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技法の根源となる「ただ一つのこと」

“合気”は躰動法(たいどうほう)「うねり」により、発生するものである。毎日、朝晩100回、200回、300回……1000回と木刀素振りをすることで、やがて自らの躰(からだ)には、「うねり」が生ずるようになる。合気揚げを会得する為の素振り用木刀の重さは、1500グラム以上のものが適当であり、これを静坐の状態で、あるいは立って、「弓身之足(きゅうしんのあし)」の状態で、数百回単位で行う。
 最終的には、1000回、2000回、3000回……10000回と持っていき、「うねり」が生じるまで、「これでもか、これでもか」と、地道に毎日稽古することである。

 これこそ、まさに「動く禅」であり、振れば振るほど、煩雑(はんざつ)な雑念が消化されていく。また、単に坐るだけの動作でないので、これには「静」と「動」が合体し、その合体によって、欲や煩雑な想念が、一つ堕(お)ち、二つ堕ちするのである。
 眼は、1メートル前方に「半眼」に落とし、黙々と素振ることが肝心である。大きく尾てい骨まで振り被り、対峙した相手の想念して、その相手の頭上を叩き割るようにして素振るのである。

 この素振りは、剣道の竹刀を素振りするのとは訳が違うので、心臓に負担のかかるような振り方をしてはならない。呼吸の吐納に合わせ、吐納を正しくして、「逆丹田呼吸」とともに一振り、一振りを正確に行う。決して、焦って速く振ろうとしてはならない。正確に呼吸の吐納を合わせることが肝心である。
 そして一番大事なことは、木刀を振り上げて尖先(きっさき)を尾てい骨に当てる時に、「息を吐き」、振り素振る時に、「息を吸う」のである。

 重量のある木刀の握り方は、人差し指を浮かし、拇指(おやゆび)を軽くして、中指、薬指、小指でしっかり固めて握る。この三本で、木刀の柄を固めて、握ってしまうのである。

 また、息を吸う時に肚(はら)をへこませ、息を吐く時に肚を膨らませるという、呼吸動作をすることが大事で、これを逆に行ってはならない。これを毎日繰り返していくうちに、肩の外筋は落ち、この部分は骨の皮ばかりになって「なで肩」となる。

 一方、腕は、「ヘラブナ形」となり、腕(かいな)を返す、腕っ節が強くなる。この時の腕の断面は、楕円であり、剣道熟練者のように断面が円にはならない。腕の断面が、楕円である事は、「腕を返す」腕っ節が強くなり、合気揚げが出来る「腕のフレーム」が出来上がったことを意味する。生っちょろい、細い腕では、実戦には役に立たないのである。

 体力のある者は、体力のあることに溺れ、体力を過信して稽古を怠る。一方、体力のない者は、体力がないが故に、「術」をもって、体力に代わるものを探し出そうとする。
 これはひ弱な者の宿命であるが、この宿命の中にこそ、「術」に繋(つな)がる要素を忍ばせているのである。

 地道に、黙々と素振れば、やがてこの精進は報われ、“合気”を会得できるかも知れない。その会得への第一段階が、「うねり」を起す、躰動法なのである。


合気
(あいき)

 「合気」とは、西郷派大東流を支える根元的な境地であり、目指すべき到達点でもある。
 誤解を承知で言うならば、合気の無い技法は未完成であり、実際の戦いにおいて、完全に効力を発揮することは不可能である。

 戦いは常に狂気の沙汰であり、互いが傷つけ合おうとする非人間的な行為であるからだ。
 それだけに、戦闘時の精神昂揚(こうよう)は、人に尋常(じんじょう)ならざる力を与え、道場稽古からはとても想像出来ないような激しさがある。

 「火事場の馬鹿力」なるものをご存知であろう。
 これは自身の家に、火事が起ったとき、家財道具の一切を、普段は動かせなかった重い箪笥(たんす)や調度品など、その他の家財を、一大事と捉(とら)えて、自分一人で安全な場所に運び出す、こうした行為から、これを「火事場の馬鹿力」という。また、この言葉は、人間はイザとなれば、今までには見られなかった怪力を発揮して、難を逃れるということを指している。

 これは何も火事に限ったことではない。緊急事態に対して、骨折をした重症患者が、自分の骨折の怪我も顧みず、難を逃れる為に数キロも走ったり、縛られていた鉄の鎖を引きちぎったりといった、緊急に対する事態に対し、これから逃れようとする防衛本能が働くことだ。
 この本能が働くとき、人は既に自分の身の生死(しょうじ)の有無などは既に超越している。

