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大東流の基本となる日本刀の操法

■ 西郷派之秘剣・合気剣の極意 ■
(さいごうはのひけん・あいきけんのごくい)

●八方眼で迫れ

 敵と対峙(たいじ)した際、「目付」「目配り」が大事である。
 戦いが乱闘になり、一対一ではなく、一対多数となって複雑化した時、自分の両脇を見る眼は決して動かしてはならない。眼の玉を左右に動かして、敵を見ると言うのが普通の場合の見方であるが、これでは頸(くび)を左右に振った状態になり、敵から何処を見ているか、直ぐに悟られてしまうものである。

 したがって、わが西郷派では眼の玉を動かさず、じっと前方に顔を向けたまま、両脇を見れと教える。この眼遣いを「八方目(はっぽうもく)あるいは「八方眼(はっぽうがん)と言う。
 この見方は、両脇を見ずして、然(しか)も能(よ)く見える体勢を作り、「心眼で敵を見る」という特殊な眼遣いなのである。

 「心眼で視よ」とは、まず、眼の玉を動かさず、「両脇の敵に注意せよ」ということであり、もっと分かり易く言えば、二人以上の敵と対峙し、これと対決しなければならなくなった場合、大事なことは、それぞれを視(み)て、見ぬ振りをしながら、少しでも敵が仕掛けてくれば、眼の玉は前方を向いたまま頭を動かす事なく、矢庭に斬って捨てる術が、つまり「心眼で視る法」なのである。

 蜻蛉(とんぼ)などの昆虫の眼は、八方の敵を視る為に複眼構造を持っている。ところが、人間を含む哺乳動物の場合は単眼である。一々頸(くび)を振らなければ、敵が存在する位置は確認できない。更に悪い事は、人間の場合、昆虫と全く違い、八方どころか、背後や左右の敵の動きすら同時に見抜く事は、なかなか生理的に赦(ゆる)さない。人間はこのような構造で、人体が造られていない。

 したがって、こうした不可能を、敢えて可能にしなければならない。この可能にする存在が、「心眼」である。心眼を開眼し、そこから見えてくる心の眼の威力は、八方の敵の所在を確実に捉える。かッと心眼を見据えれば、蜻蛉の眼玉同様に、八方の敵に対処できる。また、心眼は背後の気配すら容易に察する事が出来る。

 眼の玉を動かさずに、両脇を視るこの術は、要するに心眼を開眼させ、左右の敵の動きを観察せよと言うことなのである。
 しかし、心眼とか、開眼とかいったところで、この術は誰にでも簡単に身に付くものではない。この術の理屈を充分に理解した上で、日頃からの地道な鍛練に励むことが必要となる。また、実戦を通じ、熟知する事も必要であろう。

 これを養うには、八方の敵と渡り合い、道場稽古から逸脱した実戦鍛練が必要で、今日の道場内や体育館内の竹刀剣法とは、その戦闘思想も、鍛練の仕方も、根本的に次元が異なっているのである。

 かつて戦前には、柔道でも剣道でも、「五人懸(が)け」とか「十人懸け」という特殊な稽古法があった。この稽古法は、一人の高段者を相手に、五人なり、十人なりの者が、交代で、代わる代わる出て対戦して行く稽古法で、二人が一度に懸(かか)って行くとか、四人が前後左右から懸ると言うような、実戦を想定した稽古が行われていた。これを「懸り稽古」とも称した。

 ところが今日、こうした稽古は殆ど行われていない。
 確かに型として、二人捕り、三人捕り、四人捕りといったものが残っているのが、それは演武を中心とした大東流や合気道、型空手や少林寺拳法の見せ場を山にした、演武形式の型武道に残るくらいであろう。しかし、こうした物も厳密に言えば、実戦を逸脱した骨董品の領域を免れない。単に約束の上の演武であるからだ。

