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●個人教伝について 直接宗家が「合気」に至る迄の秘伝の細かい部分(古来よりの口伝)の指導を行い、その完成を目指します。 これ迄に於て、この部に入門を許可された人は、ごく限られた少数の人で、運動経験の全く無い人や、また植芝系の合気道の先生や、他の大東流の師範の方々や、その他の古流柔術の師範・指導員、フルコン空手出身者や、日本並びに韓国やカナダなどの柔道連盟関係の方が入門を許され、宗家が直接、古来より口伝(一子相伝による口述での特異な指導法)と称された西郷派大東流の秘術を計画的に指導します。
また、この部は直接宗家が手取り足取りして細かく指導し、その人に適合した独自の合気を指導します。つまり、力の弱い人は、弱いなりに、「小が大を制する合気」を指導します。 そして更に、単に合気武術の秘伝を受講するだけではなく、人間として大事な人格(武士道実践者としての人格形成)及び、霊格(人間には肉体的な繋がりである親子の血統ばかりでなく、親子との肉体以外の、過去世の霊統で繋がっている不可視現象)等の指導を行い、どんな敵に対しても絶対に負けない境地の「切り札」を授けます。 スポーツ武道では試合に於て「勝つ事のみ」がその練習の中心課題ですが、西郷派大東流ではどんな窮地に陥っても、「絶対に負けない境地」を指導し、それは人生に於て、一種の大切な「切り札」になります。 個人教伝の部では、手解きを含む基本柔術や基本剣術、基本腕節棍や基本白扇術を中心に、上達の度合いに応じて武術の一切を全般的に指導し、丹田術や呼吸法、合気拳法、奥儀剣術、据物斬り、居合術、居掛之術、合気二刀剣、小太刀術、奥儀柔術、杖術、槍術、棒術、水中柔術(水中で戦う格闘戦。但し指導は夏場に限ります)、大儀兵法(多数之位)、手裏剣術、飛礫術、鎖玉、日本馬術(騎馬戦を目的にした軍馬兵法)、八門遁甲(これは中国古典物理学で、占の類ではありません)、軍事学(兵の動かし方を中心とする軍法)、山行(福智山登山を通じての野戦。但し12月中旬〜翌年3月中旬の期間は冬山の為、指導を行いません)などを個人の進歩度合いと伎倆(ぎりょう)に合わせを幅広く詳細に指導します。 個人教伝入門審査に合格すれば、過去に武術経験が無い方でも、あるいは現在武術や武道の道場等を開業されている方でも、一番知りたい、秘術と称される箇所を「宗家直伝」と言う形で理論と共に、実技指導致します。 さて、以上のように「指導科目一覧」を並べれば、西郷派の個人教伝は何と、数多い技だけを教えるのではないかとういう誤解が出てきますが、これは教伝のほんの一部分であり、重要課題はこうしたところにあるのではありません。 しかし、「個人教伝」の本当の目的はこうした伝授に、教伝を置いているのではありません。問題は、「心の遣い方」であり、「負けない境地」を伝授することにあるのです。これが抜け落ちていれば、武術とはいえないものになってしまいます。 武術修行のその奥には、心をのコントロールする「心法」が説かれていて、多くの人はこれを見逃してしまいます。武術格技の根底には、技術面の優位よりは、「心の度し方」が説かれているのです。それを極めなければ、ただ試合に出て強いか弱いか、○○道と○○道はどちらが強いかの論争だけになってしまい、肝心なものを見逃してしまいます。
●個人教伝の課題は「負けない境地」を会得することにある さて、わが流は武術と武道の違いを明確に説いています。一般には武の道のことを、武道という呼び名で呼称していますが、ここでいう「道」は、多くの場合、単に道を標榜(ひょうぼう)するだけの「タオ的」な感覚で、このように呼んでいるに過ぎないようです。 しかし、武の道を単に強弱論に固執した思考で進めると、往古(おうこ)の武人達が求めて止まなかったその背景にある、「生活意識」や「武の道の礼法」などが安易に扱われ、あるいは軽視されてしまうことになります。 今日、多くはスポーツとしての立場をとる競技武道が幅を利かせています。これを「行う」という行為の中に、精進の「道」として捉える考え方は殆どありません。こうした考え方に偏っている「道」の理念が、勝ち負けで判定されることは非常に残念なことです。 古人は、武の道の中で、時の場合、状況や人の動きによって臨機応変に即応させ、変化させ、こうした流れの中に精進としての道の在り方を確立させてきました。