 特に、命を賭(と)して戦う覚悟を決めている者や、薬物などで精神異常をきたしている者の力は凄(すさ)まじく、普通に技を仕掛けていたのでは、決して型通りにはいかない
 仮に、柔術の稽古で会得した技法で、荒れ狂う暴徒を取り押さえようと試みても、相手の力が強ければ強いほど、技は掛からず、こちらの隙(すき)をつかれて、逆に反撃を受けるようなことがあれば、致命傷になりかねない。人間は動き続ける動物であるからだ。

 だからこそ、「合気」が必要なのである。

 基礎的な柔術に、合気を加味すれば「合気柔術」、「合気之術」に昇華を果たす。しかし、これには独特な修得法が必要である。

 合気は難解であり、指導者によっても解釈が異なっているというのが今日の実情である。
 例を挙げると、「タイミングのような拍子で説明したもの」とか、「催眠術の一種として説明したもの」とか、あるいは「崩しの理論で説明したもの」などがあるが、何れも不十分であり、正確さに欠けている。

 西郷派大東流の合気を狭義的に捉えるならば、敵の力を一瞬にして無力化する「力抜き(力貫)の技法であると言えよう。
 相手の力を無効にして、動きを封じることが出来れば、素人考えでも、安易に技をかけることが出来るわけだ。

 ところが、敵を意のままに操り、攻撃の牙(きば)を抜く合気の技法は、口で言うほど簡単ではないが、もし会得したならば、西郷派大東流に関しては「皆伝」の域に至ることが出来よう。
 「三万儀(さんまんぎ)【註】総儀法数は約3万儀と謂(い)われているが、これを一々丸暗記するのではない。覚えて忘れることこそ、西郷派の儀法修得の特徴であり、ここに「忘術(ぼうじゅつ)」という特殊な修得法がある。また実戦には「他力一乗(たりきいちじょう)」という独特な戦闘思想がある)と言われるほど膨大な西郷派大東流の技法は、この合気を得る為に存在しているといっても過言ではないからだ。

 西郷派大東流の修行者は、日々を通じて業(わざ)と精神を練りながら、合気という「ただ一つのこと」に回帰していくのである。これは修練を通じて「業(わざ)を練る」ことであるが、単に反復練習を繰り返して練るだけではない。
 “合気”を得る為には、「躰動法(たいごうほう)」という特殊化修行法が必要であり、まず第一に「うねり」を発生させる為の躰動を会得することが大事であり、「躰動」は、わが流では「縦の動きのうねり」を指す。

 多くの競技武道、あるいはスポーツ格闘技の多くは、その殆どが「横の動き」に終始している。例えば、空手、ボクシング、ムエタイ、拳法などの徒手空拳の格闘技は、左右の腕を横に振り回すことによって、その腕力の強弱が勝敗を決するようになっている。
 また、柔道においても、その崩しは「横の崩し」であり、腕力をもって、相手を横に移動させ、その移動の落差によって相手を崩し、そこから「投げ」あるいは押さえて寝技にもって行き、左右の揺すぶりによって相手を制するようになっている。更に、絞め技と言う、相手の頚動脈(けいどうみゃく)を絞めて落とす技も、左右の引き違えによって、絞め落とすのである。則(すなわ)ち横の運動であり、横の作用を利用したものである。

 この動きは、横に移行する「平面状のスライド運動」と考えることができよう。左右何(いず)れかの動きや動作によって、水平面状と同じ横の左右運動であり、水平運動は重力のジオイド方向に垂直に対立する為、腕力の卓(すぐ)れた方がどうしても有利となる。つまり、体力が卓れた方が有利であり、また、肉体上の特質に恵まれ、才能や運動神経に卓ぐれている者の方が、断然優位に働くようになっている。この限りにおいて、「術」など必要ない。

 「術」を研究するよりは、ハードな筋トレに励み、肉体を酷使して外筋を鍛え、躰(からだ)そのものを筋肉の鎧(よろい)にして闘った方が試合には有利であるからだ。

 例えば、相撲において、痩せた力士など一人も居ない。痩せていて、体重が軽いということは、それだけ相手に運ばれて、「横移動され易い」からだ。だから、体重が軽ければ、力士以前の入門の時点で失格していることになる。また、入門を許された力士でも、自分の体重を重くし、簡単に横移動されないように、よく食べて筋肉を鍛え、足腰を重く指せ、張り手においては、人間の頭をスイカを叩き割るような強力なものに仕上げていく。こうした一切の動きや稽古法も、左右の横の動きが中心となっている。
 つまり、重力のジオイド方向に対し、垂直に交差する動きであり、反面、重力に逆らって闘う事が余儀(よぎ)なくされている。

