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志高く、より良く生きるために
入門に際し、謝儀を包む熨斗包(のしつつみ)の色々。

■ 入門を許させたら読むページ ■
(にゅうもんをゆるされたらよむぺーじ)

●道を教わる「謝儀」としての考え方

 まず、入門を許された場合、第一番目に行わねばならない手続きは、「入門金」ならびに、第一ヶ月目の「月謝」を納めることである。そして、次回からの月謝は、毎月月初め、5日までを目安に、封筒に入れて、感謝の意を込め、師に差し出すのが求道者(ぐどうしゃ)の常識であろう。

 なお、差し出し方については各道場で、それぞれの違いもあり、熨斗袋(のしぶくろ)や封筒に謝儀を入れて渡すところ、あるいは銀行振込や郵便自動引落などのシステムを採用しているところがあり、その道場に所属する門人は、それに従うべきである。

 なお、「月謝を払う」という行為は、その人の「人格と品位の確認」であるとともに、「自らの身分の確認」の為である。これを怠るということは、自らの人格を否定し、あるいは自らの身分を否定していることになる。

 武術集団あるいは武道集団というものは、一般道場の場合でも、「道を掲げて鍛錬活動」をする集団であるから、そもそも、この行為事態が、営利目的を目指す商行為とは根本的に異なっている。謝儀とは、商行為のそれではない。経済効果の対価でない。

 企業や商店は、その目的が商行為であり、最初から利潤追求を掲げている。したがって、顧客はあくまでも顧客であり、企業主や商店主が顧客に対する接し方は、あくまでも顧客以外の何ものでもなく、顧客は何処までも顧客として扱われる。
 つまり、「お客様は神様です」という、顧客に対する接し方が、経済基盤と、自社や自店の繁栄を目指した商い行為に一貫されているということである。

 ところが道場は、自主独立の気概を持ち、「道」を標榜(ひょうぼう)して、これを大旆(たいはい)とし、師弟関係を築いていくのであるから、道場生は一般商店などの顧客と異なり、道場生が顧客と異なることは明白であろう。

 したがって、道場運営を健全に維持する為には、それなりの経済基盤が必要なのであるが、西郷派大東流合気武術の運営は、これを政財界の有志に求めないというのが、わが流の一貫した考えである。

 武術は元々、自立独立・自主独歩の気概を尊ぶ求道者(くどうしゃ)「道」である。つまり、「自前の足」で立つという事である。
 だから財政面の援助を政財界に求めず、自力で活動を展開するというのが、「奉仕」の真の姿であるし、これは「武の道」に邁進(まいしん)する者の、極めて健全な姿ではないかと思う次第である。

 さて「武術家とは何か」と問われれば、わが流では、直ぐに「奉仕者である」と答えるようにしている。

 したがってこうした奉仕者が、政財界人に援助を求め、政治家の為の売名行為の手下として走狗した場合、言行不一致の謗(そし)りを受ける事は必定だ。しかし、世間にはこうした武道団体やスポーツ団体が多いようである。

 西郷派大東流合気武術は、政治家や財界人を人脈目当て、金金銭目当てに、「名誉総裁」にしたり、「最高顧問」にするなどの、武術の「武」の字も知らないド素人に、こうした職は与えていない。金銭の無心と、御機嫌伺いとして、太鼓持ちに成り下がる気持ちは全く無い。これがわが流の基本理念である。

 西郷派大東流は、自立独立・自主独歩の気概を尊ぶ求道者の武士道集団であるので、他者の負担になって、「他人に借りを作る」ことはあってはならないと考える。
 武術の実践者は、「道を求める求道者(ぐどうしゃ)」であり、企業の寄生する総会屋や暴力団の類とは根本的に異なるのである。
 他人に借りを作らないという心構えも、武術家としては、大切な心構えの一つだ。

 したがって人の世話をする事はあっても、なるべく他人の世話にならないように心掛けることが大事ではないかと思う。
 そうした武術家の特異な思想を以て、活動を展開するのであるから、その運営の維持の源泉は、門人が毎月支払う、謝儀としての月謝に委(ゆだ)ねられる。これを「自前主義」というのだ。

