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上級武士の象徴たる白扇の妙

白扇捕りの妙儀。小手回し「捻り」と、白扇の「銀杏(いちょう)廻し」を組み合わせて相手の手頸(てくび)を掛取り、崩してしまう白扇捕り。銀杏廻しの回転により、相手の眼を襲うように白扇を左右に廻しこむと、相手は一瞬、眼を庇(かば)おうとして、仰(の)け反る。その仰け反った瞬間を狙って崩し、白扇の廻しと術者の「うねり」が相手に伝わり、“合気”にかけられる刹那(せつな)が顕れる。相手は仰け反るあまりに「腰砕け」となり、眼を守る為の防禦(ぼうぎょ)の体勢が、実は「崩された状態」にさせられてしまうのである。

 つまり、これこそが「軽い物を重く遣う極意」なのである。
 一方術者は、相手の反
(そ)り返った刹那を逃さずに、重力方向に攻めれば、崩された状態が続くのである。物は使いようである。軽い物でも、使いようによっては、重いもの以上に大きな効果を発揮するのである。


白扇術
(はくせんじゅつ)

●白扇術に大切な虚実の極意

 武術における極意は「勝ち易きに勝つ」ということである。つまり、「最も労を少なくして、効果が甚大である」というふうに仕組まなければならない。労多く効が少ないでは、「術」としての価値はない。
 では、労を少なくし、効果を上げるにはどうしたらよいか。

 それは「虚」を突くことである。「実」を避け、馬鹿の一つ覚えのように正攻法だけに頼るのではなく、「奇手」を用いることである。つまり奇手とは、相手が充分に実力を発揮する前に、それを封じてしまうことである。

 孫子(そんし)の教えには、「その鋭気(えいき)を避け、その惰帰(だき)を撃(う)つ」というのがある。つまり「虚を突け」ということである。ここでいう「惰帰」とは、人の気力が萎(な)えて、一時も早く家(うち)に帰って休みたいという「衰えた気持ち」を齎(もたら)して、そうした気持ちに追い込み、実力を発揮する以前に、そこを撃つとしているのである。

 これこそが「実」を避けて、「虚」を撃つ極意であり、これには「虚を用いて誘い、実を用いて撃つ」ということなのである。
 人間の行動原理には、「実」があれば必ず「虚」があるものである。強いところがあれば、それに対応するだけの弱いところがある。「陰」が極まれば「陽」になり、「陽」が極めれば「陰」になる。

 弱肉強食の論理でいくと、強者は総(すべ)て「強さ」で強調されて、何処も、かしこも強さで保たれているように思われがちだが、実はそうではない。強者といわれる者は、また、その一方で「弱さ」をも、同じ分だけ同居させているのである。強弱は、もともと表裏一体なのである。
 つまり「剛」は、総て剛の塊(かたまり)ではなく、その反面は「柔」であり、その背後には軟らかさが控えている。ただ、それが一般素人には見えないだけである。したがって、強いところがあれば、必ず弱いところが存在する。

 例えば、剛の者は自分より弱い者に対しては強いが、自分より強い者には弱く、更には美女などの色に弱く、金に弱く、物財に弱く、賄賂(わいろ)に弱いという弱点を持っている。剛の者は、その人の隅々までが総て剛というわけではないのである。剛であるだけに、脆(もろ)さも兼ね備えているのである。

 「山高ければ谷深し」という俚諺(りげん)があるように、高く聳(そび)えた山は、一方で深い谷を備えている。つまり、「実」は「虚」を従えるということだ。「実」が巨大に存在していれば、「虚」もまた巨大なのである。
 しかし、強者は「実」ばかりを誇張している為、「虚」の部分が見え難い。したがって素人には、強者は「実」の塊(かたまり)のように映る。だが実際は、そうではないのだ。見識不足で見えないだけなのである。

 例えば、強いところを攻める場合、10の力が必要であるとすれば、その一方の弱いところは半分の5の力で破ることが出来よう。敵と戦う場合、敵の「虚」に乗ずることである。「実」を避けて、「虚」に乗ずるのである。正面からの正攻法を避けて、あるいは正面からの力のぶつけ合いを避けて、側面から、あるいは背後から回り込むのである。つまり「虚」を突くことだ。

