の事を聞かれて「知らん!」と喝破したようにである。
 この「知らん」は、本当に知らないのではなく、知っているが無闇に明かせないと言うことだったのであろう。つまり「語らん」あるいは「言わん」であろう。
 (中略)
 表裏一体の現象界において、実体は表だけだとするのは短見であるからだ。
 表があるのなら、当然、裏も存在する筈である。
 光があるのなら、その裏には闇が存在する。ゆえに光と影があり、光は闇があるからこそ明確となる。闇の中に輝く。そのことを能く知っていたのが孔子である。つまり、「知っている」ことは、眼に見える体系的という表皮上の事象に囚われて、それだけしか見えないと言うのでなく、見えない隠れた部分の裏なる箇所の存在までを知っているという事なのである。
 (中略)
 言うべきではないことは言わない。知るべきことではないことは知らせない。
 また、それを知ったからと言って、どうなるものでもない。秘密とはそういうものである。知ったとしても扱い方が難しい。ゆえに扱い方は慎重を期す。無責任には扱えないのである。
 これは、秘密は秘密にしておくべきだと言うことである。秘密は、秘密にしてこそ烱る。光は闇の中ではじめて煌々とした灯になる。
(本文より)

裏 面

 この自由性を失わない限り、人は、禄という高額給与で蹂躙される事はないと検たのである。
 いつの世にも、人間を惑わす金・物・色が飛び交う。その中で、志を抱き続ければ、まさに大丈夫と言う人物になれる。
 こうした人物に、富貴や快楽、美女の享楽をもって誘惑しても、その人物の精神は決して蕩けることはないであろう。
 また、金・物・色で墜落すらさせることが出来ないであろう。高き理想を掲げ、懐に玉を抱く人物の志は、そういうヤワなものでない。不動のものである。ゆえに「信念」と言う。簡単には崩れない。

 更に、如何なる窮地に追い込んでも、塗炭の苦しみに遭わせても、その圧迫に音を挙げて、掲げた志を取り下げることはないであろう。
 そして、それ以上の圧迫や軋轢を掛けても潰れず、矍鑠とし、毅然とし、また武力や暴力の脅しても、些かも屈しないものだ。
 こういう人物を「大丈夫」と言うのである。
(本文より)

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平成27年 『志友会報』5月号



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志友会報

滝の水を止めてみよ
 武術的訓練の成されていない手の早き素人も、よく見れば、「ごとごとしさ」がある為、こうした点において、自分では気付かない弱点をさらけ出している。「水走り」がない為である。
 この水走りは、肩から手首の甲にかけてのなだらかな、流れ動きとともに、その立ち居振る舞いを言う。この動きが汚いと「ごとごとし」となる。それは同時に途切れることを言う。あるいは水が停滞して、流れが淀む事に例えられる。

 一瞬、眼を晦まされる早い動きに中にも、よく見れば、「途切れ」が存在しているからである。この意味で、武道の有段者と雖も、同じであり、その動きと流れには、「水走り」が感じられないものが少なくない。
 「水走り」をよくする為には、途切れることがなく、ごつごつと引っ掛かるところがなく、肩で風斬る意張りがなく、夜郎自大の傲慢から抜け出して、「流れる動き」がなければならない。止まってて淀んでしまってはいけない。

 しかし、素人の手の早き者は「水走り」の失っているところに、途切れが起こり、そこに隙を窺わせる一瞬が顕れる。
 かつて、奈良柳生流の祖・柳生十兵衛三厳は、沢庵禅師から、「滝の水を止めてみよ」という公案を授けられたことがあった。十兵衛は、来る日も来る日も、滝へと足を運び、落下する滝の水を眺めた。
 沢庵禅師は十兵衛に、心の動揺を滝の水に例えて説いたのである。
(本文より)

裏 面

幕賓
 つまり、孔明はまた、「幕賓」となり得る人物でもあった。
 それは孟子が明快に提起した浪人的風懐からも分ろう。
 孟子曰く「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行う。志を得れば民と之の由り、志を得ざれば、独りその道を行う。富貴も淫する能わず。貧賎も移すること能わず。威武も屈することも能わず」である。

 仁と言う最も広い住いに暮らし、礼と言う最も正しい位に立ち、義と言う最も大きな道を堂々と歩く。これぞ大丈夫という人物である。
 こういう人物は大丈夫と言う男気がある故、自分の抱いた志が天下に受け入れられれば、その道を行い楽しむことが出来る。
 だが、もし自分の志が、天下に受け入れられなければ、独り「わが道を行く」というのである。潔い限りである。
(本文より)