 そして月謝の納入については、幾ら納入すればすむのか、あるいは月謝を払うと、どういう特典が与えられるのかというような、対価的な考えはもっての他だと思う。

 むしろ考えねばならないことは、修行者が自分の通う道場に対して、どういう協力し、援助し、負担すべきかという事を模索するようでありたい。
 それが人格というべき、独立した一人前の「おとな」という態度であるまいか。

 道場における月謝の徴収とは、商行為としての徴収ではなく、自らが感謝の気持ちで自発的に差し出すものである。
 これを商行為と捉えれば、人格ならびに霊格ともランクの低い、幼児社会の有相無相と、種が一緒になってしまうのである。

 お家の事情はそれぞれの団体によって異なろうが、中には会費や月謝の類(たぐい)を要求しなかったり、講道館柔道のように、年間会費が、「たったの三千円」というスポーツ武道団体もあるようだ。
 しかしそいう、一年間に「たった三千円」という安い年間会費で、あれだけの巨大な組織を動かし、世界規模で国際柔道を維持・運営しているのであるから、当然そこには、収入の源泉が他にあると考えねばならない。背後に巨大な商業スポンサーを持ち、あるいは柔道を放映するなどの放映権があったり、政治的な圧力を懸けて学校教育の正課授業に、国民皆兵式【註】高校体育の授業に「柔道」があるのは、これを雄弁に物語っている)に体育に取り込み、これにより裾野(すその)を広げるという巨大組織が出来上がっている。

 即ち、何処かで、誰かが不足の分を負担しているのであり、これと引き替えに、当然何かが提供される筈(はず)である。果たして、こうしたものに寄りかかった態度が、好ましい姿であるかないか、あるいは正しく青少年健全の育成に貢献しているかどうか、その裏側を考えれば、どこか訝(おか)しなカラクリがあるのはと思うのが当然である。

 また、こうした団体の背後には、興行としてのテレビ局などの放映権も絡んでいるので、そこから多額の放映収入が入ったり、選手のテレビ・コマーシャル出演で、出演料が入手出来るようになっていて、背後に強大な政治力があることも否定できない。
 そしてこうした巨大組織は、資金力も政治力も大きいから、組織の選手は次から次へと湧いて出て、怪我や負傷などで役に立たなくなれば、直ぐに捨てられれてしまい、消耗品として使い捨てされている現実を知らねばならない。一番得をしているのは、試合に全く参加しない連盟組織の幹部であることは、誰の目から見ても一目瞭然(いちもくりょうぜん)の筈(はず)だ。

 こうした裏を察すれば、柔道を、知育のそれに対峙(たいじ)させ、学校教育の中に持ち込み、これを生徒に強要して「体育」とした嘉納治五郎の考え方が、政治力と無関係であったかどうか、実に疑わしい限りになってくるのである。
 ある意味で柔道連盟が、教育団体を自称する日教組と、五十歩百歩の団体である事は明白であり、教育を喰(く)い物にした組織である事は、否めない観(かん)があるが、諸氏はどうお考えだろうか。
 その点においては、剣道を高等学校の体育課目に指定している日本剣道連盟も然(しか)りである。武術の実践者は政治家の集団ではなく、「道の求道者」だったのではあるまいか。

 故に、入門時の謝儀としての考え方は、「謝礼は商いの対価でない」という、師弟関係の中から生まれるものである。
 わが流では、入門が許され、その道場生としての第一日は、まず、威儀を正し、謝意を表す気持ちをもって、そこの道場の館長、道場長、支部長の肩書きを持つ指導責任者に対し、自分の置かれた立場を理解する意味で、平身低頭して謝儀とともに入門を許されたことの感謝の意を表すことを指導している。

 一般の個人道場でも、月謝や会費の納入は月謝袋が用意されているものであるが、わが流では入門だ許された第一日目は、熨斗袋(のしぶくろ)に水引を掛け、衣服を改めて両手を用いて差し出す作法を遵守している。そして、これはあくまでも商行為のそれでないことを念頭に覚えておく必要がある。