 重力に逆らうということは、則(すなわ)ち「剛よく柔を制す」であり、更に解りやすく謂(い)えば、「大能(よ)く小を制す」である。つまり、強者は弱者を餌食(えじき)にして勝ち上がる弱肉強食の論理で、横の動きをする格闘技は構築されているということになる。
 この構築により、筋トレが尊ばれ、腕力が尊ばれ、体力が尊ばれる。そして、「体力も技のうち」という傲慢(ごうまん)な論理が浮上してくる。
  この論理が吹き荒れる以上、「術」など、全くお呼びでない。術を得ても、「剛よく柔を制す」であるならば、「柔」という術で、剛は倒せないからだ。

 昨今は、反面、重力に逆らう格闘技が花盛りであり、多くの観戦者を魅了している。また、中高年でスポーツジムに熱心に通う、肉体信奉者の多くも、筋力が弱れば病気になると信じている人が多く、筋トレをし、「肉はスタミナのもと」という、現代栄養学の言に騙(だま)されて、せっせとトレーニングに励み、自称「爽やかな汗」を流し、スタミナ補給の動蛋白のアミノ酸を取り込み、それで自分は益々健康になっていると信じ切っているのである。

 ところが、然(さ)に非(あら)ず。気付いたときには、自身の躰が「ガン発症」の巣窟(そうくつ)になっていたということもよくあることだ。これは、「外筋」ばかりを鍛えるからである。骨の周りの「内筋」を鍛えず、肉体美の評価にされ易い、外筋を鍛える為である。外筋を鍛え過ぎると、筋骨はアンバランスになる。アンバランスになれば、これが歪(ひずみ)を作り、骨格に畸形(きけい)が生じるようになる。

 また、「スタミナのもと」と信じて取り込む動蛋白の多くは、人間の腸内で取り込むことの出来ない別質のアミノ酸であり、これが如何に優れた組成を持ったアミノ酸でも、人間はこの消化酵素を持たない為に、食べてもこれを分解することが出来ない。分解できない食物が腸内に入り、これが次から次へと取り込まれるようになると、こうした物は当然の如く、腐敗をはじめ、腐敗物質となって腸内に停滞する。これがやがて酸毒化されて、腸内の襞(ひだ)部分の繊毛(じゅうもう)から吸収され、血液の中に取り込まれていく。血液がこうした酸毒化された物質を、全体にくまなく巡回させて、もし、巡回して行き着いた先の体細胞に弱い箇所があった場合、そこで停滞して細胞化し、正常細胞を畸形化して、肝臓であれば「肝臓ガン」となり、膵臓であれば「膵臓ガン」となり、胃であれば「胃ガン」となる。これがガン発症のメカニズムである。

 これは、動蛋白が消化されずに、腸内で腐敗し、酸毒化して、血液を汚染させるからである。肉常食者の排便が異常に臭いのは、腸内で腐敗物質が酸毒化し、腐った匂いが排便時に外に洩れるからだ。排便が臭い、ということは、つまり、腐敗物質を腸内に溜め込んでいるということである。これが禍して、ガン発症を起し、寿命を縮めるのである。

 「老荘思想」の哲学の中に、「天鈞(てんきん)に休む」というのがある。これは最後のトータルを、総(すべ)て掛け値で計れば、ほぼ同じという意味である。誰が得したとか、損したとかはなく、人は一様に、「プラス・マイナス・ゼロ」ということになる。

 例えば、相手をやり込めて、一時的に得をしたとしても、今度は自分がやり込められる番であり、一時的にえた得はご破算になるのである。総合計は同じなのである。これが分かれば、今を気忙しく、せかせかしないで、「心を休ませろ」という意味なのである。これが老荘思想で謂(い)う、「天鈞に休む」ということなのだ。

 この言葉の持つ意味は、社会的な地位があり、名誉があろうが、資産があり、金銭で人の上に君臨しようが、人間の生命の一日は結局同じで、また最終トータルの臨終間際(りんじゅうまぎわ)に、自分の一生を振り返って、集計すれば、たいした違いはないということである。

 人生は、よく「舞台劇」に喩(たと)えられる。善人の役をする人も、悪人の役をする人も、舞台裏の楽屋に帰れば、みな同じ「対等な人間」であるということだ。「対等な人間」は何処まで行っても、対等であり、同格なのだ。

 例えば、プロ格闘技選手や大相撲の力士、またプロレスラーや、その他のプロスポーツ選手を遣(や)っている人は、見るからに筋肉粒々で立派な体格をしている。それは自分の生活を賭けて、毎日驚異的な猛練習をするからだ。そして、素人には及びも付かない凄まじい猛練習に励み、その結果、断然強い、鋼(はがね)のような強靭(きょうじん)な肉体が出来上がる。

