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平成28年 『志友会報』12月号



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志友会報

こだわりを捨てる
 人間誰しも、一種の頑迷な「こだわり」を持っている。知能の上下に関係なく、人は「こだわる生き物」である。したがって、身分の上下の差に関係なく、また貧富の差に関係なく、人は病気になる。その病根の裏には「こだわり」が隠れている。あの有名な、禅の大家である白隠禅師(江戸中期の臨済宗の僧。一六八五〜一七六八)すらも、「こだわり」から病気(禅病ともいい、現代で謂えば自律神経失調症)になっている。
 (中略)
 修行も、遣り過ぎれば、毒となるのである。白隠は「遣り過ぎの愚」を冒して、禅病に罹ったのである。頭脳が逆上し、心身の疲労が激しくなって、神経過敏になり、不眠症に陥ったのである。現代人ならば、こうした時、内科か、神経内科などを訪ね、医者に頼って薬を貰い、これを解決するところであるが、白隠は自律神経を調整することで、精神状態を元の状態に戻していったのである。
 白隠は、「中庸」の禁を犯していたのである。本来ならば何れにも偏らない呼吸法をしなければならないのであるが、やり過ぎたために酸過多状態になり、中庸から大きく逸脱していたのである。

 現代医学は、神経症のような患者には薬物投与により解決の方法を狙うが、心身症や神経症は実際のところ、薬物投与だけでは完治できず、その後も引き摺って、統合失調症(精神分裂病)にまで発展することがある。内科的薬物療法では完治しないのである。生活習慣から起る病気の多くは、病院では治せない時代に入っているのである。
(本文より)

裏 面

良知を司る自律的なる善
 確固たる人生観は、どう確立されるべきか。

 ところが、現代はこういう観点に立って真摯に物事を考える人が少なくなった。どういう思想を持ち、どう生きるべきかの哲学を持った人は非常に少なく、単に金・物・色に躍らされて、本能のままに生きようとするのが現代の物質一辺倒主義の中にあるように思うのである。
 (中略)
 だが、そうした世の中であっても、ある種の哲学や思想、更には理想をもって世に立ちたいものである。また、こうしたある種の確信をもって世に立てば、そこには自ずと品位と気品が生まれ、悠然たる風格がそれによって生まれて来る。一瞬先は闇と言う。一秒先の闇の中も、見通すことは容易でない。

 では、こうした闇を見るにはどうしたらよいか。
 まず、自分がこの世に存在している現実を考えてみればいい。
 そうすると何のために生まれてきたかを考えることで、大半は解決するのではないか。自分がこの世に存在する、存在意味である。

 則ち、人は如何に生きるべきか、また如何に行動すべきか、更には行動するに当り、如何なるものを基準に動くかを考えれば、そこには自ずから見えて来るものがある。
 それを掘り下げて探求することである。この、掘り下げて自己を探求する事無しに、明日のことが分る訳はないし、半日先、一時間先すらも分る訳がない。分らなければ至極不安になる。しかし、分らないからこそ考え続けねばならないのである。自己を探求しなければならないのである。
(本文より)


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平成28年 『志友会報』11月号



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心胆力
 心の鍛錬では「悟り」を教える。心のあり方を教える。
 「ある人は永久に途中にあって、家舎を離れない。ある人は家舎を離れて、然も、途中にも居ない」と説く。
 一方は現実の社会である為、人の為に働いていながら、本分の悟りの絶対境を失わない。他方は、「悟りの絶対境も捨てた」といって、世俗の相対的な、あれこれや、善悪、好嫌の渦にもかかわりがない。そして、これこそが「無事これ貴人」の境地と言うのである。

 私たちは、自称武道家や自称武術家と称しても、その本性は、俗人の精神構造と殆ど変わりがない。「自称○○」を名乗ったところで、その中身は、「俗人」のそれである。正体は「凡夫」だ。
 「悟りだ」「開眼だ」といったところで、たいして俗人・凡夫と何ら変わりがないのである。むしろ、「自称○○」がある為に、凡夫以下の人格や品格しか持ち合わせていない者も多い。悟りとは、こうしたレベルに存在しないし、また、こういう類のものでない。
 精神構造の作用が、やはり日常の事柄の一喜一憂に関わり、これに振り回されているのである。小事に勝ったと謂えば、有頂天に舞い上がり、その日の喜怒哀楽に流されて居る。そうこうしているうちに、段々と退化し、腐敗していく世俗と言うものがあって、これに目を奪われてしまう。現代人は、こうした中で生きているのである。

