インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> 技法体系 >> サバイバル思想(一) >>
 
誇りの裏付けとなる数々の技法

西郷派大東流の掲げるサバイバル思想の概論
(さいごうはだとうりゅうのかかげるさばいばるしそうのがいねん)

●サバイバル思想について

 生き残りを賭(か)けて、生き残る「術」をサバイバルと言う。この術は生き残る為に、その智慧(ちえ)を知っていたら、絶対に助かると言う「術」である。
 これまで多くの日本人は、水と空気はタダと思って来た。安全と繁栄を当たり前のように考えて来た。そして、その行動の「物指し」は、島国的思考で総
(すべ)てが推(お)し量られてきた。
 また、こうした思考が、日本人を、余りにも不用心にさせた。総ての行動律が、この上に築かれているのである。これは今日に至っても、殆ど変わっていない。

 日本は世界の中でも秩序がよく、本当に安全であると、今でもそう思って居る人は少なくない。夜、コンビニなどの買物に出ても、襲われる確率は低く、例えば婦女子が深夜コンビニなどに徒歩で、歩いて向かっても、その治安のよさは世界有数であろう。
 こうした深夜ストアーには、必要最低限度の商品が山積みされ、いつでも新鮮な、真新しい商品が、金さえ出せば、好きなだけ買う事が出来る。そして、こうした治安のよさは、日本人に当たり前だと言う考え方を植え付けた。

 また、こうした考え方は、総ての分野に及んでいる。そしてこれが、日本人の考え方の「物指し」になっている。
 この「物指し」は、多くの日本人が生まれながらに享受(きょうじゅ)して来たものである。だから、「自分は犯罪とは無縁だ」という考えが、根強く蔓延
(はびこ)ってしまった。この為、サバイバルに関しての思想が大きく抜け落ちているのである。
 したがって、その智慧すらも念頭にないのである。常に自分と犯罪は、無縁であると極め込んでいる人が少なくない。しかし一方、日本各地で起る凶悪犯罪の多くは、こうした心の隙
(すき)を窺(うかが)っての兇行(きょうこう)に及んだものであった。

 また、この「犯罪には無縁」という思考は、現代武道や、古典的な古武道の世界にまでも及んでいる。こうした武道界にも、「護身」という定義が各々に異なっている。
 一般に武術や武道と言えば、単に強弱を競って試合をし、一対一で格闘し、それが武術の世界、武道の世界と思っている。その為に、「武」の根底に流れる「護身」の定義を見失ってしまった。
 また、スポーツ的に格闘する現代武道は、各種門ごとに専門種目とルールを設け、護身には非常に有効な「眼潰し」や「顔面打ち」、「金的蹴り」や「掌底による鼻腔骨打ち」などを禁止している。そして護身には非常に有効な技を、「危険」という理由から、総て排除してしまった。

 そして武道界における「護身」の定義は、その根本が型の繰り返しに終わり、ただ不法な暴力を形式的に、我が身を護るというだけの範疇(はんちゅう)に止まっている。
 隨
(したが)って、「生命の安全」は第二次的なものに置かれている。
 これは「護身」という考え方の、一種の狭義的な思考と言えよう。

 「護身」という武術的思想は、単に不正な暴力、理不尽な暴力に、ただ立ち向かい、それを制するだけの事ではない。況(ま)して、型の繰り返し練習が決定するものでもない。
 しかし、骨董品的な思考で、江戸末期に行われていた古典的な技術のみが伝承される実情も、その側面にはある。ただ、約束として、襲い掛かる敵を投げ、抑え込むと言う「型」的なテクニックでは、現代の凶暴な兇行を制する事は出来なくなって来た。現代の暴力に対抗しようとすれば、そこには大きな無理を観
(かん)じざるを得ない。江戸時代の伝承的な行動原理は、現代社会には、殆ど通用しないのである。

 古武道の、「型」での演武などを見てみると、現代暴力には殆ど役には立たない骨董品的な技が多い。その名称からして、既に骨董品であり、例えば「兜(かぶと)取り」などの名称が、それである。今日、兜などを被ってアクションを起こす者などいない。また、兜と戦闘用のヘルメットを同じように考えて、これを戦時の防禦(ぼうぎょ)に当てると考える者も居ないだろう。
 それは時代遅れで、現代という時代にそぐわないからだ。ここに骨董品の欠点がある。