 したがって、月謝袋に領収印を押すこともないし、領収証の発行もない。本来謝礼というものは、領収印などを請求するべきものでないのである。感謝の意を表すものに、領収書の類を請求するのは筋違いというものであり、これこそ、自分の師匠に対して、非礼になる態度であるからだ。

 わが流は「武の道」を説く、現代に生きる武士道集団である。したがって、「武の道」における謝儀や謝礼というものは、商取引の対価でないということを肝に銘ずるべきである。
 昨今は、アメリカナイズされたものばかりが流行して、日本の良き伝統や、師弟関係のそれを、トレーニングする者と、それを指導するインストラクターとの関係で、ビジネスの一貫として看做している武道団体やスポーツジムが多いようであるが、「道場」とは、「武の道を説く神聖な場所」であり、スポーツジムのそれとは大いに異なっているのである。

 

●入門して三ヶ月未満は初心者である

 人の行動から窺(うかが)われる、その人の人格程度や、品格というものは、三ヶ月もすれば、「その人がどの程度のレベルの人」か、克明になってくる。
 入門を許してもらう為に、入門時の入門審査や面接で、自分を上手に繕(つくろ)っていた者でも、三ヶ月もすれば化けの皮が剥(は)がれてくる。

 自分で、自分は礼儀が正しいと自負していた者でも、それは入門時の一ヶ月未満で表面化し、二ヶ月三ヶ月と経つと、やがて正体を現してくる。入門時、うまいことを言って入門を許してもらった者でも、自分のカラーが出てきて、表面だけは周囲と並行する形をとっていても、その心底は独自の頑迷なカラーを持ち、「これは認めるが、あれは認めない」という、独断と偏見で物事を考えてしまう者が居る。

 こうした者は得(え)てして、技術的な上達が臨めないし、また、人間的な進歩も、その後に至って、認められないのである。
 こうした者は、特に他武道や他流から移籍してきた者が多く、独自の独断と偏見によって、いま自分が所属している道場を甘く見てしまう態度に出るようだ。こうした態度では、その後の上達や進歩はないであろう。

 そして、この種の人間が、三ヶ月もすれば、「何だ、あいつはあの程度のレベルの人間だったのか」と指導者側を失望させるのである。こうした失望をさせる人間には、圧倒的に、元○○道何段という連中に多く見られ、また、何処かで武道やスポーツ格闘技をかじってきたものに多く見られる。
 彼等は「郷に入っては郷に従え」という、単純明快な行為が理解できず、これまでの毒された固定観念と先入観で汚染されているのである。

 わが流では「忘れる」ことの重要性を説き、心をリセットする「忘術」を説いている。

 これは、あらゆる色が塗りたくられて、汚れた画用紙の上に幾ら絵を描いても、それが絵としての体裁(ていさい)を整えないのと同じことである。自分の描く絵に明確性を持たせないのであれば、一旦汚れてしまった画用紙を白紙に戻さなければならないからである。

 入門してからの三ヶ月という期間は、これまでの汚れた画用紙を、如何にして白紙に戻すかの予備入門期間であり、この期間にこれが出来ない者は、その後の進歩は殆どありえないといってよいだろう。

 そしてこの期間、自分の道を邁進する上で必要な武術具は、一切「自前で揃える」と言う、「自前主義」を徹底しなければならない。これが「自前自立」であり、自分の脚で立てない者は、その後の修行に「道」を見失うであろう。

 道場によっては、入門を許された当初、自分が所持していない武術具は貸し出すことがある。例えば、それが道衣であったり、木刀であったり、腕節棍(わんせつこん)であったりする。また、杖や棒、小太刀用木刀や馬術具(馬術用プロテクト胴、頭部を防禦(ぼうぎょ)する陣笠、乗馬用襠高袴、鞭、毛沓(げぐつ)など)、その他の武術具であったりする。
 しかし、こうした物は、やはり「道」を目指して邁進(まいしん)するのであるから、一度や二度は借りたとしても、その後直ぐに自前で揃えるべきであり、「他人に借りを作らない前向きな人生の歩み方」が必要であろう。