 だからこそ、自己をしっかりと見詰め直す必要があるのである。自己をしっかりと見詰め直す人は、得てして、「悟りを開いた」と自称しないものである。謙虚であり、事象に素直な目を向ける。自己を見詰める、ひと握りの人々が、精進工夫を重ねながら、益々進化し、最高の精神構造を目指して、鍛練する態は、驚嘆そのものを感じさせる。
 そして、それで得た強力な精神構造を自由に使いこなし、滅びの加速度から解脱できるのである。
 剣に至る道は、「求道の道」である。求道の道を極めると謂うことは、邪欲を慎み、自然の流れの中で、自然と倶に生きることでなければならない。自然と倶にあって、人間は「自然の子」であることを自覚する。
 したがって、大自然の法則に逆らわぬ生活態度が必要である。自然を学べば、自然の中から教えられることは多い。
(本文より)

裏 面

損する余裕
 商人のウソを駆引きと言う。ウソも使い分けに応じた必要悪なのである。しかし、愛は不変であり、特に仁愛は「まごころ」の顕われとして貫きたいものである。

 仏の愛を「慈しみ」と言う。
 武門の愛を「情け」と言う。
 商人の愛を「損する余裕」と言う。

 この「損する余裕」に補足説明を加えると、商いをする場合、損して、損に拘り、損した部分を取り返そうとするのではなく、捨て置くことである。捨て置くことを知らねば、仁愛の行為は失われる。捨て置いて、それを「惜しい」と思わないことである。損は、損したままでいい。捨て置けばいい。

 天は、そこを「検ている」のである。
 富貴は天にあり。
 天の眼に叶った者だけが富貴を得る。しかし、失ったものを“惜しい”と思えば、総ては逆行する。負け将棋を、もう一番、もう一番と繰り返すことになる。まさに愚行である。

 利とは、結果として蹤いてくるだけのものであり、最初から利を狙った策略では、損が生じた場合に痛手を大きくする。同時に、天もそっぽを向くだろう。
 損は取り返そうとせずに、損は放置し、損したことは忘れ、新たな部分を開拓することである。
(本文より)


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平成28年 『志友会報』10月号



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志友会報

悟りとは
 「悟りの境地」とは、外部に起るあらゆる変化に、適切に対処して、然も影響を受ける事なく、また、結果にも囚われないという事である。したがって、超能力的なものを謂うのではない。ごく自然に振る舞う自己に、悟りを見る。悟りは、自然の佇いの中に存在する。この境地を発見した時、自ずと心は安定し、静かなる安住の地を得る。
 この時の精神構造は、完全で、かつ正しく働いているから、いつまでも過ぎた事に囚われたり、いつ何が起こるか、実体もない明日の事を思い悩む必要はないのである。取り越し苦労から解放され、怯えると言う欠陥構造から解放されるのである。

 禅では悟りを大切にする。悟ったからと言って、その悟りに安住する事は許されず、悟りの上に胡座をかく事は、厳しく戒められているのである。
 したがって、深山幽谷に入り、山中に独り孤高を持し、裟婆と隔離するような悟りは、更に意味がないとする。静かな処に、吾が身を隔離しても、そこで得た悟りは、本物でないのである。
 則ち、俗と交わり、俗の中にあって、俗と塗れながら、悩み、迷う人と共にあって、然も、少しも影響されないというのが、自在な働きを持つ本当の精神構造なのである。
(本文より)

裏 面

経緯知らずでは恨みを買う
 金銭中毒患者がその顕著な例であろう。あたかも麻薬中毒患者のように、金に中毒症状を犯した人間は、金を欲しても欲しても欲したらない。しかし、魂を売らない人間は、実に誇り高い。崇高である。
 貧しても、実に誇り高く、毅然とした態度で生きている。
 昨今の世では随分と少なくなったが、貧者でありながら胸を張って毅然として生きている人がいる。
 そう言う人は、魂が気高いのである。更には霊的神性も高く、仁と愛で満ちている。

 一方そうでない人もいる。情の欠片も存在しない人もいる。
 人の心を解しない人は、親子の血縁関係にあっても、親が子を理解しない親は多い。したがって、単に血が繋がっているだけで、子の心を理解せず、一方的に孝行せよと言うのは親ではなく、他人以上の赤の他人である。昨今はこう言う親が殖え、また子が殖えた。心の不在の時代である。日本は明治以来、学制の奨励によりインテリと言われる人が徐々に増加し、また戦後に至っては学歴社会の学閥社会が重なり合って知識階級が増加した。しかし一方で、知識階級の増加は、心を不在にし、唯物論に傾倒し、物欲を深め、仁愛を不在にしてしまった観が否めない。
(本文より)