 何故なら、実戦でない為に、演武の術者は、手裏剣一本を打たれて、それすら躱(かわ)せないほど、演武として、受けを演じてくれる相手を捌き捕るだけで精一杯なのである。とても飛び道具を躱(かわ)せる余裕などない。これでは幾ら多数捕りをしても実戦でなく、最初から演技の演武である事は言うまでもなかろう。したがって型からなる、伝承としての骨董品にならざるを得ない。

 また一方、昨今の競技武道は、スポーツ・ルールに従い、一対一で対戦して、それ以外の不測の事態が発生しないと言うことが前提になっている為に、強者は弱者を仕留める為だけに心が集中でき、他からの攻撃に対しては、全くの無防備の状態で対戦している。つまり強者といえども、一人の相手で精一杯なのである。
 オリンピック・クラスの選手でも、一対一の試合に夢中になっている選手を、飛び道具で仕留めることは、素人でも容易(たやす)いであろう。

 昨今は、古武道祭だの、日本武芸の祭典だと称して、日本武道館などで、大々的な武道の優を集めて演武形式の武道祭が演じられ、テレビなので放映されているが、こうした型武道の熟練者も、観客に混じった刺客の飛び道具攻撃に対しては全くの無防備である。
 筆者はいつの日か、自称第一人者と豪語する遣い手が、ド素人の刺客から殺害されないように願うばかりである。

 観客を前に意気揚々と演ずる演武は、約束で、殺陣の順番が決まっているので、間違いなく、恙(つつが)無く演武を終了させれば、観客から拍手喝采(はくしゅかっさい)がもらえるであろうが、刺客の狙撃は躱すことができないであろう。時代が複雑化し、時代の流れの高速化についていけない性格異常者は、年々増加の一途にある。こうした性格の捻(ひねく)れた者から、理不尽な攻撃を受けないとも限らないのである。
 また、オタクといわれる連中の中にも、こうした性格異常者がいることを忘れてはならない。

 危険が渦巻く現代社会に於いて、「八方目」「八方眼」を会得する事は、災禍を未然に防ぐことも決して不可能ではあるまい。これを日常生活に応用し、一度、非日常が顕われれば、これに適用する事は非常に有意義な事である。
 是非とも、試合のない演武武道の演技者は、後背中に向けて飛んで来る飛び道具にも、「目配り」をして頂きたいものである。

 また私たち現代人は、車社会の真っ只中にいる。したがって、大都市や地方都市の道路事情は完璧(かんぺき)を帰しているとは言い難い。いつ何時、突拍子もない方向から、車が暴走して来るかも分からない。
 こうした危険に対処する為、一々前後左右を見回すなどの身体を捩(よじ)る動作は、かえって危険である。

 こうした時こそ、眼の玉は真っ直ぐ前を向き、八方眼を用いて、左右何(いず)れから車が暴走して来てもいいように、咄嗟(とっさ)に躰(からだ)を開いて躱(かわ)せるよう、普段から心眼を開く稽古を怠ってはならないであろう。

 しかし現代スポーツは、心眼を開眼させるという行為は殆ど重要視しない。自分の肉体を遣い、肉感で確認する事が最大の課題である事を要求する。したがって、眼に見えない領域のものを全く信用しないし、肉眼に映るものだけを正しいとする。だが、ある方向からの刹那(せつな)の危機に対し、肉体的反射神経だけでは対応が難しいだろう。

 それは歳と共に肉体が衰えるからだ。
 肉体が衰えれば、運動神経や反射神経は萎(な)え、鈍麻となる。その為に肉体を酷使して、肉眼だけに頼って練習を積んだ者は、肉体年齢が衰えと共に、その選手生命を終える。これらはスポーツの選手の隠退を見れば明らかであろう。
 肉体の老化と共に引き上げる実情は、肉の眼、肉の身体のみを基盤として訓練して来たからだ。ここに、「肉体が衰える」と言う一抹(いちまつ)の虚しさがある。