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平成27年 『志友会報』4月号



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志友会報

自我の世界
 神自我とは「我」のことである。それが種々なるものへと変化した。これを悪因悪果、業因業果といい、この反対もあり得る。逆もあり得る。
 そして次に「我」を挙げる。
 「我」が死んだ先に、何があるかを説く。更に「何があるか」は、自分の行動によるとしている。次に生まれる先を決定付けるのである。これを「因果の理法」という。
 (中略)
 衆生なるが故に……といえば、しかしこれでは衆生は蘇生を封じられてしまう。再生出来ない。生を得て生まれた以上、老・病・死のプロセスには、最終的に蘇生が俟ち構えていなければならぬ。生まれ変わりがなければならぬ。

 例えば人間は夜になると眠りに就く。この眠りは、言わば「小さな死」である。
 夜寝るときに、明日必ず眼を醒ますと言う保証はない。また、明日、生きているかどうかも分からない。それなのに翌朝眼を醒ますのは奇蹟である。
 (中略)
 「寝る」という行為は、次なる日の活力を得るためである。明日の活力を充電するために寝る。だがそれを理解出来ないのが、昨今の現代人であり、死からひたすら逃げ回り、あたかも、いつまでも蒲団に入らない“夜更かしをする子供”のようである。
 老いたり、病気になった躰は、一旦は大宇宙の蘇生の海に浸って、さっぱりしなければならない。リフレッシュしなければならない。新しい元気な躰になって、新生した方がいいのである。ここに生まれ変わりの法則がある。

 古来より武人や武芸者が真剣をもって対峙し、命の遣り取りをして臨死体験を重ねて来たのは、所謂「眠り」の臨死体験であった。臨死体験は眠りをするための予行演習であった。死を捉えた潔さが要求された。
(本文より)

裏 面

 司馬徽の門を叩いたのが、孔明十七歳の時で、『史記』を通じて晏子を知ったのが二十歳であったとすれば、当然、孔明は自らに準えて、文臣は管仲、武臣は楽毅として、彼ら二人の共通した性格や物事の考え方に共鳴していたのではないか。
 つまり共鳴とは、死力を尽くして一国を経営するという人物像であり、また晏子においては既に述べた通りである。

 「士は己を知る者のために死す」という箴言がある。
 思えば、管仲も楽毅も「士は己を知る者のため」に、死力を尽くして一国の運命を切り拓いて行ったのではないか。孔明はそう思ったに違いない。
(本文より)

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平成27年 『志友会報』3月号



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夜寝ると言う行為
 神不在、創造主不在。この思想を唯物論と言う。弁証法から派生した。これが物質的・経済的生活関係を以て歴史的発展の究極の原動力と考える立場が生まれた。

 また唯物論が、社会主義や共産主義を虚構した。唯物論によれば、社会的・政治的および精神的生活過程一般は、究極において物質的・経済的生活の生産様式によって規定され、然もこの物質的基盤そのものは、それ自身の弁証法的発展の必然性に従って展開するものとした。そして神を、創造主を、大自然を否定した。大否定した。

 では、仏教だどうか。仏教では進化論をどう見ているか。
 仏教は「因果の法則」により成り立っている。
 因果法則は、神の、創造主の、大自然の法則の発展により今の、現代の発展があるとは見ていない。何故ならな人間の生まれは、その発展が因果の法則によるとしているからである。原因と結果の、更に原因と結果の積み重ねによって、人間は発展し進化したと教えている。この説法を早とちりして、仏教は「唯物論で構築されている」と言う者までいた。短見である。軽薄である。思慮がない。

 しかし、この見解は間違っている。断言出来る。
 仏道の説く奥には「仏」というものがある……、としている。この奥にある者を検るのが、そもそも仏教の教えである。
 因果の法則の根本に「仏」を置いているのである。悟りを得た者が居るとしているのである。釈迦牟尼仏のことを指す。これは仏を「神」と置き換えれば明白になって来るだろう。あるいは創造主でもいいし大自然、大宇宙でもいい。そうなると、それぞれの因果によって世界が構成されている事になる。
(本文より)

裏 面

 ある日、突然、三人の豪傑が讒言された。
 それは二つの桃を、三人で奪い合う事になったからである。その結果、三人が死んだ。
 それは殺されたようなものだ。裏には謀があった。桃に殺される謀があった。その謀を廻らせたのは、斉の宰相・晏子だった。
 これが「二桃もて三士を殺す」事件の経過であり、これは事件の当事者の晏子の言行録の『晏子春秋』にも詳細が書き尽くしていると言う。
 この書によると、春秋時代、斉の王・景公に仕えていた三人の豪傑が居た。
 豪傑は何れも一騎当千の勇者で、三者が力を合わせれば斉の国が危ない……、国ごと彼らに横領されてしまう……、晏子はそう考えた。
(本文より)

