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平成28年 『志友会報』6月号



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志友会報

人間の「行」とは何か
 「武の道」は武技だけを極めても、達人になれないのは周知の通りである。武の道の根本には、武技だけをやっていただけでは、その本質を体得することができない。その根本真理には、大から小を悟り、浅から深に至らねばならない「変化の本質」があるのらだ。この世のものは、一切が変化をする。刻々と変化を遂げて、一つの処の止まらないと言うのがこの世の現実だ。
 変化の道理を知らずに、また武の道を極めようとしても不可能なことだ。変化は、弱を強に変えるばかりでなく、強すらも、怠れば弱に変えてしまうものなのである。
 そもそも、「武」の興りは、弱者が鍛練により「術」を修得し、強者に挑み、「小が大を呑む」というものであった。

 戦いの起源は、人間の歴史を振り返れば「叩き合い」から始まっている。原始の「叩き合い」は、格闘や争闘に何の方法や技術もなく、要するに腕力の強い者、体格や体力の優れた者が、弱者を打ち負かすものだった。強い者が弱い者に勝ち、大きい者は小さい者に勝つと言う、単に自然の原則を顕したものに過ぎなかった。
 しかし、ある時、大が小に勝つ、一見当たり前の事実が覆され、弱い者が強い者に勝つ現象が起きた。小が大を呑む現象が起きた。これは人間の持つ知性の結果からであった。知性は、一見弱者に思える者が、知性をフル活用することで、小だ大を呑む現象が起きた。逆転劇が起ったのである。

 私たちの遠い先祖は、逆転劇を信念として、弱者が強者に立ち向かう方法を考え出し、小が大に勝つ技術を工夫して、それを見事に開化させたのである。
 誰にでも分かる事だが、小さいよりは大きな方が有利である。少数よりは多勢の方が圧倒的である。眼にはそのように映り、脳はそのように反応する。

 しかし、ここに方法と技術が派生した。勝つ技術が生まれたのである。最初は手近な石を拾って投げ付けたり、棒切れを握って抵抗したりの事であったであろうが、この段階では、まだ自然に生じた狡智の範囲を出るものではなかった。時代が下るに従って、そこには方法論としてテクニックと言ったものが生じてくる。
 また、戦いの規模も拡大されるにつき、使い勝手のいい武器が発明されることになる。更にこうした武器は改良に改良が加えられ、多様化し、その結果、争闘の技術が向上していくのである。(本文より)

裏 面


 結局「損をする余裕」を若い頃から訓練していないと、結末はあまりいい結果が得られないようだ。
 そして「損する余裕」とはどう言うものかというと、損しても損した箇所を惜しいとか、勿体無いと思わないことである。そうした損は放っておけばいいのである。それにこだわって、取り返そうと思わないことである。
 つまり失った箇所は取り返さないことである。そう言うマイナス箇所は、捨て置けばいいのである。忘れればいい。それでお終いであり、惜しい、憎い、恨めしいは消去される。そして新たなことを考える。
 それがつまり「ここからが仕切り直しだ」ということになる。

 人生も、安易に「もう駄目だ、仕方がない」の諦め思考で奔走するのでなく、「仕方ない。よし、これから仕切り直しだ」と捉えた方が、どれだけ有益か分らない。したがって、人の死も、終わることを悲しまなければいいのである。終わることは、仕切り直しをして、新たな出発点に戻るだけなのである。
(本文より)


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平成28年 『志友会報』5月号



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志友会報

死を前にしての知覚
 死を悪と考え、死から逃げ回ることばかりを企てる時代である。江戸期の半ばになるとそういう考えで汚染されるようになる。しかし、死は決して遠い先にあるものではない。隣り合わせである。宿命は固定的だが、運命は流動的でありダイナミックにうねるもの……。
 決して固定され、決められた道筋があるものでない。突如として変化するものである。その変化の最たるものが「特異点」というものであり、突然の「どんでん返し」である。これに襲われたら、ひとたまりもない。これまでの運命は進退窮まる。

 特異点に抵抗しても、人智では、いかんともし難いのである。こうして襲った特異点の尖端に「死」が待っているかも知れない。現代人は何故このように、死に対して無防備で、忌み嫌い、人間が死ぬ存在と自覚していないのだろうか。