 リングや土俵で、誇らしげに華々しい才能を発揮し、それらを晴れがましくやってのけ、観客から絶大なる拍手喝采(はくしゅかっさい)を浴びる。この時機(とき)が、彼等にとって一番、得意満面な瞬間であろう。

 ところが、こうしたプロスポーツ選手は、何故か早死にをする人が多いようだ。やはり、「勝たねばならない」とか、「弱肉強食の世界では強くなければならない」との、心理的な強迫観念に追い討ちをかけられて、無理に躰(からだ)を酷使し、それで寿命を縮めてしまうのだろう。此処にも、人は一様に、「プラス・マイナス・ゼロ」という、誰にも平等な法則が働いている。

 人生には、「一方的に得をする」という現象は、どうも起らないようだ。最後には、「プラス・マイナス・ゼロ」なのである。一切がご破算になるのである。ここに「運勢の平等」がある。
 この皮肉は、ある意味で、「重力に逆らって外筋ばかりを鍛えた」という現象の裏返しが、表面化したものでもあるといえよう。

 つまり、「剛よく柔を制す」であり、「大能く小を制す」の弱肉強食論からでたものであり、弱肉強食の世界では、王者は何(いず)れ、その席から去らなければならないのである。競技の世界で新旧が入れ替わるのはこの為だ。
 平面状を横に振り回す個人的闘技の多くは、結局、相対的な争うにおいて、優劣を定め、勝負を競うスポーツなのだ。その為に、力(りき)み現象も勝負を競うが故に現れてくる。

 では、重力にわが身を任せ、それに「合一」する運動はあるのか。
 ある。これが、あらゆる力を「縦」に遣(つか)い、そして重力のジオイド方向に導く“合気”なのだ。“合気”は重力と唯一、「合一する動き」である。この合一の為の修法が「躰動法」なのである。これが、「ただ一つのこと」なのである。

 躰動法(たいどうほう)を用いて、躰に「うねり」が生じるまで、何十回でも、何百回でも木刀を振る。「うねり」を生じさせることこそ、躰動法の目的であるからだ。
 また、躰動法が“合気”を誘発するのである。したがって、「うねり」が起ることは非常に重要なことで、毎日、百回単位、千回単位で、朝晩続けることだ。
 「うねり」が発生しないのに、幾ら高級儀法を丸暗記しても、それは実戦には全く通じない、単に大東流オタクの技法のコレクションに過ぎない。

 こうした愚に陥らない為にも、躰動法を第一義と考え、毎日、百回単位、千回単位で、朝晩地道に精進(しょうじん)を重ねることだ。一度「うねり」が起れば、例えば「合気揚げ」において、相手からどのような掴み方をされても、一様に揚げられるものである。

 植芝系の合気道のように、最初から両手を胸の前に差し出して、「揚がった状態」から合気揚げ(ここの集団では合気揚げを、「合気上げ」というようだ)をするのでなく、静坐の状態で、両手を腰に置き、その状態から掴まれても、躰動法を会得すれば、これを容易に揚げる事が出来るのである。

 よく、十年、二十年と遣っていて、沢山の高級技法は知っているが、躰動法を修得していない為に、合気揚げが出来ないという人がいるが、これは「日々の地道な木刀素振り」を怠った為である。こうした人は、高級技法ばかりに眼が奪われ、それに注視して、単に型ばかりを蒐集(しゅうしゅう)した人である。この愚に陥った人は、高級技法を幾らでも暗記しているが、それが実戦に使えない為、演武会という技法の品評会で、見せ場を作るしかなく、「絵に描いた餅」を有り難がる人である。

 これは合気道愛好者ばかりでなく、大東流愛好者の中にも随分といるわけである。
 また、肝心な躰動法を知らない為に、約束によって相手との取り決めで、演舞することを合気道と思ったり、大東流と思っているようだ。

 しかし、こんなものは“合気”でもなんでもなく、単に、演技相手の演技者と取り交わした「約束の演技」であり、また、一部の大東流の指導者の中に、矢鱈(やたら)と、最後の「残心」を、見得(みえ)で誤魔化す人がいるが、あれは恰好(かつこう)の手裏剣の標的になるので、武術の心得のない者として、卑下されて見られても仕方あるまい。
 あれは、歌舞伎芝居のそれであり、演技者や役者のそれであって、武術家のなすべきことではない。

 制した相手に見得を切る、一部の大東流の演武形式は、今や外国にも輸出され、カナダ、アメリカ、キューバなどの国で、「見得を切る大東流」が流行しているが、これはあくまで芝居に類似した演技のそれであり、武術とは一切関係ないことを知らなければならない。
 ここにも、見得を切る伝承武道と、古人の教えを伝統として捉え、これを現代の世に反映させる「伝統武術」との違いがある。


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