下段受け流しから、術者は敵の迷いと崩れを誘い、剣尖(きっさき)を跳ね上げて廻し込む。そして、「廻し払い」で、剣を跳ね上げる。
次に、柄頭を利用して、顎の中央部の「オトガイ割り」をし掛ける。
そして敵が一瞬怯(ひる)んだ隙に、一気に睾丸目掛けて、睾丸から腰骨まで斬り上げるのである。

 

●目配りの大事

 観察眼と言うのもは、武術を修行する者にとって、非常に大事である。敵と対峙(たいじ)し、まず最初に眼を付けなければいけないところは、敵の体勢に続いて、その「目配り方」で、一体何処を視(み)ているか、それを充分に観察する必要がある。

 その為に「目配り」が大きく、広く、ワイド画面で捉えるように、深遠で見えるよう訓練が必要である。敵の表情から、何かを窺(うかが)い、心の裡側(うちがわ)が表面に顕われた幽(かす)かな動きや、変化に注目し、それを深い洞察力によって分析しなければならない。敵の体勢と、表面に顕れた幽(かす)かな仕種(しぐさ)こそ、最も、敵の正体を率直に顕わしている、等身大の実像なのだ。

 この等身大に実像を正しく見抜く為に、眼の働きに注目し、「観(かん)「見(けん)を洞察する事である。そして「観」の眼は強く、「見」の眼は弱くあるべきである。
 つまり、「見」の眼で、敵の表面に浮き出た心の動きを探り、「観」の眼で、敵の正体を見抜く事が肝心なのだ。「見」はじろじろと見る強さを持ってはいけない。敵から悟られず、弱いことが肝心である。
 一方、「観」は敵を威圧する強さが必要である。

 そもそも人間の眼は、身体の表面より裡側(うちがわ)の中心にあって、一見、外側を眺(なが)めているようであるが、「眼は心の窓」と言うように、中心部に隠れたものが眼を媒介して、外に向かってその意図が流されている。したがって眼こそ、心の中心点である。

 この事は、吾々(われわれ)生物が、何者かと対決する時、最も注意を集中されるところは、眼であるからだ。眼に集中力が宿り、その生物の眼の部分に、これから未来の行動予定が全て描き出されているのである。

 生物の歩く人生の足取りには、生活の過程の総てが刻まれている。ここにその生物の所有する過去・現在・未来がある。これは数直線上に言う、三つの次元が横並びになっているのではなく、これ等の次元が極薄に折り畳まれ、この三つの次元が同時に、重なっていることである。眼にはこうした過去世(かこぜ)からの情報が集積されていて、この部分に、生物は本来無意識的に眼を走らせてしまうのである。ここを、まず検(み)ようとするのだ。

 生物は、眼の様態や眼の輝きに、その全ての情報が書き込まれている。その眼の閃(ひらめ)きや輝き、炯(ひか)りや色彩などが集積されていて、生物はこの情報を逸早く読み込み、その後の行動を決定する。

 だから、猛獣の恐ろしさは「眼の輝き」にある。これは猛獣が全生命力を両眼に集中させているからである。その生命力によって、例えば、猛獣が人間を見据えた場合、見られた人間は、これに怯(ひる)みを感じるのである。
 一方猛獣にとっても、眼の輝きから見て、人間ほど恐ろしい生き物はないと映るのである。

 一部の人間には、訓練により、猛獣を怯ませる「目配り」を体得した者がいた。戦前はこうした行者が多く居たと聞く。こうした行者に、猛獣が見られると、一瞬躊躇(ちゅうちょ)を覚え、後退りするというのである。ここが、見据える者の恐ろしさである。猛獣までも屈服させてしまうのである。