 無慙な死、非業な死、こうした死を「横死」と言う。事故や事件、思い掛け無い災難や紛争の戦火に巻き込まれて死ぬ死を、こう言う。一般には不慮の死と片付けられてしまうが、その死の刹那が凄まじい。断末魔に襲われる死である。筆舌に尽くし難いほどの苦痛極まる死である。そして、巧く死ねない悲惨な死を、横死と言う。

 人間、死ぬには死に技術がいる。いかに死ぬか、どうしたら巧く死ねるかの、死ぬための技術である。
 現代の世は、長らくこの技術を蔑ろにし、ただ生きることだけが正しいように考えられて来た。ひらすら死から逃げ回って来た。その盲点に気づけば、生への拘泥は無駄となる。虚しいものになる。虚無とはそういうところから起こるのである。む格はそれに気づいたのだろう。
 (中略)
 かつて経験したことを再認感情を伴って、例えば、行くべきではなかったとか、遣るべきではなかったとか、協力すべきではなかったとか、仲間になるべきではなかったとか、貸すべきではなかったとかの、失敗とそれらが齎した絶望を伴いながら、過去の失策が浮上するのである。これこそ、人生には失敗と絶望がつきものであると言う、「苦」の実態がある。後悔すべき人生、失敗と絶望に振り回された人生の足跡こそ、「人生の苦」の正体なのである。

 そして人は、この経験を下に、人生の何たるであったかを悟るのである。その足跡には確かに、生き恥をかいた足跡、煮え湯を飲まされた足跡などが点在し、敢えて失敗なる人生を反芻するのである。そして、反芻する最大の課題は、自分の人生が命賭けであったか、どうかである。
 生命を賭けないと、人間には心眼が見えてこない。
(本文より)

裏 面

清濁併せ呑む
 刀屋をしていると、それに準ずるいろいろな奇妙な小物を観る。
 その大半は無為無策で、一端の講釈師で、自分は如何にも“善人でござい”という虎視眈々とした冷やかし客である。あるいは人間的器量の欠いた人達である。こうした客の来訪は、まさに人間観察の見本市でもある。

 特に売買において、そう言う人を観る。そして人間の本性が顕われる。
 考え方や、これまでの人生観も見えてしまう。同時に経済的不自由をしているか、そうでないかも一目瞭然になる。

 例えば、刀を売りに来る人である。
 そうした人の中で、刀剣を骨董屋で買ったと言う人がいる。
 業界では、この種の人を「めくら」という。その「めくら」の刀を鑑ると、明らかに「よろず屋」で騙されて買った痕跡があり、価格がベラボウに高く買わされているのである。同じ古物商でも、刀剣専門店で買うのと、骨董屋で刀を買うのとは、その価値観も意味も違って来る。餅は餅屋だ。
 刀剣類は、やはり刀剣専門店で買うべきであり、刀剣を骨董屋で買うべきでない。

 また、刀剣に関しては、骨董屋自身が刀剣の素人であり、多くの骨董品の中に掘り出し物のような構図を作って売っているから、素人はこのトリックに騙されるのである。
 そうして掴まされた刀剣類を、今度は刀屋に売りに来る素人愛好家がいるのである。こうした愛好家は、十人中十人が騙されて高く買わされている場合が多い。
 「めくら」に付け込まれたからである。つまり、蜘蛛の巣のような網に、搦め捕られたのである。
(本文より)


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平成28年 『志友会報』4月号



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志友会報

拘泥の愚
 心の問題であると同時に、人智では計り知れない大きな力が働いているのを悟るのである。それは深遠だった。
 人智や、道場剣法の駆引きでは計りようもない大きなものであった。自然が、人間に何かを教えている。その理を説いているとは、古人の言である。
 確かに大自然は人間に何かを教え、説き、諭している。しかし、人間がこれに気付かねば、理を知らずして敗北の人生を歩く以外あるまい。