 白扇術で言う「虚実」の極意は、実は敵の弱いところを攻め、虚実変化の妙を極めることである。したがって、徒労に無益な骨を折り、無駄な力みや、捻(ひね)り合ったり、こね合ったりの、力を力で対抗するような愚行をしないことである。こうした愚行を武術の世界では、「力兵法」といって、下策な遣(や)り方とされ、戒めたものである。

 武術の本義は最小の力で、甚大な効果を出すところにその本来の教えがあり、「小よく大を制す」が主眼となる。

 中国の宋の時代、司馬光(しばこう)が著した書物に『資治通鑑(しじつがん)』なるものがある。これによれば、「兵法を持ちうる道」と題して、次のようなことが述べられている。
 「敵強ければ即ち智(ち)を用い、敵弱ければ則(すなわ)ち勢を用いる。大を以て小を呑むこと、猶(なお)、狼の豚(にく)を食うが如し。治を以て乱に易(か)うること、猶、日の雪を消すが如し」
 つまり、「虚実の教え」を述べているのである。

 物事には、一切に「虚実」がある。「虚」と「実」があるように、そこには陰と陽がある。「実」の部分だけを見せられていては陽ばかりを見ているようなもので、陽の裏には影があり、影は陰を為(な)すということが分からなくなる。したがって「虚実」を見、「陰陽」を見、その両者に偏(かたよ)らず、然(しか)も「虚」の裏に「実」があり、「実」の裏に「虚」があることを知らなければならない。両者を等しく見ることである。中庸(ちゅうよう)に徹することである。

 一般に、突きと見せかけて蹴りを仕掛け、蹴りと見せかけて突きを仕掛けるなどの、こうした駆け引きは初心者でも出来ることであるが、単に技術的な駆け引きに止まらず、心と心の駆け引きが肝心であり、「虚実の性質」を読み分けることは大事なのである。然(しか)も何(いず)れかに偏って、中庸を失ってはならない。

 肉の眼で凝視するだけでなく、物事は「心の眼」で凝視することも大事である。「心の眼」で凝視することを忘れれば、安易にこけおどしに敗れてしまう。見掛けで圧倒され、中身の実質を見抜くことを見失ってしまうのである。
 三次元顕界(げんかい)では、万物は単に物質的関係によって成り立っているように考えがちである。しかし、三次元レベルで物事を判断することは危険である。

 現代の世の中は、依然として三次元世界の「物」に魅(み)せられ、「物」に圧倒される現象があらゆる箇所で起こっている。しかし、その結果、人類が何処に向かおうとしているのか、容易に想像することが出来よう。
 物に魅せられる世界では、物質的な豊かさを追求した為に、生物の本質を見失い、精神的には退化する一方であるといえよう。この退化する文化思想が、実は西洋物質文明だった。

 豊かさと、便利さと、快適さを追い求めたあまり、現代人は物を追いかけ、物に縋(すが)る生活を選択したが、実はそれは精神的に空しさの空虚を広げただけではなかったか。物に頼り、物を信じる生き方は何処か、空しくはなかったのか。

 欲の文化を推し進めたのは、紛(まぎ)れもなく西洋物質文明だった。単なる「実」だけを追い求めた文化だった。表面だけで判断し、心という中身のあることを見落としていたのである。
 それは金銭的に豊かになること。物質面が便利に快適になること。そして、こうした利益と豊かさを追い求めた結果、今日の人類が、その後、どういう結末を迎えるか、想像に難しくないだろう。
 心が失われた結果からの、報(むく)いを現代人は受けているといえよう。

 今日実が存在し、陰陽が存在し、その事実に何れも偏ることなく、正しく中庸(ちゅうよう)を保つことが必要であろう。それは、あたかも一本の白扇の中に、「虚」と「実」が存在し、「陰」と「陽」が存在するが如く、臨機応変の開閉が、死する者と、生きる者との明暗を分けているのである。

 

●白扇術と行動律

 人間の行動律は、無作為(むさくい)から派生するものではない。必ず作為があり、作為は心が作るものである。心によって作られた作為は、ある一定の原則に従い発するものである。しかし、根源は心にあるので、心に邪心(じゃしん)があれば、その表現形は「邪」として顕(あらわ)れてくる。
 一方、心に邪が棲(す)まなければ、その表現形は「正」であり、「邪」が付け入る隙(すき)は消滅する。勝つのは、心に「正」が棲(す)む場合で、「邪」が棲む場合ではない。