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平成28年 『志友会報』9月号



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志友会報

剣武に賭ける思想
 武の道は天地の一息を根源とするものである。したがって、そこに流れるのは神気であり、神気が滞りなく流れることが肝心である。神気が滞りなく流れれば、まさに表もなく裏もなく、総じて仕組みや型もないのである。唯ひたすらに神気を素直に発揮して、平常心によって、形に照らすと出で、打太刀の仕掛けに随い、これに変じて勝ち、また、仕掛けざるも勝ち、形体、手足、腰回り、太刀の所作は構えが無い、「無構え」から発するものである。

 ただ、淡々と流れ、滞らず、気にも止めず、独得の魅力を湛えてこそ、寔の剣武と言えるのである。したがって無敵というのは、敵対するものが居ないと言う程、強いという事ではない。己に対する存在として、仇敵を持たないということを指すのである。つまり、これは二次元的な対観の否定である。

 そこには、まず構えが無い。型が無い。仕掛けや仕組みがない。何一つ置かないという事である。その為には、相手の太刀の働きを研究し、その働きが幾通りかの基本線を通って行動に出るのであるから、それを分類し、その結果、これを封じる稽古を行うのである。即ち、これが「地稽古」というものである。
(本文より)

裏 面

(前回の続きより)
 継之助の自負は、確かに武士としての誇りを忘れなかったであろうが、この武士は、己の全人格の前面に人民への徹底奉仕の全人格を打ち出し、それに尽くす武士の精神であった。夜郎自大の、ざんざん威張り腐った武士ではなかった。そして、継之助の奉仕の行き先は「愛民」に帰着するのである。
 分け隔てなく、仁をもって慈しみの気持ちを持つことなのである。人民こそ、守るべき、保護すべき対象であった。この「分け隔てなく」は、また自由裁量に任せられるものである。それは事象の善悪は一方で無善無悪に通じ、これが心の本体と説くからである。そして陽明学では理よりも心の自由裁量に重きを置いているからである。

 則ち、良知にとっては予め定めることが出来ないからである。
 心即理の「理」は、単に価値判断ではないからである。「理」が定められれば、心の自由裁量は失われる。そのことにより、理が死んでしまう。硬直化して、死物化する。
 これを避けるには、是非にも善悪意識から脱して、自由性が必要であり、自由こそ究極的には確保されねばならないものである。
 (中略)
 人間は喜怒哀楽の中で生きている。喜びもあれば怒りもあり、悲しみもあれば、それを経由して楽しみも訪れる。人は、一日のうちでも何回も極楽と地獄を行ったり来たりしているのである。その中で明確なることは、工夫(功夫)することにある。
 工夫を設けなければ、心は常に揺れ動くものである。心は静動を繰り返している。然も一日のうちに何度も上下する。したがって、心のありようを格す以外ない。
(本文より)


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平成28年 『志友会報』8月号



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志友会報

死生の因縁
 人間界には寿命と言うものがある。失脚したり、地位を追われたり、罠に嵌められたりしてスキャンダルの的になったり、大人を余儀無くされるのは、時代が、その人を、もう必要としていないからである。

 また、「人が死ぬ」という現象は、因縁が、その人の命を必要としていないからである。運命が、因縁が、その人の命を必要としなくなった時、人は死ぬのである。人間は病気で死ぬのではない。また突発的な事故で、偶然に死ぬのではない。その人が、幾ら若い人間であり、死ぬまでには程遠い年齢であっても、生きる因縁が途絶えたら、その人は事故死と言う運命を辿って、死に至る事になる。

 また、病死の場合も同じである。本来、病死と言うものはない。病気で死ぬのではなく、生きる因縁が途絶えたから死ぬのである。寿命が尽きたから死ぬのである。世間では、よく死因を病気に求め、また現代医学も、その人の死因を病気のせいにする。ガンを発症して死んだ場合、その死因は○○ガンであり、また心臓障害が絡む、脳卒中などで死んだ場合は、脳血栓(脳の動脈に生じた血栓のため血流が妨げられて、脳組織が壊死または軟化し、その部分の機能が消失する疾患)または脳塞栓・心臓内膜炎・心臓弁膜症などの時に、流血中に遊離した凝血(血栓)の破片が脳血管を閉塞し、その支配域の脳組織を破壊・出血させる疾患。脳軟化症の死因となる。死亡診断書には、そのように書き込まれる。それは脳血栓→脳梗塞→脳塞栓の変化を伴って病態を辿るからだ。しかし、幾ら病名を挙げ、それが死亡診断書の体裁を整えていたからと言って、実は病気で死んだのではなく、寿命で死んだのである。寿命が尽きれば、人間は死ぬ以外ない。それは因縁がその人を必要としないからだ。
 運命はその人を生かしておいても、無駄だと判断するからだ。