 自分の脚で立つことが出来ず、他人の世話になっているというのは、人間として正常な状態ではなく、「他人に借りを作る元凶」となるのである。こうしたことも肝に銘じておくべきである。人生において、借金や大ローンなどをして、「躓(つまず)く人」は、他人から物を借りて、これを甘く見下す人なのである。

 

●礼儀を忘れてしまった現代人

 昨今は、礼儀を知る現代人は殆どいなくなった。そして「礼儀」を、ただの「お辞儀」と考え違いしたり、また、自流ではその門人が礼儀正しいと自負している道場でも、多くの場合は、その集団でしか通じないような恣意的(しいてき)な習慣を、礼儀と勘違いしているところが非常に多いようだ。

 また、礼儀といっても、実体はその集団の規律であり、規則であり、多くの場合、個人の行動を規制し、制限することに縛り付けるようなものが、偏(ひとえ)に礼儀と思っている道場関係者が多いようである。そして、昨今急増したのが、武術という日本古来の伝統を排し、技術面だけを取り上げて、礼儀の部分を排除し、スポーツとしての武道を目指す団体や組織が増えてきたということである。

 こうした団体や組織は、礼儀面は排除し、また、求道者という、武人を一修行者と見る考え方も除外して、価値観を、ただ強ければよい、優勝できる選手に育てばよいといった、勝負にこだわる団体が増えたことである。「道」への精進(しょうじん)は、二の次になってしまっていることである。

 これでは、横柄(おうへい)で傲慢(ごうまん)な、驕(おご)り高ぶる、有頂天に舞い上がる勝者は作れるかも知れないが、真の道を求め、心を探求する人格者は育たないだろう。そうした有頂天に舞い上がる、芸能人紛(まが)いのタレント選手が増えていることは、何とも残念な限りである。

 

●昇級・昇段の礼について

 入門して、技術的にも上達し、また求道者としてその態度に進歩が見られた場合、師匠は自らの弟子に、昇級を促(うなが)し、あるいは数年単位で稽古に励んだ者には昇段を促すようにしている。

 求道者が昇級を許され、あるいは昇段を許されるというのは、道に邁進(まいしん)している証(あかし)であり、また、自分の人格が入門前にも況(ま)して、進化していることの現れである。また、師への恩返しの意味も込められている。

 一方、こうした昇段や昇級を一切否定して、「自分は白帯でもいい」という者が居る。理由は、昇段・昇級するには、何某かの金銭が懸(か)かるからだ。自分が金を払うことと、「昇級昇段が、金銭で売買されているのでは?」と疑いを抱いているからだ。
 こうした考え方をしている者は、自分の進歩をも否定していることになる。そして、この「否定」に気付かない。気付かないままでも、自分は進化し続けていると思っているのである。大きな錯覚である。

 稽古事に関して、級位や段位の否定は、同時に、自分は武技的にも進歩し、その裡側(うちがわ)から徐々に変わってきて、進化していると感得するものである。自分に品位が備わってきたことを感ずるものである。
 ところが、五年、十年と遣っていて、それでも白帯で構わない。昇級や昇段をすれば無駄金が懸かると思っている者が居る。これは愚かしいばかりでなく、自分が駄目人間で、退化している人種だと、自分で気付かないままに自己宣伝しているようなものだ。

 さて、師匠は、自分の弟子が日増しに上達し、人格とともに技量が進化していくさまは、何とも喜びに堪えないものである。この喜びに対し、弟子はこれに答える必要があろう。
 そして、昇級し、更には昇段することの趣旨は、今までに世話になった師のみならず、先輩やその他の世話になって人への恩返しである。