 一般に「虚実」とか、「駆け引き」とか言えば、いかにも「術」ばかりを用いて、策(さく)を弄(ろう)するようで低いものと考えられがちだが、実はそうではない。「術」は、心を用いて行動律となるもので、心の裡(うち)に「邪」が棲めば、その術の威力は半減する。

 それは、心を以て心を打つ「術」に欠けるからだ。精神的な修行を等閑(なおざり)にして、「術」の顕(あらわ)れは起らない。「術」が顕れないのであるから、どうしても心に「邪」がすぐっていれば、邪同士の力と力の争いになる。これが「力兵法の愚」である。

 また、虚実変化の運用を為(な)す場合、意識してこれを用いるのではなく、自然のうちに、無意識に、無心にして変化の妙に入らなければならない。虚実の運用は、無為(むい)にして、自然の神と吾(われ)が一体となり、軽き力で重き影響を与える「神人合一」の境地に至って、敵をたじろがせる撃刺(げきし)が可能になるのである。

 

●白扇術撃刺論

 虚実の「虚」とは、「隙(すき)」の事を指す。
 「実」の多い者は、その一方で「虚」も多いものである。実が優れれば、虚もその人間の恥部として存在し、表面が立派に見える者は、実は中身が貧弱なのである。しかし、人間はその多くが外面に騙(だま)されやすく、表面に心を奪われる。

 見掛けに圧倒され、その中身を見抜くことが出来ない。敵を見て、強そうに見えれば、それだけで負けたような気になる。一般素人には、この傾向が強い。
 また、見識眼に欠ける者は、敵対者の中身を見抜くことが出来ない。観察眼や洞察力が疎(うと)いと、外形に圧倒され、見掛け倒しとなって、表皮に騙(だま)される。

 そこで「撃刺(げきし)」の思考が必要になる。
 撃刺とは、敵の特徴のうち、その最も弱い、決定的な弱点を言うのである。優れた一面を持つものは、必ずその背後に劣悪なる一面を持っている。しかし、多くは見識眼がない為、その「虚」なる部分を見抜くことが出来ない。

 さて、わが西郷派の撃刺論に従えば、人間は一方で秀でたものを所有する者は、その一方で劣なる側面を持っていると説く。優なる者は同時に劣なるものを所有し、この所有物を隠すことで、自分の劣悪なる部分を誤魔化(ごまか)している。

 例えば、ずば抜けて優れた知識を持っている者は、その一方で劣悪なる道理しかもっていないのと同じである。頭脳優秀な天才科学者が、一方で、世間的な常識を持ち合わせていない程度の、劣なる部分を所有していることは、よく知られた話である。また、天才的な能力を発揮するスポーツ選手が、実は実生活ではダメ人間であるという場合も少なくないようだ。
 しかし、一般素人は、天才の部分のみの、表皮に目が行き、その背後に隠れる深層部を見抜くことが出来ない。それはあたかも、見識眼の疎(うと)い者が、立派な身なりの、立派な体躯(たいく)をした大富豪を、「中身まで金ぴか」と勘違いすることと、よく似ている。

 但し、ひとかどの人間が、心血を注いで大富豪にまでのし上がる為には、多くの場合、何代もの時間を費やしてのことであろうが、初代と、それ以降の二代三代とは、当然その中身にレベルが違っていよう。代が下がることにより、重ねられた家柄の人間の中身は劣悪になる。これは資産家の御曹司(おんぞうし)が、道を誤って墜落していくプロセスを見れば一目瞭然であろう。
 初代は苦労人だが、その後の代は、大方がドラ息子である。代が下がるごとに、中身が劣悪になるとはこのことだ。人間は変化の生き物であるからである。

 外形的には立派でも、中身は、あるいは精神は、現代人ほど劣悪になる。
 これは人間の体躯(たいく)を取り上げてもそうである。
 例えば、肉体が所有する内筋と外筋を比較しても、現代人の外筋はよく発達していて、その肉体力も卓(すぐ)れているが、内筋の発達はそれほどでもない。また肉体に対峙(たいじ)する精神は、現代人ほど、古代人に比較してその精神的進化は、約2500年前の人間に比べて退化の状態にある。その証拠に、現代人の中から、2500年前の哲学者や宗教家を凌ぐ、偉大なる人物が出現しないことである。

