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敵を吾が術中に引きずり込む当身の業

■ 当による合気拳法
(あてによるあいきけんぽう)

●当による合気拳法

 一撃必殺の突き業(儀法)、人体急所への当身業、無駄な力を使わず、人体急所の位置を的確に把握し、それを巧妙に駆使して敵を倒す、これが大東流の「当(当身)による合気」、即ち合気拳法である。

 この基本は先ず第一に、纔な打力で、出鼻を挫くことが目的である。そして相手の戦意を一気に奪ってしまう。
 これは大東流柔術の本命である、種々の業に持ち込むことがその主旨であり、出鼻を挫くことは、仮当身的な要素が強く、敵の行動を一旦、仮当身で停止させ、精神的衝撃で動揺と混乱を招き、次に柔術の種々の業に持ち込むまでの前哨戦的なものである。
 しかし当身打法や、刺しの点穴術で致命的な損傷を追わせることも出来る。

 さて大東流の当身は、主に「中高一本拳」に代表されるが、単に単調な一回当ての当身に終始するのではなく、仮当身といえども、敵が行動を停止するまで、あるいは戦意を失うまで、何度も打ち据え、当身の連打を徹底的に集中砲火させることにある。
 つまり空手や拳法の標榜する「一撃必殺」ではなく、弱い打撃の連打を、正確に繰り返し打ち据えて重ね、単に二回三回程度のものでなく、戦意を失うまで何度も何度も打ち据えるのである。

 この場合、中高一本拳では、胸郭下部の「章門」や「水月」が有効であり、また肘先でこれ等の部分を突いてもよく、これが殺傷力を持った本格的な本当身になった場合、その衝撃で中枢神経は麻痺し、仮死状態あるいは死に陥れることが出来る。
 また一時的に、運動神経を麻痺させ、敵の行動を制して崩したり、抑えたり、投げたりするのが柔術諸流の技術とされているが、縦拳や裏拳で補助的に用いるのを「仮当身」、肘や正拳、踵や膝で一撃必殺で敵を倒すのを「本当身」という。

▲柳生流秘伝に記された
『五輪塔急所秘術』の剣術と拳法の解釈図
(クリックで拡大)

 さて、大東流に於ける人体急所で用いる急所箇所は、次の通りである。

 頭部から順に天倒、天道、霞、印堂、烏兎、人中、両毛、下昆、独鈷、頬車、脳活点、頸中、秘中、松風、村雨、ダンチュウ、月影(左右二箇所)、稲妻(左右二箇所)、電光(左右二箇所)、後電光(左右二箇所)、雁下、水月、肺尖(左右二箇所)、胸尖(左右二箇所)、明星(開元)、早打(左右二箇所)、尾テイ、第一頸椎、癪活、活殺、金的(釣鐘)、腕馴(左右二箇所)、肘詰(左右二箇所)、内肘詰(左右二箇所)、開握(左右二箇所)、内尺沢(左右二箇所)、外尺沢(左右二箇所)、曲地(左右二箇所)、合谷(左右二箇所)、甲手(左右二箇所)、内関(左右二箇所)、外関(左右二箇所)、後稲妻(左右二箇所)、夜光(左右二箇所)、後詰(左右二箇所)、承山(左右二箇所)、内踵(左右二箇所)、甲利(左右二箇所)、向脛(左右二箇所)、手打(左右二箇所)、潜龍(左右二箇所)、草靡(左右二箇所)、陽輔(左右二箇所、但し別名として絶骨、分間、分肉等の呼び名がある)、伏兎(左右二箇所)であり、その数は81箇所にのぼり、殊にこの中では約70箇所程が、主に打法目標として遣われる。

 ちなみに「五輪塔」の五輪は、五行の「五」であり、「五行の当」に対応している。

 大東流に於ての急所打法は、柔術諸流派と同じく、約70箇所程の経穴が遣われるが、竹内流柔術が急所打法に72穴を定め、大和柳生流が74穴を定めている事は、ほぼ大東流の約70箇所程の経穴と一致する。
 大東流の急所打法が「約…」となっているのは、打法に変則的な応用があり、単に拳一突きで一穴と数えていない為である。急所の周りには、同位置付近に別々の機能を持つ経絡が流れており、その経絡を指俣等で突くと、別々の効果が現われてくるからだ。

 中国には擒拿術という武術があり、これは経絡上の経穴を掌、拳、指先で打突き、若くは拇指などで押圧して、然る後に捕えるというもので、時には突きと同時に、敵を神経的に麻痺させたり、脈所を絞め揚げて、運動不能にする武術である。これは日本の柔術諸流派と究めて酷似しており、元々これら諸流派は中国武術思想の影響を受けたものと思われる。