 こうした恩返しに対し、古人は師匠筋や先輩筋、あるいは同僚や世話になった人を招いて、一席設けたものである。【註】かつて直心影流の達人・榊原鍵吉(さかきばら‐けんきち)は、同流の免許皆伝を得たとき、あまりに貧しさの為に、自分で一席を設けることが出来ず、自分の師匠からこの席を開いてもらったという話がある。それだけ同僚や世話になった人への挨拶は大事だった)
 今日では、こうした古法通りの謝礼を行う風習は殆ど廃(すた)れたが、それでも、せめて口頭による「挨拶をする」くらいは、最低限度の心得として覚えておくべきであろう。

 また、青少年の場合、その保護者あるいは養育者は、自分の子供が昇級し、あるいは昇段した場合、家庭内で家族揃って、祝膳を設けるくらいの「祝い事」は行うべきであろう。かつての武家の家では、家族全員が祝う、こうした良き風習があったのである。

 

●年賀・中元・歳暮のあいさつ

 日本には年賀の挨拶、中元の挨拶、歳暮の挨拶という「三つの挨拶」があった。道を学ぶ者の当然の行為とされた。
 ところが、こうした行為は、主に運命共同体の一翼を担う会社関係者だけに広く普及し、稽古筋や道場筋の関係者には、省略されてしまい、今では見下されている実情が多いようである。

 では、運命共同体である上司らの会社関係者ばかりに、年賀・中元・歳暮の挨拶が集中するのであろうか。
 それは上司に目をかけられ、出世街道を歩み、末永く自分が「職」を失わずに済む為に、これに限りないエネルギーを注ぐようだ。あるいはお得意先へのご機嫌伺いもあろう。つまり、資本主義の世界は、一方において処世術の世界であり、処世術が下手であれば、生き残れないからである。その意味で、資本主義経済の下では、「ご機嫌伺い」が大事なのである。

 何故ならば、「職」は「食」に繋(つな)がるものであり、普通、「職」を失うことは「食」を失うことに直結しているからだ。その為に、「食」を失うことが心配で、また、家族にも食わすことが出来ずに、路頭に迷わせることにもなり、そこに姑息(こそく)な年賀・中元・歳暮の挨拶が盛り込まれているのである。資本主義経済下では、「職」と「食」がイコールなのだ。

 しかし、「道を教わる挨拶」と、「職を失わずに済む挨拶」とでは、自ずとその性格が違うことは明白であろう。
 「食」を失うことが心配で、あるいは上司への心象(しんしょう)を悪くして、リストラされることが心配で、年賀・中元・歳暮の挨拶に精を出しているのなら、その人はそれだけで「みっともない」行為をしているということになる。

 ところが、この「みっともない」という行為を、「道を教わる挨拶」と混同されては、師匠筋は大いに迷惑である。稽古事は処世術を学ぶ為のものでないからだ。
 また、月謝を払っているのだから、そんなものは必要ないと考える人が少なくないようである。しかし、この考え方こそ、「道を教える」稽古筋のものを、商行為の同等の対価として考える考え方である。まさに礼儀を失った考え方である。

 もし、稽古筋の「三つの挨拶」を否定するのなら、会社組織における運命共同体の年賀・中元・歳暮の挨拶も、自らの人生の生き方の表示として徹底的に否定しなければならない。職を失うことを懼(おそ)れてはならない。家族を路頭に迷わせても、平気で居るようでなければならない。男が正しいと信ずる人生を歩いているのなら、その人生で、家族を路頭に迷わせても悔いはない筈(はず)だ。

 また、職を失い、食えずに飢え死に出来れば、それで本望ではないか。男冥利(おとこみょうり)に尽きるというものである。稽古筋の「三つの挨拶」を否定するのなら、職の世界でも、「三つの挨拶」を否定して、見事に飢えて死ぬべきである。

 さて、どういう形で挨拶するにしろ、団体や組織の規模にもよるが、本来武門の考え方は、こうした「三つの挨拶」を省略するべきでないと考えてきた。一種の護身法であり、他人との摩擦を避ける意味が含まれていた。人間の行いは口先ばかりでなく、態度に示されて明確になる。態度に表し、行動に示してこそ、「男の言葉」は生きてくる。

 わが流も、武士道を実践しているのであるから、武門の考えい方に準ずる次第である。そして、「三つの挨拶」が出来ない者は、武士道を語る資格がないと思っている。また、「道を請う」必要もない。