 それは前頭葉(前頭前野)や、その発育を司る間脳に観(み)ることが出来る。現代人は肉の眼で見えるものにか信用しない自然科学に基づいて物事を考える為、三次元の肉の眼でしか物事を観察することが出来ない。
 心眼、即ち観察眼の疎(うと)い者は、人間の外側は凝視できても、その裡側(うちがわ)を洞察することができない。つまり、これが「心の退化」なのである。現代人が金・物・色にほだされて、これに魅了されるのは、現代人の精神的発育が退化している実情を顕(あらわ)している。

 表皮が優れていれば、当然、中身は劣る。一方、表皮が貧弱でも、僅かであるが、中身は実に優れたものを所有している人も確かにいる。
 ミソもクソも一緒になっている現世の実情を見抜くには、確かに見識眼がいる。確かな観察眼が必要である。中身を洞察する、深層心理を見抜く心が必要なのである。

 さて、「撃刺論」に随(したが)えば、「敵が強く守らんとすれば、虚実を用いて、破りを作ること」とある。「虚実を用いよ」とは、敵の隙(すき)を誘い出せということである。

 人間の行動律から起る隙は、同時のその人の強さから顕れるものであり、かつ、術者がそれを作り出すものである。自分の強さに溺れる者は、当時に隙だらけである。自分を最強などと豪語する者は、その一方で隙を作っていることになる。
 表皮が立派だから、それは総てが立派なように映るが、実は中身はそうでもない場合が多い。
 しかし、こうした実情を逸(いち)早く見抜くのは見識眼であり、洞察力である。こけおどしに翻弄(ほんろう)されてはならない。 外見の立派な者は、一見守りのガードが堅い。しかし、守りが堅い故に、それが隙でもある。守りの堅い者は、隙を生じさせればよいのである。

 隙を生じさせるとは、強さに秘めた「虚」の一面であり、この「虚」こそ、隙なのである。したがって、「虚」を攻めて、隙を誘えばよいのである。

 更に端的に述べれば、「虚とは何か」といえば、隙であり、「隙とは何か」といえば、駆け引きによって誘い出した「いま撃つことの出来る絶好の機会」なのである。

 さて、この隙を大別すると、まず「心の隙」が挙げられ、次に「形の隙」が挙げられる。したがって、「隙を作るにはどうしたらよいか」ということになるのであるが、隙は、心を崩すことによって顕れ、また、堅い守りで覆われた殻を崩すことによって顕れる。

 形を崩すには、技術を学んでその修練に励み、肉体の崩れる実態を模索すれば、それは掴めようが、心を崩すには、並大抵の修行ではどうすることも出来ない。
 強い人間は、常識的に見て心身ともに鍛えているといわねばならない。特に心身のうちで、心の面の無念無想も同時に鍛えているので、それ以上に優れた心法を学び、心身両面の「術」を研究しなければならない。

 また、静かなる無念無想の境地は、常に静まり返った状態であり、これを突き崩すのは容易でない。そこで心法による「術」が必要となる。その「術」を駆使することで、敵の心を先取りし、せかす、イライラさせる、目障りに思わせる、嫌にさせる、驚かせる、迷わせる、疑わせる、悩ませる、怒らせる、有頂天にさせるなどの術策(じゅつさく)がある。そして、これらは総て変化を伴うものである。

 心法の中で、「武術の十悪」とされるものは、我慢、我心、貪欲、怒り、懼(おそ)れ、怪しみ、疑い、迷い、侮(あなど)り、慢心である。いずれも心の本然(ほんねん)を失わせるものとしてこれを戒めているのである。心の姿で、最も「道」に適った心は「平常心」である。しかし、平常心が突き崩されれば、忽(たちま)ち心の本然は突き崩され、変化が起る。

 変化は、緊張の連続を現実化し、この現象の中で弛緩(しかん)が出来る。この弛緩に乗じて、隙を誘うのである。そして、「いま撃つことが可能な機会」を、撃刺とともにケリをつけるのである。
 まず、その為には「迷わぬこと」あるいは「疑わぬこと」であり、総ては自らの「術」の会得に懸(か)かるのである。