 武道界では、「伝統」と「伝承」の言葉の違いを曖昧(あいまい)にして、あるいは混同させ、同じように考えて来た節がある。
 ところが「伝統」と「伝承」は、天地の差ほど、その違いに開きがある。

 そもそも「伝統」というのは、古典的な古人が伝えた技を、現代の社会形態に準ずるように変化させ、時代にマッチして行く事を常に研究し、これを実践して行く事を本分とする、中心的な精神の在(あ)り方を明確にする事を言う。伝統を守る為に、改良に改良が繰り返され、これを次の時代の、後世に伝える事を、伝統の本分とするのである。

 しかし一方「伝承」は、これと対峙(たいじ)し、その思考的隔たりは大きい。
 まず、「改良」を許さない。時代がどのように変わろうと、骨董品的なものを一切取り払わず、頑固に、頑迷に、旧来の古人の伝承を尊重し、改革・改良する事にどこまでも反対する。それは頑
(なたくな)に、頑妄(がんもう)というほどだ。そしてその根底には、旧時代の伝承を再現するといったことが中心になっている。

 「伝承」は、どんなに時代が変わろうと、その時代に順応するものは一切持ち合わせていないし、それを考える事もない。ただ、数分も変わらぬ、骨董品的な古典を演ずるだけである。
 これはある意味で、考え方を取り違えた伝統主義
(traditionalisme)である。まるで十八世紀の、フランスの啓蒙時代に顕(あら)われた、啓蒙に反対し、古典宗教的な考え方を露(あらわ)にして、王党主義あるいはカトリック主義の立場を支持する思考を酷似している。時代の変化を全く相手にしないのである。

 これらの考え方で、古武道を現代に置き換えた場合、改革や改良への反動が、その行動律には「無知」が表面化するのである。現代的な狡猾(こうかつ)に満ちた攻撃方法が、骨董品的な技法を無力化してしまうのである。全く役に立たないものにしてしまうのである。

 古くからあった「為来(しきた)り」や「行動律」は、慣例通り、先例通りに、まるで迷信のように信用すれば、結果的に取り返しのつかない状態になる事が多い。骨董品的習俗は、その枠(わく)から出る事を許さないからだ。枠の中に納まっていなければ、口碑や伝説が歪(ゆが)められると恐れるからだ。狭義の、何ものでもないのである。

 この「狭義」の思考で、護身を考えた場合、結果的には大きな狂いが生ずる。
 現代という時代の、我々の周りには、いろいろな危険が取り巻いている。生命の安全を脅
(おびや)かすものは、単に、「人間の行い」の外的暴力だけではない。人間の行いは、心の内側にも存在し、外に、外的に表現しない言葉や文字の暴力もある。

 世の中が混沌(こんとん)として来ると、白黒の明暗がハッキリしなくなる。人間の狂いが、大自然にもこれが伝搬する。こうした現代人の伝播が、ある意味で大自然を狂わせているとも言える。その最たるものが地球環境の悪化であろう。
 地球温暖化の為に、大自然が人間に齎
(もたら)す災害の規模は年々大きくなっている。大雨による集中豪雨も、また、大型台風や大地震もこうしたものの顕われであろう。
 あるい日、突然地震や事故に襲われるかも知れないし、暴風下を移動するだけでも、そこには様々な危険が起こる確率を大きくする。大災害が襲う事も、予期していなければならない。

 そして、一度危険が発生した場合、それから速やかに、危険を回避しなければならないのである。そうした行動に出るには、直ちに回避できる、然(しか)も、速やかに脱出できる「術」を身に付けておかねばならない。この「術」を会得しておくことは、則(すなわ)ち、我が身の生き残りを賭(か)けて、はじめて命を護り抜くことが可能になる。

 しかし多くの人は、そう考えない。自分は何処に居ても「特別である」と思う。自分自身が術を会得する事は、必要無いと考える。危険な側面には、自分に限って遭遇しないと思うからだ。
 だが、しかし、「自分は事故や災害、不慮の暴力や病気とは無縁だ」と考えた時から、もう既に、悲劇は始まっている。そうした侮
(あなど)りを、天は見逃すはずがない。天命が尽きれば、忽(たちま)ち災いの中に巻き込まれるのが人間である。こうした時に、人の命運は生贄(いけにえ)にされるのである。