 また、こうした人間とは逆に、犬からも嘗(な)められる目付きをした人間がいる。こうした人間が野犬から睨(にら)まれると、往々にして心は動揺し、臆病風に吹かれるものである。人間でもそうだが、生物の精神的強弱度は、まず眼に顕われる。
 それは、根性があるのか、不屈の精神を持っているのか、相手にして闘えばタダで済まないのか、簡単に決着するのか、それらは一々手合わせしなくても、どの程度の腕を持っているのか、観察眼の鋭い者であれば、瞬時に読み取れるはずである。

 しかし観察眼の疎(うと)い者は、その程度が分からない。目前にいる相手の実力が分からない。いわゆる「値踏みを間違う」ということである。そしてこの手合いは、殆どが空威張りで、命の遣(や)り取りについては、相手が死に物狂いになって襲い掛かって来ると、腕に覚えのある者でも、意外に手を焼き、苦戦するものである。
 これが、修行半ばの洞察眼の甘さである。その先に何が隠れているか、読み取れないのである。だから、次の手は、意地で闘わねばならなくなり、刃傷沙汰を起こしてしまうのである。

 したがって、この手合いは、観察眼の疎(うと)さから、野犬を相手にしても負ける事がある。人間以外の動物は、相手側の眼の虹彩(こうさい)に書かれた情報を読み取る能力があるから、人間の眼から、一切の情報を引き出して読んでしまう。こうした動物的な能力を持った人間もいるようだが、動物の勘(かん)のそれには適(かな)わない。

 動物は言葉を喋ることができないだけに、こうした、人間の心の深層部に書かれた過去・現在・未来までの情報を一気に読み取る、卓(すぐ)れた読み込み機能を持っている。
 したがって、例えば、野犬が人間を睨(にら)み付ける場合、その人間の眼の炯(ひか)りや、臆病か、そうでないかを見る。そして、臆病と検(み)るや、一気に飛びかかって来るのである。動物は、人間も含めて、相手が弱いとなると、自信を持って襲い掛かって来るものなのである。

 だから、逃げようとすると、その一瞬の無防備を窺(うかが)って襲い掛かり、噛み付くのである。
 こうした場合、相手が犬だと雖(いえど)も、軽視する事は出来ない。人間の表面上の動きから、心の奥底を読んでいるからである。動物である彼等は、「見(けん)」の眼をもって、人間の強弱を窺(うかが)い、正体を見破る為に「観(かん)」の眼をして事に中(あた)るのである。

 一部の力ある霊能師が、人間の眼の虹彩(こうさい)から、その人の過去の情報を引き出して、過去の生(お)い立ちや事件を言い当てるのはよく知られた事である。また、彼等は人間の過去に書かれた記憶から、潜在意識を読むことでも知られている。人間の眼の虹彩には、過去の情報が折り畳まれるようにして書き込まれているからだ。

 彼等は眼に見えない不可思議世界の住人と言うより、眼に見えない情報を、その人の眼を通じて解読しているに過ぎない。ただ彼等も人間であり、過去ばかり検(み)ている能力が身に付いている為、「現在」という「今」は空洞化するようだ。その為に、ハードな能力を酷使していることにもなる。
 ここが彼等の泣きどころであり、そんな能力が日常的に、頻繁(ひんぱん)に持ち出して、決して身体に良いわけがない。何故ならば、人間と言う生き物は、「今」の現実にしか生きられないからだ。

 だから彼等も、自分にこうした人の過去を読み取る能力がある事に、最初は有頂天になって喜び、何事も百発百中の確率をもって言い当てるが、徐々にこうした能力にも限界がある事に気付く。そして心身共に疲弊(ひへい)し、彼等の霊能力には翳(かげ)りが見え始める。
 この類(たぐい)の中途半端な霊能師や祈祷師は、晩年が多くの災いによって、苦悶(くもん)する日々を迎え、自身で断末魔の死を迎え、自分の想念によって描いた地獄に墜(お)ちて行く人も少なくないようだ。あまりにも、他人の過去を見すぎて、心身を酷使したからだ。