 白扇は、開閉する道具である。開閉するとは、その「見た目」を、「敵から見て自由に変化させる」ことが出来る道具であり、また、強力な武器となる。

 遠いと思って踏み込んだところ、実は非常に近い間合であったり、近いと思って遠退いたところ、実は遠くて「二の太刀」を打ち損じるなどの、敵が起す錯覚は、白扇の開閉にあり、それを肉の眼で見誤り、その隙が、墓穴堀へと急がせるのである。こうした虚実の弛緩の隙を誘う武器が、白扇であり、白扇を使う術が「白扇術」なのである。

 したがって、白扇の術者は、白扇の「白」が顕(あらわ)すように、邪念邪想を祓(はら)い清め、心の本然に向かわせるその象徴が白扇であるともいえよう。無地の心とは、心の無垢(むく)を顕し、無垢な心には、敵もなく、吾(われ)もなく、勝とうと思う心もなく、負けまいと思う心もなく、負ける心すら存在しないのである。この祓い清めた心を、明鏡止水といい、まさに「三昧(ざんまい)」なのである。

 一般人や武道愛好家が口にする言葉に、「天下無敵」という言葉があるが、「無敵」とは適する者がいないという意味よりは、むしろ「敵もなく、吾もなく」の境地を指すものが実は天下無敵なのであって、単に百練千磨の剛の者を指す言葉ではないのである。

 勝負に勝つと思って勝つのではなく、ただ自然のうちに「負けない境地」に辿り着き、ただ自然のうちに敵の隙の乗じる次元に至っているというのが、白扇術の持つ「撃刺の兵法」であり、それは単に、肉体の優劣や腕力の優劣を競って格闘するものではないのである。

 明鏡止水の論に、「鏡というものが存在すれば、鏡という一物がただ在(あ)るだけであり、依(よ)って映るべき鏡をなくしてこそ、そこには肉の眼には見えない誠の心が映っているのである」という言葉があるが、ここにこそ、心法の説かんとする「道」があるのである。

 我(が)を離れ、欲求する心を去って、明鏡止水の境地を得たとき、実はこれこそが三昧に入る次元であり、この次元は気品で満ち溢れたものである。そして心の置き方は、隙のない心を得てこそ、あるいは敵の隙が見え、油断の心境を得てこそ、敵の油断が目に付くものである。
 無念無想で、見識眼を養い、理(ことわり)に明るい心を養ってこそ、そこに見えるものは作為に頼らない、無作の心の在(あ)り方が表出するのである。

 

●無念無想

 白扇術に限らず、その奥儀を「無念無想」に求める流派は、実に多い。
 しかし、無念無想を口にするだけでは、その意味が具体的でない。

 普通、格闘の体勢が起ったとき、敵も吾(われ)に打ち勝とうとするし、吾も敵を打ち負かそうとする心が顕れる。つまり、こうした相対関係において、彼我双方の態度が伯仲(はくちゅう)し、身も心も、ただ敵に打ち勝つことのみを欲求することになる。

 しかし、こうなった場合、打ち勝つことのみに意識が集中し、自然な動きが心身から去っていく。何事かを考え、策を弄(ろう)し、駆け引きを行い、敵に負けたくないと思う。而(しか)して、無念無想は去っていく。敵対する双方の緊張から、こうした伯仲する態勢は、一般によくあることである。そしてこの場合の諌言(かくげん)は、「伯仲すれば、無念無想は去る」ということだ。

 さて、無念無想とは、「何も考えない」ことである。執着を持たぬ心を言うのである。
 勝とうと思う心は、「病(やまい)の心」である。心の病から、勝ち負けを考えることが起る。したがって、「病(や)んだ心」は除去しなければならない。

 勝とうと思う、一途(いちず)な心は、病の心であるから白扇術の「術」を遣う場合の、術を遣おうとする心も病であるし、日頃の修練の成果を、この日の為にと思うのも、実は「病の心」なのである。更には、敵に対して、積極的に仕掛けようと思うのも心の病だし、駆け引きをしようと考えるのも病の心から派生するものである。

 先の先で敵に付け込もうと思うのも病の心だし、後の先で待つのも心の病である。そして、最悪なことは、こうしたものを総(そう)じて、「病の心を一途に駆逐しようと図る」のも、また、病なのである。
 どちらにせよ、心が一つのことに固執し、何事かに執着しているのであり、執着する心は、遂には動きの取れないものにしてしまうのである。