 更に、こうした事態に遭遇した場合、現在の現代人の体質はどうか。
 体格ではなく、体質が大事である。不慮の事故に耐えられるのは、体力ではなく体質である。体質の良し悪しで、サバイバルが可能か否かを決定する。
 例えば伝染病が蔓延(まんえん)する危険地帯で生き抜く事も、一種のサバイバルである。どんなに体格・体力が優れていても、伝染病に罹(かか)る事は免れない。こうした時に、伝染病に罹っても、直ぐに自然治癒力(しぜんちゆりょく)が働いて、伝染病を克服するか、否かの決定は、体格・体力が決定するのでなく、「体質」が決定するのである。

 伝染病蔓延地帯でも、直ぐに治るか、病気を引き摺(ず)ったまま死に絶えるかは、体格や体力ではなく、体質である。したがって、現代という時代を生き抜くには、安易な「予防医学」では生き抜く事は出来ない。問題となるのは、病気に罹らない事ではなく、病気に罹っても、直ぐに治ると言う体質を養う事である。
 その為には、摂取する食品の食材が問題になろう。

 人間に躰(からだ)は食によって造られる。したがって病気は、その人が普段何を食べているかと言う事と、密接な関係がある。食肉や乳製品ばかりを食べて居る人は、一見体力がありそうで、持続力がない。体質も酸性に偏り、血液は動蛋白の腐敗物質で汚染されている。腸内にも腐敗物質が停滞している。宿便状態が慢性化している。

 一方、植物性の食品を摂っている人は、植物成分のミネラルを充分に取り込んでいる為、血液はサラサラであり、少食の上、元気である。持続力も、肉常食者とは較べものにならないほど強い。しかし、植物性食品の優秀性は、現代栄養学の似非(えせ)学問により、ねじ曲げられて、高く評価されないばかりか、バランスが悪く危険であると一蹴(いっしゅう)されている。そして現代人は護身は愚か、サバイバルとは程遠い、「現代」という時代の縮図の中に、否応なく巻き込まれて生きている。
 現代は、コンピュータ社会である。この制御下に人は生きている。 何処かに、何か異常が起これば、忽(たちま)ちに混乱を来たすという精密な社会の上に現代人は生きている。

 一方、現代は車社会でもあり、現代人は車によって脚力が弱り、長時間行軍する事ができない躰(からだ)になってしまっている。車を利用すれば、当然の如く、脚力が弱る。
 本来人間は、躰を動かす事により、余分な脂肪や、摂取過剰の栄養過多状態を効率良く消費する事が出来た。ところが、今日の車社会は、人間から一日の運動必要量を奪った。

 ただ喰って美食を貪(むさぼ)り、美酒に酔い痴(し)れ、風俗を追い求め、あるいは職場をセクハラ化し、セックスやその他の快楽に身を委ねると言う者も少なくない。現代社会の抱える問題点の反動から、テクノ・ストレスが重くのし掛かり、頭脳労働者はホモに奔(はし)る傾向も派生する。快楽遊戯が畸形化(きけいか)していると言うのが現代だ。
 ために、日常の運動量は益々少なくなり、これに関連して、生活習慣病が急増している。非日常に耐えられるような、体質の悪さが現代人に襲い掛かる。

 現代人の多くは、体重ばかりを気にするが、実は体重よりも、表面には見えない動蛋白摂取による動脈硬化を最も警戒しなければならない。動脈硬化は、心臓疾患や脳血管疾患の病因となる。しかし、この病気は、無症状の為、自分では気付かない。
 現代人は、職場や地域での健康診断で、早期発見を心掛け、病気を未然に防ぐ努力はしているものの、実は体質が悪い為に、病気を未然に発見し、それを治療しても、中々癒
(なお)らないという状況にある。あまりにも、予防医学に眼を奪われて、肝心な「体質の良さ」という事を見逃して来たのである。