 日本柔術諸流派の中には、「拳法」を名称にした流派が少なくなく、諸賞流拳法などが有名であり、独自の技法を構築し、擒拿術としての経絡における殺活を研究した流派であり、本来の意味での中国拳法とは異なっている。
 擒拿術に「七十二把擒拿術(36要穴で、把にはそれが二倍となる)」がある事から、その急所の経穴数は、日本柔術のそれと一致するのである。
 また空手(主に沖縄唐手)の急所も、これに一致する。
 柳生流を除く、日本柔術諸流派(大方が72穴を採用)と中国擒拿術(36要穴)の共通点は、12の数字の倍数の上に立脚したものであり、これは経絡の「十二経絡」に端を発している。

●張りと中貫合気

 この「張」は当身業の合気拳法の「素振り」であり、拳で撃つ事を「拳張」、猿臂等の肘討ちを「肘張」、中高一本拳等の鋭い拳で突く事を「刺張」という。
 拳張りは拳を各々に変化させながら、裏拳、正拳、下裏拳、中高一本拳を遣っての刺し張りと変化させながら連続技を繰り返し、更に肘張りに移って、「張り」の素振り動作を連続させる。

 また、大東流拳法の特徴は、常に複数の敵に対する「多敵之位」を戦闘の想定に置いているので、一対一の戦いではなく、複数に対しての自滅作戦を展開するので、特殊な打ち方で当身を「当て」、次に「投げ」、最後に「斬る」という過程を辿る。
 また、左右両手を同時に打ち込む事を「二丁張」という

 これ等の動作がある程度会得できたら、次は「気力の一致」に入る。
 この気力の一致は徒手での「張り」や「刺し」の業だけではなく、蹴業に至っても同じであり、これに呼吸を伴わせないと気力は一致しない。
 その気力の一致で最も大切な事は、普通突きや蹴りを行う場合、多くは「呼気」になるのであるが、これは「気」と「力」が分散されて一致する事はなく、「力」が主体になって「気」が従になってしまう。したがって、これでは用を成さないのである。
 威力を一致させるためには、先ず突きでも、蹴りでも、「呼気」ではなく、「吸気」にあるのである。
 つまり、目標物である媒体に当たる瞬間、「吸う」のである。

 「吸う」と言えば、一見不思議に思うかも知れないが、多くの武道や格闘技は、相手を叩く場合、突く場合、あるいは投げる場合、総て「吐く息」の気合というもので制することが少なくない。また「エイッ!」と気合を入れた方が、何となく勇ましく思うかも知れない。
 しかしこれは錯覚である。「吐く息の気合」は一旦、力んで呼吸が停止した状態であり、医学的には血圧が上がり、心臓肥大状態にあるといえる。多くのスポーツや競技武道が、力みから血圧を高め、心臓に負担を掛ける直接の原因は、呼吸法の誤りであり、吐く息で動作を繰り返しているためである。ここに西洋スポーツや、西洋スポーツの練習法を模倣した格闘技や競技武道の、呼吸法の誤りがあるのである。

 そのため、こうした格闘技や競技武道の愛好者は、晩年、蜘蛛膜下出血で眼を煩ったり、呼吸器障害を起したり、心臓に負担を掛けて心臓肥大症となったり、無理な蹴技(脚を高く上げてキックするなど)で股関節に亜脱臼を起して、半身不随になる確率が非常に高いのである。著名な武道家が、晩年、纔30センチの高さの階段を上がるのにも苦慮して登っている姿を見掛けるが、これは蹴技が災いした股関節だ脱臼のためである。

 次に、呼吸法の誤りが挙げられる。
 多くのスポーツや競技武道には、呼吸法の誤りがある。吐気と納気が逆になっているため、力で競い合う傾向にあり、力で相手を捻じ伏せる格闘が常識化されている。そのため晩年、呼吸器障害を起こす。これは呼吸法の誤りであり、浅い呼吸で、激しく動いた場合に起る病気である。
 西洋スポーツの呼吸法は、浅い呼吸で、激しく動いたり、吐納が逆になったり、呼吸を止めて、力んだりという、呼吸法に大きな誤りがあるということを胆に命じなければならない。
 特に、気負いから力んで(こうした状態を「力み返る」という)、呼吸の吐納(吐くことから始まる逆腹式呼吸)が逆になるため、気血が逆流して呼吸障害を起している場合が少なくない。若い時分は表面化されないが、晩年は表面化されて、種々の病因を齎す。