 人間は、心の裡(うち)に様々な病気を抱えている。心の中で起こる病気に、それを病気とも思わず、単に執着心だの、欲望などと呼んでいるが、実は総(すべ)てこうしたものは心の中から発生しているのである。

 したがって、心の病気を一新するには、心気を整える必要が出てくる。
 心気の整えを怠(おこた)ると、勝負の様々な妄執(もうしゅう)が出現する。そして意外な不覚を取り、敗北する。心の念に、邪気が入り込むからだ。

 この世を「うつしよ」といい、人の身を「うつせみ」という。総てこれらは何かの反映から起っている。何かが反射して、世の中が出現し、何かが反射して人の躰(からだ)を形作っている。したがって、世の中も何かを反映させる鏡であり、また人間の身も何かを反映させる「映し」の実体を持っている。そして、この「映し」が反映されるのが心なのである。

 心が欲に歪(ゆが)めば、心に映る実態も、欲に歪む。勝気に急げば、格闘の心が、心の中で格闘し始め、それが欲望から来たものであるから、やはり勝ちたいという欲に歪む。
 しかし、無念無想は歪んだ心に反映されないことは、万人の一致する見解だろう。こうした欲から派生する諸々の心を取り除いて、はじめて無念無想が得られるのである。つまり、「○○したい」という願望や欲から離れ、あるいは我(が)から離れて無念無想は成就するのである。

 願望や欲望は、心を歪ませ、「欲」によって益々狂わせるばかりである。したがって、無策こそ大事であり、現象界で咄嗟に、臨機応変に働くのは「他力一乗」のみである。つまり、この「他力一乗」こそ、無念無想の実体なのである。

 

●白扇の開閉業の術理

 白扇術を開閉し、あるいは展開させるには、次のような基本動作と「開閉業(かいへいわざ)」がある。その基本技術は、まず、最初の「一襞(ひとひだ)を開く」ことである。
 長白扇を初心者が遣う場合、要(かなめ)が堅く締まっている為、扇の中々開くことが出来ない。したがって、初心者は最初の一襞を開く動作からはじめる。

1.白扇を閉じた状態の「閉(へい)」であり、気が陰より陽に転ずる瞬間である。
2.白扇を開いた一襞(ひとひだ)開いただけの一枚扉(いちまいとびら)の「開(かい)」であり、一枚扉の一襞が開かれると、パチンと小気味のよい音がする。

 白扇操法における「一枚扉(いちまいとびら)」とは、白扇の襞(ひだ)を一枚だけ「起す」ことをいい、これを拇指(おやゆび)で操作するのである。拇指(おやゆび)による「一枚扉」を開くだけの指の力がついたら、次は「全開」の白扇操法を行う。

1.拇指(おやゆび)で最初の「一枚扉(いちまいとびら)」を開く。最初の一襞(ひとひだ)を起す場合は拇指で起すようにする。 2.手頸の甲を軸にして、甲を回転させながら一気に全襞(ぜんひだ)を開く。扇が全開すると、「小気味よい音」がするものである。

 白扇操法で大事なことは、白扇術の一つ一つの動作や操法を「思い切りよく遣る」ということである。
 西郷派で用いる白扇は、「1尺2寸の長扇」であり、扇に要(かなめ)が強く締められていて、最初は「一枚扉」を開くのも容易ではない。しかし、拇指での「起し」の操法を鍛錬することにより、やがて最初の一枚扉を容易に開けるようになる。
 これは力で無理やり開くのではなく、拇指遣いの向上が、扇を使い慣れることにより滑らかになり、全開したときの音も、小気味のよいものとなる。これは白扇の襞(ひだ)をスムーズに開く技術が、身に付いたからである。

 そして、全開させる時機(とき)に注意することは、決して小手先で扇を開いてはならないということである。扇を全開させるときは、肩を縦方向に回転させる、「上から下への回転」であり、重力に逆らわず、扇を全開させることである。
 これを、力で遣(や)ろうとしても中々開くものではなく、重力に逆らわず、肩全体を使っての縦方向の回転が大事である。この場合に、「扇の先端を抉(えぐ)るように縦方向に肩を廻すように動かす」と、力まずに簡単に全開するものである。


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