 武術のそれは、「道」を教わり、「人格」を磨くという点に、その焦点が当てられているからだ。
 ところが、年間を通じて、教導を受けていながら、年頭の年賀の挨拶、中元の挨拶、歳暮の挨拶の「三つの挨拶」ができないようでは、それは本当の師弟関係といえないからである。単に、知人の関係である。

 これが、スポーツジムやフィットネスクラブに通い、ビジネスの対価として、会費を払い、トレーニングする者と、それを指導するインストラクターとの関係であれば、師弟関係も成り立たず、また、顧客意識や友達付き合いでも構わないであろうが、いやしくも武術・武道という、「道」を主柱にした、師とその門人という関係においては、これを日本の悪い風習とか、悪しき恒例行事などと見下したり、自分とは無関係などと豪語して、「三つの挨拶」を省略すべきでない。

 当然これは、師匠側から「挨拶」を要求すべきものでないであろうが、もともと稽古事や修行時における態度や身の処し方が「不文律」である為、これが出来ないということは、自らが修行者として、自らの身分を否定し、自らの人格や品位を否定していることになる。そして、そこには「自分はこの程度の品位しか持ち合わせません」と白状しているようなものである。

 現代人は「不文律」を理解できないものが多くなった。欧米風処世術で割り切り、稽古事の世界や修行の世界にもビジネスという金銭至上主義で考える考え方を「合理主義」と風評する考え方が生まれた。
 しかし、これには「技術的な向上」は臨めても、人格を磨き、品格を高める「道」としての愚動的修行は叶えられないだろう。

 つまり、師を見下し、あるいは師への挨拶を省略するというのは、それ事態が、自分の信ずる道を見下し、自分の信念を否定することにもなるからだ。また、「不言実行」が態度に表れてないからだ。武術修行には、無言のままの「不文律」があり、これは修行者として当然の行為であったのである。

 昨今は、矛盾することを平気で行う人が随分と多くなった。総(すべ)て利害関係で割り切り、金銭的な領域面で人と付き合い、その背後には損得勘定のみが働く、処世術に振り回される実情が多く見られるようになった。そして現代こそ、「金の切れ目が縁の切れ目」と言わんばかりの、拝金主義や金銭至上主義に振り回される世の中になっている。
 人と人の繋(つな)がりも、金銭という表面的な、うすっぺらなものになってしまっている。こうした世の中に、果たして「品位」は感じられるだろうか。

 他人は「自分の鏡」という。他人を卑下(ひげ)し、見下すことは自分を卑下し、見下すことなのである。しかし、これに気付く現代人は少ない。況(ま)して、「道を教わる自分の師」に対し、何一つ挨拶できないようでは、それだけで求道者としての資格を失っているといえよう。

 技術的に進歩がイマイチであったり、職場での上司や同僚との人間関係がうまくいかなかったり、あるいは自分の経営する会社や商店がイマイチ繁盛しなかったり、学業が成績不振であったりするのは、単に周囲が悪いのではなく、自分自身に問題があるのである。礼儀に欠いている事を、まず第一に疑わなければならない。

 もし、武術や武道を遣(や)っていて、こうした実情が自分の身の回りに起り始めているとしたら、それは、自分の信ずる道を蔑(ないがし)ろにし、それを否定し、「道を教わる師に対し、非礼を働いている」こと顕(あらわ)れなのだ。つまり、何処かで、知らないうちに「礼儀に欠いだ事をしている」ということなのだ。

 この世の中は、人間の持つ想念による、「心像化現象」が働く世界である。「見下した想念」あるいは「信じるものを蔑ろにし、卑下する想念」は、即座に現象として反映されてしまうのである。礼儀や挨拶においても同様であろう。
 周囲の変化だけを訝(おか)しいと思わず、この点をよくよく考え直してもらいたいものである。つまり、総ては「礼儀に回帰する」のである。

 