●吸気の大事

 大東流の呼吸法は、「掛け」や「当て」の瞬間に「吸気」を行う。この「吸う」ことこそ極意であり、呼気から一瞬に転じて「吸気」を行うのである。
 大東流が「無声柔術」といわれる所以は此処にあり、「有声」であれば「呼気」であり、「気」と「力」は分散され、やがて呼気が停止されて「力み」だけが強調され、力業に終わってしまう。

 さて、「張り」を行う場合は、出来るだけ力を抜き、拳は手は最初から固めるのではなく、丁度、ウズラの卵か何かを軽く握った感じで、打ち出す瞬間にこれを握り固め、同時に、目標物に当たる瞬間「吸う」のである。これは当身業に限らず、大東流柔術を行う際も、この吸気は大切である。「吸う呼吸」が会得できたら、これが本物であるかどうか、「試張り」が必要となる。空手で言えば「試割り」であり、据え物斬りで言えば、「試斬り」である。

 大東流の試張りは、合気拳法・手拳を以て、これを行う。
 合気拳法は単に腕力による力技とは異なる。また空手や拳法の突き蹴りとも異なり、これ等が直線的な攻め方をするのに対し、大東流柔術では多分に、敵の背後や側面に回り込み、体勢を入れ替えると同時に突きを放つので、その張り出す打法は螺旋状の軌跡を辿る。打ち出し方自体も、空手や拳法とは異なり、真空の中を打ち出すような素早い呼吸調整が行われる。

 この方法は、新聞紙数枚を、誰かに上の部分だけ持って貰い、これを「突き」や「刺し」で突き破る方法である。最初は一枚から始め、その呼吸が掴めたら、枚数を徐々に増やしていく。
 こうした特異な打法は、剣術を母体とする裏技である「剣術拳法」(日本刀を帯刀し、当身を打ち出す儀法)の「張り」と「打」であり、もともと空手のように、拳を強く握り締めて打ち出すものでなく、剣術の「真空斬り」の「空を斬る極意」である。

 普通、木刀や日本刀を振り回せば、何らかの音がするが、この音が出る間は、実際には「空を斬る」までの次元に域に達していないのである。本当に空を斬ることが出来れば、映画やテレビで見る時代劇のチャンバラ・シーンような、風を薙ぐような「鳴き音」(ヒューと鳴く、速度の遅さから来る低周波音)はしないものである。大東流剣術には「音がするうちは未熟と心得るべし」という戒めがある。音がする、しないは低周波と高周波の違いである。

 波動音も高くなれば高くなる程、その波調も短くなり、したがって人間の耳には聞き取れなくなる。本来ならば、こうした波調の高い音を、人間の耳で聞き取ることは困難である。したがって波調が低ければ、修行未熟な、万人に聞こえる「ヒューと鳴く音」を発し、それは未熟から起こる「振り回しの鳴き音」である。しかし一般素人は、これが物凄いと思ってしまうようだ。
 口伝には、「吐く音は低く大きい。吸う音は高く小さい。隨って納気は吐気に優る」とある。
 それと同じ錯覚で、力の入る一番で力んだり、「えいッ!」と気合いを入れる方が、勇ましく思えるらしい。

●発気と中貫合気

 肉体的には、呼気は吐く息であり、気合が伴えば強いように錯覚しやすい。また吸気は、気血的には納める息であり、吸っているため表皮的には弱々しく映る。しかしこの、一見弱々しく映る、吐納の納気に隠された秘密がある。

 吸う瞬間の吸気に、納める納気を一致させれば、絶大な威力が伝播される。人体はその八割方が流動体からなる液体であり、液体に与える打撃は、呼気ではなく、気を納める時機の納気でなければならない。これに心・気・力の三者が一体になり、心は心情と交わって元気(玄気)をなし、気は唸と交わって意念を発し、力は精と交わって武技を形作る。そしてこれが一体となって、三宝(天・人・地で、天は日・月・星、人は精・気・神、地は火・水・風)を作るのである。
 三宝の根源には「発気」(内在する気力で、中国拳法の発勁とは異なるので要注意。以下口伝)というものが働いている。

 しかし初心者は、気と力が分離している為に、纔一枚の新聞紙すら突き抜くことが出来ない。「暖簾に腕押し」の観であり、突き破るコツを掴むのに多少の時間がかかる。
 初心者の欠点を挙げるならば、拳を、空手のように握り込んで固め、力技で突き抜こうとするためである。コツを得るのに時間のかかるのは、無駄な力が抜けるまでに、時間がかかるという事である。