 彼等は異口同音にして、「先祖供養」を挙げ、先祖を供養する事で、現在の幸福があると豪語する。また、今の自分は過去の先祖の化身(けしん)であるとも言う。しかし、「今」という現在の確かな生活空間の中で、先祖と、今の自分がどういう因果関係にあるのか、その説明は釈然としないものがる。この「釈然」としない証拠こそ、霊能師と自称する彼等が、被鑑定人や被易断者の過去を検(み)る場合、何もタイムトリップして、先祖の霊を引き出して、その霊と語らい、そうした者と会話していない事は明白であろう。
 ただ彼等は、人間の虹彩に書かれた過去の情報を読み取っているだけなのである。あるいは潜在意識の中の過去の記憶を読み解いただけに過ぎない。その為に、「今」と言う現在も存在せず、「今」から先の未来も存在していないのである。「今」が存在しないから、そこには空洞化現象が起きても当然のことであろう。

 そして彼等が異口同音にして語る「先祖の祟(たた)り」があるという、この言にしても、彼等の検(み)る特定の宗教観に汚染された霊的世界は、後味の悪い疑念を残すところである。
 何故ならば、彼等は「先祖の祟り」とか、「先祖は祟るもの」としているからである。
 では、彼等は被鑑定人の過去を洞察して、先祖から、何を言付かって来たのか。

 先祖の多くは、現在の今もなお、藻掻(もが)き苦しんでいると言う。では、何故藻掻き苦しむのか。
 それは自分の思い通りにならなかった事が、その未練として現在に訴えていると言うのである。
 つまり、例えば、「仏壇に魂が入っていない」とか、「墓が荒れ放題になっている」とか、「今、棲(す)んでいる家の家相が良くない」とか、「自分の霊魂が懇(ねんご)ろに供養されてない」とか、「生きている間は病気と借金苦に苦しめられたとか」の、自分の人生が思い通りにならなかった苦しみと、悔恨を訴え、それを現世にいる子孫に向けて発していると言うのである。果たして本当だろうか。

 しかし、これは今の自分が、過去の自分の因縁を引き摺(ず)っているとするならば、「今の自分」が、子孫を代表して、思い通りになる生き方をすれば、先祖の報われない過去は報われるのではないか。また現在の「今の自分」が代理することで一切は報われるのではないか。

 ここに、「本当の供養」とは、寺から坊主や、教会から神父や牧師を引っ張り出して来て、墓の前に連れて行き、拝むだけで済まされると言うものではない事が分かる。
 本来、自分がこの世に生まれて来る為には、何百人の先祖、何千人の先祖、何万人の先祖が必要となる。その先祖が、供養を欲するなら、むしろ思い通りになたなかった先祖の悔恨を、自分が先祖の子孫を代表して、思い通りに生きることで、総て、先祖の落した悔恨の無念は一気に解決するのではないか。

 もし、それでも祟ると言うのなら、それは先祖達のエゴイズムであり、死霊(しりょう)の唸(ねん)が今もなお、断ち切れずにいるのなら、それはまさに理不尽と言う外ない。ならば、この理不尽を、甘んじて受けるのも、また人生ではないか。

 だからこそ、人は「今」に生きなければならず、過去は問題ではない。「今」に生きる事が、実は「目配り」の大きさや、広さを眼に託す事が出来るのではないか。剣術の目配りの術は、こうしたことまで示唆している。
 過去は済んだことである。過去にシコリを残したり、こだわったり、栄光を懐(なつ)かしむようなことは無用である。「今」をしっかりと見なければならない。「今」を凝視することが出来れば、過去の悔恨など、総て消え失(う)せてしまうのである。

 「観(かん)」によって眼を強くし、「見(けん)」によって眼を弱くするとは、「目配り」が大きく広くなる事であり、ここに強いか弱いかの本当の正体があるのである。「目配り」を働かすのは、過去ではなく、「今」なのである。「今」だけが真実なのである。「今」を無視すれば、結局未来もないことになり、「今に生きる」とは非常に大事なことである。