●師弟の関係の「けじめ」が失われれば、「道」は崩壊する

 武術という稽古事において、師弟関係は重要な接点を持つ「要(かなめ)」であり、この世界では、民主関係もなく、友人関係もなく、ただただ、封建制の「年功序列関係」があるのみである。この関係を見失った場合、此処での「道」は崩壊する。

 師弟関係が「道」という繋(つな)がりで、成立している以上、此処には民主主義も、平等主義も、一切関係がない。特に武術や武道の世界では、「年功序列」が大いに物をいい、これは企業社員や公務員のそれとは違う。

 「年功序列」は、武術の世界においては、いわば「発心順(ほっしんじゅん)ということであり、この発心順は、誰が先輩であり後輩であるか、また、誰が自分の師であるか、それを明確にしたものである。つまり、此処にこそ、「けじめ」というものが存在する。

 しかし昨今は、この「けじめ意識」が薄いようだ。
 例えば、かつて指導を受けた先輩などに対し、先輩と同じ段位になれば、その途端に対等な口を利き始める者が居る。あるいは、自分の自惚(うぬぼ)れや思い上がりから、師のレベルを超えたと自称する者は、師を師と思わなくなり、自分で、師から離れて一派を組織したり、自己流の流派や、他の大きな組織に所属して、かつての自分の師の悪口や誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)する者すらいる。何とも恥ずかしい限りである。

 また、礼儀の感覚も混同が生じて、謝礼と対価の区別が付かなくなったり、師の側からこれらの門人を、逆に、ご招待したり、あるいは門人から師に対し、金一封などという傲慢(ごうまん)な贈り物も公然と行われているようだ。これこそ、「道の崩壊」である。

 武術や武道という、本来は元々厳しい世界のものが、戦後の民主主義の侵入により、対等あるいは平等という意識がはびこれば、それはまさに「道の崩壊」であろう。
 つまり今日、二言目には「民主」「自由」「平等」が、無意識に口から飛び出す時代、民間の生活者レベルの「ギブ・アンド・テイク」の世界が持ち出されれば、武術・武道の世界は、商業主義の俗塵(ぞくじん)に塗れ、やがては崩壊に至るであろう。既に、日本の良き伝をうを崩して、アメリカナイズされたものを尊び、道を崩壊させている団体もある。

 わが流は、この点を厳しく入門者に訴え、自らが道を求める求道者たらんことを促(うなが)しているのである。そして、「公私のけじめ」とともに、「筋目感覚」に混乱なきよう促しているのである。

 現代人の大いに矛盾した「公私混同」は、最近になって更に激しさを増した。その悪しき例が「結婚式」である。万人において、結婚式が公席であることは、百も承知であろう。あるいは「公席」という言葉に、誰も異論はなかろう。

 ところが、新郎新婦が自分の親たちに対し、謝辞を述べ、こうした演出的脚色に乗って、個人的な場に、公を持ち出し、公席でこれを述べるといったセレモニーが最近定着してしまった。愚かなことである。招待者を愚弄する演出であり、公私混同も甚だしい。これこそ、「けじめ」の欠如といえよう。

 何故ならば、結婚式は「公の場」である。この公の場に、結婚する子供側から、親側に対し、謝辞を述べるというのは、何たる公私混同か。
 これは個人の謝辞であり、家で遣(や)るべきもので、公の席でこれを表すのは公私混同である。これこそ、大いなる矛盾である。

 かつて日本人は、公私混同を誤る、こうした愚行に匹敵する過(あやま)ちは殆どなかったといってよい。しかし、そこに利潤追求の商業主義が入り込み、姑息(こそく)な処世術を展開する欧米主義が入り込んだ結果、「公の席」と「個人の場」とが公私混同されてしまった。つまり結婚式で、新郎新婦が親に述べる謝辞は、全くの私事であるにも関わらず、それを混同させて、公の場で遣っているということだ。それだけ、現代人は、物事の道理が分からなくなってきているのである。