 病気に罹(かか)っても直ぐに癒(なお)らない体質の悪さは、また、精神領域にも及ぼうとしている。現代人は精神的にも弱くなり、きつい事には直ぐに根をあげる。
 精神的な継続は、「生き残る」という事と同義でなければならないが、こうした物質科学万能主義の文明中心社会では、果たしてこれが可能か、疑わしい面を浮上させる、翳
(かげ)りが見え始めている。そして精神病患者の増加が、これを克明に物語っている。

 

●世の中に「保険」という考え方がある

 不慮の事故や病気や怪我に対し、これに備える肉体的生命的補填(ほてん)に、「保険(insurance)」と言う考え方がある。

 かつて太平洋戦争当時には、「戦争保険」なるものがあった。
 戦争において、人の死亡ならびに、火災などの偶発的な事故の発生の蓋然性が統計的方法によって、ある程度まで予知できる場合、その共通の偶発性に対し、脅威を受ける者は、一定の掛金である保険料を支払い、その偶発的な事故に遭遇した時に、その損害は補填
(ほてん)されると言う制度であった。
 また保険は、保険の契約内容に従い、定める種々の保険事故に遭遇し、多大な被害を受けた場合、その損害を填補
(てんぽ)する制度を「保険」という。

 こうした特定の偶発事故によって生ずる生命や、財産などの損害を填補することを約し、その相手方である保険契約者は、一定の保険料を支払うことを約する契約を「保険契約」という。保険は、不慮の事故に対し、備えたものである。

 この保険制度を考えてみると、その最小限度の「生き残り」を賭(か)けての投資と努力は、一人の人間の生涯に何度か襲う、危機を無事に切り抜ける為の、あるいはその「智慧」や「術」を身に付けて、全体の半分以上をマスターし、必要最低限の装備を徹底しておけば、一般に言われる「九死に一生を得る」ことが出来る。そして本来ならば、九分通り、助からない命を、辛うじて助かる“一生”を得る側に立てるのではないか、という憶測が働く。だから、九死に一生を得るのだ。

 だが、保険と言う考え方は、普段の心構えがモノを言う制度である。あるいは普段から、コツコツと積み上げた地道な手堅さや、着実な態度がモノを言う。手堅さや、着実さの背景には、地味な行いが必要とされる。地道さが必要である。しかし、一度でも支払を怠ると、その制度は適用されない。

 これは「備えよ常に」という思想と同じである。
 「備え」を徹底させる為には、「常に」それに対し、怠
(おこた)りなく、無差別に派生する不慮の出来事を想定し、非常時に対して、「備え」を徹底しなければならない。つまりそれは、予測できない不慮の事故に対し、自分自身や家族の為に、事故・怪我・病気・生命の危機に備えるものである。

 人間が棲(す)む地球の事を「現象人間界」という。
 現象人間界では、様々な現象が起り、生と死が隣り合せになって現象が繰り返される世界である。自分自身の心の裡
(うち)に隙(すき)があり、生命保存の本能が働かない場合、それは直ぐに「死」と直結してしまう。現代と言う世の中は、極めて複雑であり、繊細かつ精密であり、高度な生存態度が要求される時代である。

 しかし、その要求に対し、填補(てんぽ)され、不足を埋めてこれを補う事は、極めて困難になって来ている。したがって、現代人が予測する欠損を埋め足し、満足の行く生き残り策は、徐々に減少していると言える。
 だからといって、漠然と運を天に任せ、生き残る事を安易に期待するだけでは、自分の身に降り掛かる火の粉や、不慮の事故を排除する事はできない。

 危険に遭遇した場合の、普段からの無事に切り抜ける手段を講じて居なければならないのである。
 誰もが、運を天に任せ、それで九死に一生を得る「一生」を、運に頼って助かるのなら、人生の構造をあげる必要もないし、また不慮の出来事も、改めてここに触れる必要はない。

 しかし、不慮の、一般に偶発的と言われる「偶然の出来事」は、一度それが発生した場合、古来より言われる通り、十中八九以上の大勢が生存適(かな)わず、死に絶えるが、その死から生還して生き残れるのは、僅かに「一生」としているところに注目したい。
 その確立は、100%のうち、僅かに10%としているところに、注目する価値がある。これは極限状態の中での、生き残る為にはどうすればよいかと言う、課題であると言えよう。