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平成27年 『志友会報』2月号



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志友会報

霊的神性の養成
 現代の世は総てが専門化され、物事を専門的に知識的に究明する考え方が主流を占めている。そしてマクロ的にで物事を観ず、未来とで近視眼的に物事を見て、それで変化の観察をしている。一事小事の些細な事にこだわり、無慙にも、こだわり、こだわり……の拘泥の醜態世界を演じている。そして、この醜態を演じている時代を、冷徹に分析できる人は少ないようである。
 専門的に見る。専門家としてみる。ミクロ的に見る。そしてこれを「科学的」という。
 (中略)
 本来人間は「十二の感覚器」を有していた。
 ところが今日では、五官に頼る感覚器のみしか作動しないようになっている。肉の眼に頼ること甚だしいである。ミクロ凝視とは、この肉の眼によって行われる。そして肉の眼しか信用しない。これを「科学的」と称するのである。
 斯くして、勘の世界が低下し、殆ど機能しなくなってしまったのである。

 更には己を認識し、その認識衝動を真摯に享受する、自己の内面を瞶める価値観の探究を放棄してしまったのである。
 一方において、科学者の口から「人類は常に進歩し続けている」という言葉が漏れ続ける。概して、こうした言葉を聞くと、確かに耳には快く聞こえる。
 しかしこの言葉こそ、錯綜した錯覚に他ならず、人間の本性から大きく逸脱した、悟性に欠ける道を辿っている事になる。

 さて、古神道(仏教・儒教・道教など外来宗教の強い影響を受ける以前の神道)では霊と魂を総じて「一霊四魂」と言う。
 一つの霊に対し、四つの「和魂」「幸霊」「奇霊」「荒魂」の共感と反感の四つで捉え、これを総称して「霊」と呼んでいる。そして魂は、精神分析の分野では「精神」と名付けているのである。
(本文より)

裏 面

「二桃三士を殺す」の計
 昨今は「自由」の名の下に、自己主張と平等が高らかに叫ばれる時代である。
 自由の名において、「言論の自由」というものが幅を利かせた時代で、この頃から個人の自由が表面化していき、自分だけの「自己主張のみ」が強くなっていく様相を見せていた。
 言葉の便利を利用して、勝手な言い分だけが罷り通り、「匿名」という行為が、大いに持て囃された時代の最初でもあった。
 自分の住所や氏名を隠し、好き放題なことを言って、詰ることが認知を受けた時代でもあった。しかし、匿名で物事を語る多くは、言っていることが知的レベルから見て、「便所の落書き」程度の知性しか持ち合わせず、それだけに汚らしさだけが鼻につくのである。
(本文より)

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平成27年 『志友会報』1月号



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剣技刀術
 日本武術の根源には、剣術もしくは刀術の基本鍛錬法が生かされていて、剣もしくは刀の構えは、上段、中段、下段、八双(八想または八相)のこの四つで基本が構成され、これを「表」という。
 表の技から言うと、この中で最も重要なのは、中段の構えである。表の技において、縦断の構えこそ、その術者が会得した技量が推し量れると言われるほである。
 (中略)
 虚言者になるためには、まず場数を踏んでいる事であり、「兵は詭道なり」を熟知している事である。同時に駆け引きにおける厳しい鍛錬を積んでおかなければならない。これは単に筋トレ的なトレーニングでない。訓練ではなく、まさに「鍛錬」なのである。師に付いてよく学んでいる事である。素人の「うろ覚え」のような甘い考えでは、この鍛錬は永遠に完成しない。師に付いて「よく学んでいる事」である。これは厳しい指摘を受けながら完成していく者であり、常に死の点検を受け、その点検結果とともに、自身も学ばねばならない事である。
 (中略)
 かつて剣聖と言われる人はこのように説いた。それは「眼の付様」という言葉で説かれている。そして「広く付ける眼」として、二つの観見を述べている。「観の眼つよく、見の眼よわし、遠き所を近く見、近き所を遠く見る事、これ兵法の専也」と。

 ここで言う、観の眼とは心の眼の事であり、これを「心眼」という。
 また見の眼とは肉の眼であり、「肉眼」の事である。つまり、剣聖の言わんとする事は、心眼に重きを置き、単の枝葉末節的な目先の動向に注意を注ぐべきではなく、もっと局所の、「大観」を見よという事を喝破しているのである。人は微視的な、近視眼的観測に陥りやすい。それは汐時とか特異点を見逃しているためであろう。
(本文より)


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