 大自然は人間に何かを教える。無言で何かを指し示す。
 窮して窮して、更に窮して、窮乏のドン底に落ちると、そこに必ず何らかの変化が生じる。そして、変化が起きた時には、何らかの通じる道が開けているのである。
 そう言う境地を会得するには、窮乏して、絶望して、どうにもならない底の底に落ち、一度ドン底に落ちてもがいてみなければならない。
 中途半端な苦悩では、浮かぶ瀬もない。絶望と恐怖が半永久的に伸し懸かってくる。

 したがってこれを回避するには、一度、ドン底に到達して見なければならない。そこで苦悩してみなければならない。
 (中略)
 捨てる中に真理がある。
 この世は、捨てて行く、行為そのものに悟りがある。そして囚われない。こだわらない。
 陽明学風に言えば、ただ一心に「まごころ」を極めるだけである。究極を目指して、「まごころ」を示し、その先端に神経を集中することである。それには囚われず、こだわらないことであった。拘泥しないことであった。

 だが愚者はこだわる。拘泥する。それを弱点と、無格は感得したのだろう。
 弱点にこだわっていては勝てない。弱点に囚われていては敗北する。弱点に固執することでない。こだわり、そして拘泥するだけで、そこに「負けの要因」がある。こだわりを捨てることだ。無格はそう捉えた。賢明である。この世では、捨てる中に真理がある。無格は、そう悟ったに違いない。

 それはまた死の恐怖と酷似していたかも知れない。つまり「生死観」を解決することにあった。それには生を貪らないことであった。生にも淡白になり、死にも淡白になってその境を超越することであった。
(本文より)

裏 面

現代幼児大人考
 この世界では、既に「幼児大人」は絶えて久しいと思っていたのだが、やはり時代の波と言うか、昨今の狂った世の中の激変と言うか、この種の人間を久々に視たのである。
 それだけ、現代人は格も下がり、かつての人物レベルが、逆行して小人化しているのであろう。
 歴史の逆行こそ、現代の珍現象と言えるが、今まさに古物の世界にも、幼児大人現象が起こっているのである。この幼児大人は、自分の買った貴金属のプラチナがプラチナでなく、「ただの銀」だったので怒りを新たに激怒していた。
 (中略)
 この幼児大人曰く「銀にプラチナの刻印が捺してあり、その銀でありながらプラチナであると言って売った骨董会の会主の発句が許せない」と言うのであった。まるで言うことが子供である。それも金銭に換算しての糾弾であった。糾弾によると、8グラムのプラチナ相場は現在の価格で8万円前後であるが、銀8グラムでは「2千円がいいところ」と言うのである。その2千円程度の銀をプラチナと偽って会主が競りを行ったと言うのである。古物市場では種々の人間の皮を被った魑魅魍魎が出入りする。妖怪の世界である。

 まさに「キツネとタヌキの騙し合い」である。
 誰もがそれを承知で来ているのである。そして自分の眼力に総てを賭けて、目利きとしての勝負をする。
 これが古美術の世界の攻防戦である。自分の眼が、疎ければそれだけで負けである。負けたくなければ眼力を養う以外ない。恨むべきは、騙した他人ではなく、騙された自分の眼力の未熟さを大いに恨み、それを踏み台にして、今後の「転ばぬ先の杖」にすればいいのである。これが「教訓」と言うものである。
(本文より)


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平成28年 『志友会報』3月号



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志友会報

森羅万象の奥の奥
 霊的存在なるものを力説すると、証明せよとなる。だが説明も、理由付けも不可能だろう。
 何故なら、心の眼で視る行法は、闇を視る視界の鍛錬である。その世界は森羅万象の、その奥の奥である。視覚の暗い肉の目では確認することが不可能であるからだ。闇を見るのに酷似する。だがその奥は、何も無いのではない。何かがある。何かがあるから、現世の生きている人間に何かを投げ掛け作用する。作用するから、それに伴う反作用が起こる。これが「何か?」を見極めない以上、森羅万象の、その奥の奥は分らないだろう。
 (中略)
 汝、眼に誑かされる。
 道元禅師の言葉である。
 そして、肉の目は心眼を得るために無用だと思った無格は、座頭の真似をして目を瞑り、一気に丸木橋を渡り、向こう側に辿り着いたのである。渡るのに肉の目は無用だった。いつも過情報が恐怖を取り込んでいたのである。恐怖を増幅していたのである。その間、肉の目を閉じていただけに恐怖感はなく、生理的拒否反応も起こらなかったのである。目を閉じれば、内なる自己に向かい、耳も雑音に煩わされなくて済む。谷川の轟音も和らぐ。そして無事に、向こう側に渡り終えたのである。目を閉じることにより、心が安定していたからである。恐怖感に煩わされなかったのである。