 昨今は、テロの発生により政情不安であり、平和を尊厳する政治は安定せず、現象人間界は常に揺れ動いている。これに合わせたかのように、政情も常に揺れ動く。日本だけではなく、隣国の政情も不安定であり、日本人排撃運動が隣国の人民の心を支配している。一度これに狂いが生じれば、一触即発の状態に陥るのは必定である。

 世の中の不穏(ふおん)な動向は、いつなんどき、刃物をもった精神異常者や性格粗暴者が暴れ廻り、襲い掛かって来るかも知れないし、今日の発達した文化的な現代社会を、根底から覆す、大災害などの天変地異が起こるかも知れない。
 今日のように人倫が乱れ、人々のモラルが乱れ、狂った事を、さも、常識的に繰り返す「現代の世」であれば、予期できない不測の時代は、いつ何が起っても不思議でなく、こうした生命の危機に直面する危険は、益々増え続けていると言えよう。

 また、最近の傾向として、生存本能を満足させる為の、無意識中枢は、現代人には充分に機能していないと言う事が窺(うかが)える。既に、生存本能を満足させる為の、無意識の願望は充(み)たされず、単に徒手空拳だけの手腕では生き抜けない時代になって来ている。

 更に経済的にも、イザと言う時の備蓄のある家庭と、そうでない家庭は天地の差ほど開き、こうした経済格差も如実に顕われ始めている。
 文字通り、人間の「備えよ常に」の「備え」が、単に老後に備えた貯蓄であったり、介護費用であったり、見えない先の「転ばぬ杖」的なものであったりと、無構えに近いもので放置されていると言うのが、現代人の意識に根強く蔓延
(はび)こっている。

 果たして、こうした無防備で、為体(えたい)の知れない脅威に対抗出来るのであろう。
 テロリストに対抗する為には、普段から防禦
(ぼうぎょ)の格闘技術だけを会得するだけでは駄目である。時代の齎(もたら)す政治理念や思想までもを、勉強し、それに対して研究していなければならない。また最悪の場合には、時と場所を問わず、銃弾を浴びせかけ、婦女子を巻き添えにするこれらの脅威は、普段から発見する不審な者への監視と注意が基本となる。隙(すき)を作れない時代ともなったのである。

 ところが、島国日本では、かねてより、他人を詮索(せんさく)したり、他人の行動に無関心で居る事が、一種の美徳にように思われて来た。だが、こうした考え方も、今は廃(すた)れてしまっている。
 一見、情報社会でありながら、為体
(えたい)の知れない不穏な者は放置され、精神異常者や性格粗暴者は野放しになり、また彼等を擁護(ようご)する人権擁護委員会が幅を利かせ、その結果、為体の知れない者が、思い通りに公道を闊歩(かっぽ)すると言う現実を許している

 現代という時代は、何一つ不自由でないように映る。総(すべ)てが自由に活動しているように映る。また、長期の平和が続いた為に、戦争という、僅かの平和と平和の中に居座る脅威の状態を、すっかり忘れてしまっている。
 周囲を見回していても、人々はみな陽気で振る舞っているように見える。恐らく、陽気で気性の良い人々は、全体のうちの過半数は居るであろう。しかし、残りの半分は、何を考え、何を目論んでいるか、全く分からない連中である。この中には、幼い子供をターゲットにした猟奇的な思考の持ち主もいるであろう。

 現代という時代を、細分化して色分けすれば、その過半数が敵であり、また、敵性に属すると言う統計が出て来るのである。これは、風俗や文化が違う外国に限った事ではなく、同じ日本人の同胞の中にも、その過半数は、非常に残念ではあるが、敵であり、敵性に属した人間がいると言う事だ。
 また、こうした連中が、何事かを企て、底辺の微生物的存在の庶民を断崖絶壁に追い詰めるようなことを計画し、爆発物を仕掛けるかも知れないし、銃を発砲させるかも知れないのである。現代という時代は、まさに危険と一枚岩になった時代であると言えよう。


戻る << サバイバル思想(一) >> 次へ
 
Technique
   
    
トップ リンク お問い合わせ