 もともと非存在なる人間が、生きているから、これは奇蹟である。人が日常生活を送って生きていると言うことは、よく考えてみれば、奇蹟の連続である。奇蹟が連続するから、そこに生きる因縁が生まれ、生かされることが約束される。生きることと、死のことの両方に大きな意味を持つことになる。
(本文より)

裏 面

特異点
 提議とか問題とかは、これを出すことが現象界の事始めであり、これが巧く出来るか、否かに懸かるようである。また、巧く出せれば、同時にそれは答えなのである。
 そして人の死を考えれば、損した所は捨て置き、新たな開拓が必要なのであり、「今から仕切り直しだ」というのが、臨終の刹那を起点にして、これを死から生へと転換するその瞬間に、如何に仕切り直しの意識を持って、臨終をしくじらないように出来るか否かが、また魂の成仏に至るか、不成仏に至かの分岐点であり、これままた「特異点」と言われる、その刹那を顕しているのである。

 さて、この特異点を、もしあなたが老境期にあって、濃厚な時間を過ごす人生の旅人として、どのように捉えるかで、その刹那の明暗を分けることになろう。
 死んだら、以後はもう何も無い……。何も無い。意識もない。
 世間ではそのよう解され、中途半端な無神論者の日本人は、これを科学的と云う言葉で巧く丸め込まれ、そのように信じているようだ。
 つまり、この妄信は「仕切り直しはない」ということに繋がろう。
 死んだらそれでお仕舞いよ……、なのである。
(本文より)


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平成28年 『志友会報』7月号



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死の概念
 人間の「行」は、その行動原理が「死ぬ道」を嗜むという、この一点のみに存在している。
 かつて武士は、「人間は死ぬ覚悟が肝心」として自分を表現する生き方をして来た。日々を、自身の死に充てて生き、「ただ死ぬこと」のみを覚悟していた。これが「死を嗜む道」だった。

 では、「死の覚悟」とは、単に武士だけかと言うと、実はそうではない。万人に共通することである。人は、死を抱えた共通に「非存在」であり、いつかは必ず死ぬ。
 悪名高き封建時代にあっても、死は万人共通の課題であった。したがって、日本に西洋が入り込む以前の日本文化の中には、共通の課題として「人の死」があった。この時代ですら、僧侶でも、婦女子でも、農民でも、商工民でも、みな義理を知り、恥を思い、死ぬ時や、その場所について覚悟のほどがあった。死を逃げ回る対象物として考えて居なかったのである。生死は一体であり、同根であった。

 死が逃げ回る対象になってしまったのは、戦後教育の中であり、生きることのみを説き、生きる力だけを説いて来た。したがって、死について何一つ教えなかった。その為に、死が途轍もなく恐ろしいように錯覚してしまったのである。死について何一つ教えない教育の中では、人は死から逃れようとすることばかりを考える。死が逃げ回る対象になってしまうのである。したがって「死ぬ力」は皆無となり、現代人の死に態は、実に無慙になり、多くに人は「横死状態」となって死んで行く。これを雄弁に物語るのは、昨今、多発している無差別殺人だろう。人の死について、その尊厳を教えないから、人の命は軽いものになり、まるで素悪品が叩き売られるように安値で叩かれ、死んで行く。これは「死」というものが逃げ回る対象となって、死の尊厳を教えなかった後遺症が尾を引いているのである。こうした死に方は、一種の「横死」であるといえよう。
(本文より)

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窮地
 難儀に遭遇し、そご後の急変に対し、先ずは驚き、次に喜々として有頂天に舞い上がるのか、あるいは銷沈して絶望的になるのか、そこを「驚」という一字で「如何に変化するか」ということを人間側に問うているらしい。特異点はラッキーとアンラッキーが極端な状態にあって、突然に顕われるのである。
 「窮すれば」は、窮したときを含み、「極端化すれば」という意味にも受け取られ、それは人間側の解釈であろうが、二つの意味は含まれるようだ。如何に転ずるかは、また寸善尺魔というところだろう。

 更に言及すれば、窮して、窮して、窮して、不運の窮乏のドン底にある時、何かの変化が起こると言うことで、一方順風満帆が続き、ラッキーにラッキーが重なり得意絶頂にある時にも、急変するとあるのである。これは一方で言う「好事魔が多し」と言うことなのであろう。
 そして運命律である幸も不幸も、同じ枠組みの中にある。その中で陰陽のリズムを刻んでいる。

 これと同じなのが、涅槃に至る、「悟り」への段階と言えるだろう。この現れは「徐々に」ということではない。ある日突然、豹変する。
(本文より)


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