 無事に渡り終えた時、無格は「はた」と気付くことがあったのである。「これだ!」と膝を叩くような、何かを会得した境地を悟ったのだった。それは剣の極意だった。
 眼があるから無駄なものを見てしまう。敵の剣に怯えてしまう。敗因は此処にあると検た。
 眼明きだから見らなくていいものまで見てしまい、それに心が奪われる。心までもが動揺して、拒否反応が起こる。
 つまり、「眼」の存在に頼り過ぎると、それが却って邪魔になるということに気付いたのだった。眼明きの不自由に思い当たるのだった。
(本文より)

裏 面

 仮に、天が「もう駄目だ。これ以上、二進も三進もいかない。後がない。お前はこれで一巻の終りだよ」と囁いても、言葉に隠された有機的な部分を注意深く解読すると、その解釈は「そんな風に遣うのではない」と、逆説的な受け止め方が出来る。
 「もう駄目だ。お手上げだ。諦めるしか仕方ない」
 こうなったとき、最後の「諦めるしか仕方ない」を、私は「これまでの遣り方」を諦めるしか仕方ないと捉えたのである。

 諦めは、方法論を変えよと受け止めたのである。そこで、今までの失った部分や損した部分は総て捨て、「じゃあ、ここからが仕切り直しだ」と捉えて、次ぎなる人生の敗者復活戦に備えて、新たに再スタートを決意するのである。
 私が諦めるのは、これまでの遣り方であり、失った部分であり、損した部分なのである。
 それ故かつてある富豪から、「損する余裕」を学んだのである。
 英国風の富豪が競馬を愛する、かの特観席でのジェントルマンとしての態度を教わってのである。
 また、損しても悠々と振る舞っているのが、紳士であると学んだのである。
(本文より)


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平成28年 『志友会報』2月号



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大自然の前の人間
 人間は大自然の前では、所詮、塵芥のごとき存在である。如何に抗おうとも、所詮小さな存在なのである。修行をしてきたといっても、高が知れている。研鑽何十年と言っても、すれは費やした歳月に過ぎない。悟りを開いたとしても、多くは「生悟り」であった。

 そう思いながら、断崖絶壁に架かる丸木橋の上に足を掛けて、此処を何とか渡ろうともがくのであるが、首を傾けて下の深淵を覗くと、幾ら自身を叱咤しても、全く次の一歩を進めることができなかったのである。断崖の縁に立っている自分の今の立場を思うのだった。やはり怕いのである。足を這わせるように送り出しても、崖下が恐ろしく眼に飛び込んで来て、殆ど進めることが出来ず、いたずらに時間だけを費やすのだった。
 (中略)
 一滴の水滴も繰り返せば、岩をも穿つと言うから、あるいは少なからず可能性はあるだろう。要は根気の問題であり、修行法が間違っていなければの話である。無格は後に『無眼流』なる流派を編み出すが、この流派は、自己を掘り下げることにより、真髄を視るというものである。この流派の極意は、精神世界に向けた「悟り」を説いているようにも映る。掘り下げた自己は、外界とは遮断された、己を探し当てた現象を迎えるものであった。そして、一旦掘り下げ、己とは何者かを突き当てたとき、一種の悟りが開けるのであろう。竦んで固まった躰は、そこで自由を得るのである。

 しかし、自由を得る以前は、世の中には、死ぬよりも怕いと言う現実があると言うことだ。そして、これこそが「死ねずに生きている証拠」だった。
(本文より)