 わが流・西郷派には「睨(にら)みの術」がある。これは眼を検(み)る術であるが、同時に眼から、心の裡側(うちがわ)を観察する術でもある。まず、自分に危害を加えるか、そうでないか。次に強いか、弱かである。こうしたことが「睨みの術」を通じで分かる。

 例えば野犬にしても、こうした観察により、眼を光らせて身構えている獰猛犬(どうもうけん)に対し、これをキッと鋭く睨み付け、睨み据えて、機先を制してから、こちらから襲い掛かって行くか、それが無謀ならば適当なボール大の石を拾い上げ、一気に投げ付けるかで大方はケリがつくはずである。但しこうした判断の流れに滞りがあり、一瞬でも躊躇(ちゅうちょ)して、優柔不断の心に捉われれば、逆に野犬から襲われる事になろう。

 そして、人間であるにしろ、野犬やその他の動物であるにしろ、集団の中では、一番強い者を奇襲をもって最初に倒す事であり、これに躊躇して出遅れて、弱い順などと考えれば、いつまで経っても埒(らち)が明かないのは当然である。何事も迷う事なく、一番強い奴に、一発でケリを付けなければならない。
 迷って、大事を躊躇していては、一発で片付くことも、後々まで尾を曳(ひ)き、後遺症になることがある。「此処(ここ)ぞ」と思う時は、力を出し惜しみしてはならない。

 人生には、「此処ぞ」という時機(とき)に、踏ん張れない人が居る。大方は力の出し惜しみである。しみったれた人、間違った稽古をした人、自分のしていることが最高であると信じている人は、この愚に陥り易く、この愚の「運命の陰陽」に支配される。

 例えば、自分が今どのような状態にあるか、把握しきれない人は、人の忠告に聞く耳を持たない。自分の素人考えで、貴重なアドバイスを無にしてしまう。
 筆者の知人に、ある大学の名誉教授がいるが、この人が大学のロビーで足を滑らせ、股関節を亜脱臼してしまった。要するに、人体・骨格の六大関節(手首関節、肘関節、肩関節、腰関節、膝関節、足頸関節の合計六つ)の一つを外してしまったわけだ。

 ところがこの人は、凄腕の柔整師か、凄腕の整形外科医を訪ねればよいものを、事もあろうに安易な判断から、「ぎっくり腰を一回の鍼で治した」という中国鍼の鍼灸師の話を聞き、こうした「人の口伝い」を信じて鍼灸師の世話になり、この鍼灸師から坐骨神経痛だと言われたそうだ。

 筆者は、日本でも有数の凄腕の柔整師と整形外科医を紹介した。
 ところがこの御仁(ごじん)は、筆者の紹介を無視して、素人判断から、中国鍼を打つ、鍼灸師を含めて、二箇所の鍼灸師を頼り、ここで瀉血鍼しゃけつしん/鍼を刺して患部から血を抜くこと)などの治療を受けているが、三ヵ月過ぎた今でも、まだ完治せず、重い後遺症を引き摺(ず)っている。三ヵ月経っても治らないものが、半年経っても治るはずがなく、恐らく、一年経っても治らないであろう。二年三年と長引けば、慢性病として定着し、益々悪化に拍車をかけるであろう。

 人間は誰しも、生まれた以上、やがて老ていって病を患(わずら)うことになり、病は死を引き寄せるものである。若い頃は直ぐに治った病気も、年をとれば中々治らず、その恢復(かいふく)は遅々として進まないものである。安易な不注意で発生する怪我の多くは、高齢者の場合は脚と腰である。脚の場合、膝関節痛を筆頭に、股関節亜脱臼や半月盤損傷や脹脛(ふくらはぎ)の腫れや痛みが挙げられる。
 次に腰の場合、多くは腰痛であるが、腰痛捻挫の椎間板ヘルニアなどの俗に言う「ぎっくり腰」や、仙腸関節の関節部の弛(ゆる)みから起る腰骨の歪(ひずみ)などである。この歪はやがて、肩凝りを齎(もたら)し、遂には頭蓋骨の関節までもを外し、弛めてしまう元凶となる。