 本来、結婚式の新郎新婦の席は、「末席」でなければならない。これは芝居を演じる、舞台が末席であることを示しているからだ。舞台俳優は、末席の舞台に立って、観客に自分の拙い芸を披露するのである。
 結婚式とて同じであり、結婚式の主役は新郎新婦ではなく、新郎新婦の婚姻の為に、多忙の中をわざわざ駆けつけてくれた、主役としての招待者に感謝するものでなければならなかった。それを、金屏風(きんびょうぶ)を背に、主役と考え違いしている実情は、如何なものか。
 これは大いなる勘違いであり、大いなる無作法であろう。招待者を馬鹿にした、愚行なるセレモニーだといえるであろう。

 かつて往時の花嫁も、育ての親に謝辞を述べたが、それはしかし、親の家を出る前に述べるべきもので、結婚式の「公の場」でこれを述べるべきものでなかった。
 ところが、昨今の公私混同の甚だしい結婚式では、招待客の面前でこれを平然とやってのけるのである。何と愚かな、そして、公私混同の甚(はなは)だしいことか。

 こうした側面にも「道」が滅ぶ暗示がある。現代人は、それほど矛盾が多く、学歴のある者や、有識者でも、こうした公私混同を甚だしくし、この矛盾に気付かず、愚行を犯しているという側面があるようだ。

 

●退会願の出し方

 入門して直ぐに、なぜ「退会の仕方」などという話を持ち出すのを、不思議に思う読者諸氏も多いだろう。
 しかし、わが流は巡り逢いの、「逢うが別れのはじめなり」という人生教訓に基づき、入門を許された日に「退会の仕方」を、懇々(こんこん)と教えている。

 人の出会いは、「縁」によるものである。「縁」によって生じたものであるならば、当然そこには「縁が切れる」ということも起りうる。

 始める時に縁が生じて師弟関係を結んだのなら、その師弟関係が途絶えたとき、それに「けじめ」をつけることは大事である。
 したがって、「退会」に関しては、「退会願」を提出し、その許可を得なければならない。昨今は、こうした「けじめ」ある意思表示をせずに、無礼にも無言で去って行く者が居るが、これはその人の人格自体が疑われることである。

 つまり、わが流は此処に「美学的基準」を、「けじめ」という意識の中に設けているのである。
 去る者は、初めだけでなく、その終わりにも「去り際(ぎわ)の美学」がなくてはならない。
 そして、その美学こそ、「後足で砂を掛けず」(「泥を掛けず」とも)という、人間が犯してはならない常識的な基準である。

 しかし昨今は、「後足で砂をかけず」の、この常識を持ち合わせないものが非常に多くなった。その多くは、自分が去った後、「その流派の悪口を言う」とか「その道場の悪口を言う」と、こうした後味の悪いことばかりをする者が目に付き、一向に「爽やかな人間」が殆ど居ないことである。美学が欠如した者ばかりを見る思いである。

 散々世話になりながら、悪口をいい、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)することは、人間として恥ずかしいことである。
 少なくとも、武術や武道を志す者は、「恥に敏感になってもらいたい」ものである。そうでなければ、自分の信じたものへの否定に繋(つな)がり、また自身の信条や信念も、実は「偽物であった」ということになる。

 ちなみに退会するに際し、これを書面で出すことを義務付けているが、この場合、わが流では「退会届」とせず、「退会願」とするよう指導している。
 入門する際に、「入門願書」を提出し、「道を学ぶ為」に入門を願い出るのであるから、最初が「願い」であるならば、最後も「願い」でなければならない。たから、退会届ではなく「退会願」なのである。

 「道」には、当然そこに美学がなければならず、美意識が欠如した者は、最初から稽古事などしない方がよいのである。つまり、武術の世界とは、換言すれば美学の世界でもあるのである。そして、そこから漂って来るものは、「美しさ」「清々しさ」なのである。

 その意味で、去る者の後姿には、「美しさ」と「清々しさ」がなくてはならない。況して、去る者が退会した後、自分の所属したかつての流派の誹謗中傷は、まさに「後足で砂を掛ける、極めて見苦しい行為」であり、これを固く慎まなければならない。

 「退会願」の提出の仕方ならびに「休会願」提出は、尚道館HPの「道場憲章」を参照


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