裏 面

天は大任者の資格を検る
 大任を受ける者は試される。徹底的に試され、苦しめられ、苦難のどん底に叩き込まれる。どん底をのたうち回るような苦しみを与えるのである。そして、然る後に大任を与えていいか、どうかの本物の受任者であるか否かを試す……。
 苦しみに音を上げたり、泣き言を言う者はその資格無しと看做す。安易に与えてくれない。甘えの構造の中にいて、首までぬるま湯に浸かり、安易と簡単と特典を期待する者には決して大任を与える事はない。極限まで苦しめ、その資格者かどうか るのである。

 幾ら才能や素質があっても、この程度の苦悩で、不平や不満をいい、理不尽を詰り、疑いも持ち、簡単に音を上げる者には、大仕事は任せられる筈がなく、大任は与えられないからである。泣き言を言ったり、安易に弱音を吐く者はすぐさま追い払われる。実に厳しい。まるでモグラたたきゲームのように追いまくられ、悪い事が度々重なる。決して安易な道を選ばさせない。苦難であり、茨の道である。恐ろしく、辛い道である。そしてこの苦難が連続する。

 運命として苦を押し付け、波乱の道を選択させ、その凄まじさは徹底している。死の寸前まで追い込む。遭わせて、もう死ぬのではないのかというような、臨死体験まで経験させ、その体験の凄まじさと言ったら、言語に尽くしがたい。恐ろしいほど、恐怖を感じ、怕い。並みの生半かで、体裁ばかり繕う者は直に追放される。残る事を許さない。
 しぶとくて、根気があり、信念があり、志を持ち、諦めず最後の最後まで諦めずに、何度打ちのめされても起き上がる者でなければ、大仕事は任せられないのである。ゆえに、この大仕事を「大任」と言う。受任者の資格だ。
(本文より)


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平成28年 『志友会報』1月号



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志友会報

観察眼
 普段と同じ景色を、来る日も来る日も同じ条件下で見過ごし、安易に「今日も変化無し」と決め付けてしまうのである。
 また、ここが凡夫の殆うきところである。殆うきは勘の閉鎖状態に陥り、この機能を閉鎖するばかりでなく、退化させているのである。
 (中略)
 先に述べた、かの武芸者・反町無格を思い出して頂きたい。無格は、あるとき深山幽谷に迷い込み、その行き先に、断崖絶壁い行く手を阻まてのである。
 さて、どうするかを思案する。

 引き返して迂回する道を選ぶか、そのまま押し通るかの選択肢に迫られた。
 断崖の下は、見るからに恐ろしげな千仞の谷である。此処に来て進退窮まったのである。千仞の谷に行く手を阻まれ、「何といまいましいことよ」と痛恨の念を抱きながらも、「仕方ない、引き返すか」と思うのだが、ふと先を見ると、丸太を横倒しにした一本の丸木橋が架かっていた。
 (中略)
 ところが、「武勇」を論ったところで、それが奇しくも、あるいは愚かにも、死の覚悟をも超越できず、進退を迷い、恐怖に戦き、また身構えも、会得した種々の剣技の型も、何の役にも立たず、一本の丸木橋の前で困窮する剣客無格のように、いざというとき、何の突っ張りにもならなかった。武勇は、恐怖の前では萎む。
 何の術もなく、ただ竦んで慄えて、それがオチだった。

 前途に立ち塞がる千仞の谷は、無格にとって非日常的な、また、これまで対戦したこともない非人間的な異次元世界の大自然の驚異だった。自分とは余りにも違った、隔絶した大自然と言う相手の大きさに圧倒されたのである。
(本文より)

裏 面

四期
 人間の人生には生・老・病・死の四期があり、人はこの循環を廻って使命を終え、次の世代に託すとしている。
 これは落葉にも譬えられよう。
 大樹の枝に繁った若葉は春に芽を出して、夏には立派な若葉となる。その若葉は秋になって色づき、冬に差し掛かる頃、病葉となって葉は落ちていく。しかし地面に落ちて、使命はそれで終わったのではない。地面に落ちて次の世代のための養分となる。そして再び生命は繰り返されるのである。
 生命は循環するのである。古い生が死に、新しい生が現れるのである。
 それに際して、どう立ち振る舞いかが問題となる。
(本文より)


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