 つまり、老いの第一現象は、脚から始まり、脚からの歪が腰骨に異常を与え、腰骨の弛みが肩凝りを招き、肩凝りが頭蓋骨の関節までもを外し、弛めてしまうのである。現代人は、こうして脚から始まる病気に躰(からだ)を病み、脚の歪みが腰の異常を招き、腰の異常が肩の異常を招き、肩の異常が頭蓋骨の関節を外し、それがボケを招き、定められた老・病・死の順に死へと導かれるのである。ここに死に至るまでの、人間の方程式がある。

 では、この方程式の関わりを少しでも遠ざけることは出来ないのか。
 まず、脚(足)を大事にすることだ。
 車社会の悪癖に流されず、歩くことを積極的に遣る。あるいは山登りも月に2回ほど遣(や)って、老いたりと雖(いえど)も、嶮しい山道に挑戦して「山稽古」に専念することだ。
 そうすれば、万一こうした怪我に及んだ場合、何を一番最初に行わなければならないか、この結論は直ぐに脳裡(のうり)に閃(ひらめ)くだろう。それを後回しにして、末節的な措置で逃げ切ろうとすることが、もともと怪我や病気を拡大させる元凶なのである。

 これは要するに、関節が亜脱臼して外れたのだから、骨格をいじって、一発でケリがつく治療を、わざわざ鍼灸の鍼(はり)で掻き回し、事後を複雑にして、その後も生涯、躄(いざり)か、尺取り虫のような後遺症に悩まされる運命を選んだのである。愚かなことだ。ここに運命を別ける「明暗」がある。
 つまり、その後の寿命が15年か20年あるのに、これを半分にしたり、三分の一にしたりして、自ら寿命を減らす生き方を選択しているのである。仮に、その後の寿命が20年ある人が、半分の10年に減ったとして、その半分の10年は、少なくとも健康な10年であるまい。病魔を引きずった、辛い10年のはずである。

 ところが、凄腕の柔整師か整形外科医に診てもらっていれば、恐らく瞬時に関節は元の位置に収まり、坐骨神経痛にまで悪化する発症は避けられ、今頃はピンピンして飛び回ることが出来たであろう。そして、仮に残り分の寿命が、20年だったとして、その20年はその総(すべ)ての毎日が、寿命の尽きる死ぬその日まで、健康に生きれる20年の毎日であろう。

 本来ならば、柔整師か整形外科医を訪ねなければならないところを、奇(く)しくも、骨格治療には余り縁のない鍼灸師を訪ねたところから間違いが始まったのである。この御仁は、一生、妻君の世話になって、鍼灸院に通い詰めであろう。要するに、にえきれない人であった。こうした人の末路は、死した後も、意識体としての唸(ねん)が残るから、不成仏になること請け合いである。

 この人の様態(ようたい)については、その後も追跡調査をしているが、筆者の「勘」が的中していれば、四ヵ月経っても、半年経っても、一年経っても、二年経っても、三年経っても、生涯治らないまま臨終を迎え、100%の的中率で、間違いなく不成仏になることだろう。
 この人は、単に知人というだけでなく、まさに「痴人」であった。

 太刀合に於いても同様である。最初に直感した「目配り」により、運命の明暗が別れる。もたついていては何もならない。敵と対峙(たいじ)する場合、「目配り」を大きく広くする事である。
 「見」の眼で相手の表面上の動きを洞察しながら、然(しか)もこの「見」は、弱い眼で心の奥底を見据えて観察し、かつ「観」の強い眼で、相手を一喝(いっかつ)し、その本質の正体を見抜く事が勝利への要締(ようてい)である。


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