ここにこそ、武の道の「術」としての大きな価値観があったのです。この術は、即席の護身術のようなものとは大きく異なります。 しかし、勝負は勝負の領域のものであり、それを超越するものではありません。つまりスポーツ競技的なゲーム感覚から、多くの武道種目は抜け出していないということです。勝ち負けのこだわりの中に組織拡張の目的があるようです。それだけに、また「道」を標榜するのも訝(おか)しなものです。 私たち日本人が、アメリカナイズされた多くの流行に翻弄(ほんろう)される理由は、「力こそ正義」という妄想に魅入られている現実があります。 武の道の根本には「殺さなければ殺される」という非情なる悲痛がありました。それ故、この殺気をもって、「いざ」という場合には敵に向かってまっしぐらに、肝心に突入して行ったのです。閃光が閃いたとき、一瞬にして首と胴が離れ離れになるというのが、本来の武の道だったのです。だから、普段はむやみやたらに競い合うことは極力避けてきたのです。 生き死にに、殺すか殺されるかという境地に立ったとき、これまさに真剣であり、この真剣さをもって修行することにより、大事に臨んで生死を明らかにすることが出来たのです。生に有っては、生の道を尽くし、死に有っては死の道を尽くしたのです。そして徹底的に極限状態において「尽くす」ことにより、生死を超越することが出来たのです。ところが昨今は、こうした観念がなくなり、ゲームを競技として楽しむという意識だけで、この手のものを愛好している人が多いようです。 そもそも弓・馬・刀・槍を学ぶ原点には、死生を明らかにする死生観の超越と、礼儀を重んじ、この作法に則った人格と品格を極めるというものがその根底にありました。そして、武技を極めても、これに驕(おご)らないというのが真の武人の姿とされました。
●温情味ある人間像を目指して昨今の競技をするスポーツ選手を見てみると、ただ強ければいい、強持てであればいいと言うだけで温情味に欠ける人が多いように思えます。それは競技を競う為に、他は総て敵とする考え方が、そういった思考に奔(はし)らせている節も否めません。ただ勝てばよいという、価値観がこうした現実を招いているのかも知れません。 ところが、かつての武士階級が、「恥」を言い、「尚武」を語り、「志」や「義」について論じている姿を思うと、何だか近寄り難い、冷厳なだけの人柄が想像されますが、実は決してそうしたものではなく、むしろ逆であり、刻薄なイメージは「君徳」に欠けると敬遠されたものでした。ただ、冷厳かつ刻薄なだけでは、武門では高く評価されなかったのです。 そもそも「武人」というのは、わが国においての知識層でありました。そして、その見識の中には、当然人間に対して、深い理解力は必要だったことは言うまでもありません。人間理解に対して、それが欠如していると、「温情味が欠ける」と非難され、決して高い評価は得られなかったのです。 人間理解の要(かなめ)は、「温情味」であり、それこそが人間の徳育の為に大きな働きを持っています。その徳育の具体的な有効手段は、古来の高い評価を得ている人間観察の眼を確かにすることでした。ところが、今日はこうした人間の観察眼を無視し、たんの暴力的で強ければよいという人が、英雄視されていますが、この英雄視されている人の中にも、ただ殺伐(さつばつ)とした強弱論を展開している人も少なくないようです。 また、昨今は恥に対する感覚も疎(うと)いようです。「恥」こそ、武門の行動律に一つであり、これは大きな柱になっていました。つまり、「恥辱(ちじょく)」に対する感覚です。同時に、名誉意識でも有ります。 人に笑われる、後ろ指を指される、陰で揶揄(やゆ)され、恥辱を受けるということは、そもそも武士にとって人格否定に繋(つな)がりました。だから恥に対する感覚は、人一倍強かったのです。しかし今日、恥に対する感覚を持っているスポーツ選手や格闘技選手は実に少ないようです。 勝てばよいという感覚意識は、恥辱に対し鈍磨(どんま)な方向へと導きました。 私たち日本人は、もう一度、「信」と「義」について考え直す必要があるように思います。 一般に職を失うことは、つまり「食を失う」と思われているようですが、食を失うことで、思い通りのことが出来ないようでは、それはかなり無態(ぶざま)な生き方をしていると言わざるを得ません。 その根本は、「恥なく生きる」 という言葉に尽きるのではないでしょうか。 