 一般に思われている呼吸は、空気中の酸素を取り入れるために、二酸化炭素を吐き出し、単に、ガス交換を行うことくらいにしか思われていない。
 しかし武術では、これに東洋的な思を加えて「気力の一致」と称し、心・気・力を更に一致させて、呼吸調整を行っていくのである。これを「中貫合気」という。

 中貫合気は瞬時に、点を破壊する技法であり、呼吸を一箇所に集中する事が大事である。そして力んだり、腕力で、これを打破してはならない。仮に打破しようと目論んでも、それが力技や肘から捻り出すピストン運動である場合は、機械的な繰り返しとなり、暖簾に腕押しで、新聞紙一枚すら突き抜く事は出来ないのである。

 これはピストルとハンマーの違いで、ピストルは、標的目標に押し当てても発射する事が出来るが、ハンマーは目標物に押し当てた儘では、それを破壊する事が出来ないのと同じ理屈である。ハンマーで目標物を破壊するためには、打ち砕くための射程距離(振り上げて、振り降ろす運動区間)を必要とするからである。

 さて、この新聞紙が正拳突きや抜手刺しで、突き破れれば、次は割箸一本を名刺や、割箸の入っている鞘の紙等を遣って、これを切断する事が出来る。但し、こうした技術はあくまでも余興的なものであり、実際の武術の儀法(業の意で、礼儀作法と武技の一致した法)とは余り関係のないので、こうしたものを見世物にしないことである。
 しかし「中貫合気」を会得するプロセスの過程になるので、「空を斬る秘法」は大事な習得課題であり、これが出来なければ先へは進めない。

 さてこの場合、「空を斬る」を正確に言うと、これは「切断」ではなく、「折る」と言った方が適当であるかも知れない。
 つまり紙で割箸を折ることが出来るのである。またローソクの火を、5〜6cm手前から正拳を握り、この火を消す事が出来る。これは風を起す空気圧で消すのではなく、気力の一致で行う「火止之術」である。(以下口伝にて説明省略)

 以上、説明を重ねれば、大東流当身拳法は、以下なる打撃系の武技や流派とも異なり、素手から生まれた「ケンカの道具」の部位として、手や足を使っているという意味とは、元々次元を異にするということが理解できるであろう。
 これらは、総て剣術の裏技として起源した武士の儀法であり、昨今マスコミで伝えられている町人優位説(江戸時代年間を通じて、武家よりも、町人文化の方が優れていたと吹聴する思想で、福沢諭吉や森有礼らの欧米酔心派の、「武士道」の残酷を宣伝する考え方)とは、全く次元が異なるのである。

 時代の流れは、武家から町家というのが歴史的な文化の流れであり、起源は武家が母体となっている。その一つの証拠に、髷(髪を頂につかね、髻を結った上部を後方へ折り曲げ、さらに前へ折った所の名)の結い方がある。
 男は総て町人といえども、逆髪を剃る。これは逆髪のばらつきを押えるためと、兜を被るためである。日本刀も然りである。

 武士のものであったからこそ、武士階級でもない豪農や、郷士(武士でありながら城下町に移らず、農村に居住して農業に従事したり、町家で商業を行った下級武士)の間にも、これらは普及したのである。
 こうして文化や風俗を瞶めていくと、起源は、武家から総てが降りて来たということが分かる。
 したがって大東流当身拳法は、素手の徒手空拳の格闘から始まるのでなく、武家の非常時に用いる儀法が、剣術の裏技(柔術や拳法や杖術・棒術など)として伝えられたものである。

 日本は古来より「剣」をもって、前途多難な、己の運命を切り開いてきた歴史を持つ。鍬や鎌や叩き棒ではなかった。まして舟の櫓でもなまった。
 もし、鍬・鎌・鉈・棒・櫓などが神器であり、魂を宿せるものであったならば、戦国時代、総ての武士階級は、こぞって日本刀を止めて、鍬や、舟の櫓を腰に差していたであろうし、脇指や鎧通の代わりに、鎌や鉈を腰に差していたであろう。
 ところが、そのようにはならなかった。日本刀大小は、ケンカの代名詞でないためだ。
 よって、剣術の裏技として起源した大東流当身拳法(合気拳法)と、格闘のために、素手での徒手空拳を出発点とする、今、流行の格闘技とは異なるのである。


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