そして、私たち現代人が誤解してはならないのは、「礼儀」と「行儀」を混同してはならないということです。 温情味が充分に養われておれば、人間が少しくらい行儀が悪くても構いません。品位さえ備わっていれば、多少の無作法は許されるものです。瑣末(さまつ)な料理のマナー違反を咎(とが)めだてしたり、あるいは将来有為な人の行儀云々を指摘して、その人物の評価を惜しむなら、これこそ無視してもよい、重箱の底をつつくお節介(せっかい)といえましょう。 その意味において、ある意味で男というものは、多少行儀が悪くても構わないのではないでしょうか。また、些(いささ)かの行儀の悪さも、あるいは豪語の節も、一切許されないというのならば、此処に身をおくことは男子一生の仕事を成し遂(と)げる場ではないといえましょう。 ところが、礼儀となると話が違います。 弱肉強食論者の勝者が、英雄視される原因の一つには、昨今の武道界や格闘技界が、観客を意識した一般スポーツ界や芸能界と地続きになっている為だと思われます。タレント紛(まが)いの武道選手も少なくなく、芸能人のように扱われ、それにちやほやと有頂天に舞い上がる選手も少なくないようです。 それは勝負の判定が分かり辛い、観客素人の意識が反映されているからに他なりません。芝居の如き、ショーになりつつあるのです。それがまた、「勝てばよい」という人格や品格不在の現実を招いたと言えます。
●人は何の為に修行するのか 武儀を修得する根本には、死生観を超越すると言う大きな課題が横たわっています。 つまり、武道を通じて世の中に何らかの形で貢献し、社会的な意義を見つけ出すと言うものではありません。趣味の範囲、愛好の範囲に止まっているだけなのです。 今、こうした人を「体育」と言う名目で、青少年に武道を奨励している動きがあります。ところが、このレベルの人間を、その意識しかないレベルで、大量に育ててみても、社会や個人にとって、一体これな何になるのでしょうか。 また、金メダルを貰(もら)う選手を殖(ふ)やす事が、国益と、どう繋(つな)がるのでしょうか。更には、金メダル選手を殖やす事が、日本国を豊かにすると考えている、日本の知識人が本当に居(い)るのでしょうか。 自称武道家と称する人が、様々な犯罪に絡んでいるのは周知の通りです。礼儀正しいと言う仮面を被りながらも、その陰では詐欺を働き、集団で騙(だま)して婦女暴行をし、師弟関係にあって不倫を働き、金品によって誘惑され、美食を好み、恐喝(きょうかつ)をやると言った輩(やから)が、「青少年の健全育成」とか、「社会教育の参加」などと唱えて、父母から「先生」と呼ばれ、子供の親や、青少年を騙しているのは、何ともお粗末な限りです。 そして、「青少年の健全育成」とか、「社会教育の参加」などと唱えていますが、これは一体何を意味するのでしょうか。 ある武道団体の、成人にも満たない少年たち数人が、歩きながら銜(くわ)えタバコで傲慢(ごうまん)に街の中を闊歩(かっぽ)していましたが、一体このモラルは何処から派生したのでしょうか。 こうした現世に繰り広げられている武道愛好者や、自称武道家たちの意識の中には、本当の意味での「武の道」というものを全く理解していないように窺(うかが)えます。 その根本には、「死生観を超越する」と言う本当の目的が横たわっているのです。 その荒くれ武者が、穏和で一見気の弱そうに見える卜伝に、絡み始めました。そして遂には「お前と試合がしたい」などと言い始める始末でした。 卜伝は船頭に命じて、中洲に舟を着けさせるよう話をし、舟は愈々(いよいよ)中州に近付きます。舟が中州に近付くか、着かないかのうちの、殺気に逸(はや)る荒武者は、舟からひらりと飛び降ります。卜伝を見据えて、「さあ、来い」と言わんばかりです。 卜伝はすかさず船頭から舟竿(ふなざお)を借りて、舟を中州から離れた沖に出します。これを知った荒武者は、そこで地団駄を踏みますが、既に後の祭りです。口惜しがる荒武者を中州に置き去りにしたのです。これは卜伝の有名な、「無手勝流」という話です。「心法」を会得している人の、修行の賜物(たまもの)でした。 また、卜伝は自分の高弟が、無意識に荒馬の後ろを通って、あやうく馬に蹴られそうになりました。この時、卜伝はツバメのように身を翻(ひるがえ)し、高弟を抱えるようにして、あわやというこの難事を避け、周りで見ている人を感動させました。
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