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誇りの裏付けとなる数々の技法

西郷派大東流の掲げるサバイバル思想の概論
(さいごうはだとうりゅうのかかげるさばいばるしそうのがいねん)

●戦場では運が雌雄を決す

 軍隊官僚に観(み)る、こうした暗記力のみを優秀とする者が、戦争を指導したのであるから、勝てる戦争も勝てるわけがない。
 昭和17年6月5日、日本は、海軍を中心にミッドウェー作戦を実行に移した。この作戦は、一握りの作戦参謀達によって立案され、与えられた様々なデータから、あらゆる戦略を試みた。彼等は、海軍大学校を優秀な成績で卒業したエリート中のエリートであった。当時、ここに戦争技術者の最高の頭脳が寄せ集められていた。

 ミッドウェー作戦の当時、当然ながら、彼等の頭脳は結集され、日本の機動部隊空母群は、ミッドウェー島を攻撃しなければならないという予想に基づいて、陸上攻撃用の爆弾を搭載し、発進寸前の状態で待機していた。

 ところが敵の機動部隊が接近中との無電が入り、爆弾を搭載した飛行機は、一斉に魚雷に変更せよという命令が下った。甲板員は気忙しく作業して魚雷に変更したところで、日本の索敵機は敵の機動部隊を見失い、その旨が作戦室に飛び込んできた。
 参謀達はひとひねり考えた挙句(あげく)、再び陸上攻撃用の爆弾に変更するよう南雲忠一
(海軍中将)司令長官に具申する。
 そして再び変更命令が出され、その作業が終わるか終わらないうちに、敵の急降下戦闘機が襲って来た。もう、この時、日本はアメリカに遅れを取っていたのである。武運は尽きていたのである。

 日本機動部隊は、空母「赤城」をはじめとして、空母の甲板上に積まれていた爆弾や魚雷は大爆発を起こし、更に弾薬庫に誘発して辺りは火の海と化した。この作戦に携わった参謀や指揮官達は、何(いず)れも海軍大学を優秀な成績で卒業した戦争の専門家であった。頭脳もずばぬけていた。だからこそ、臨機応変に対処した筈だった。しかし人知を超えたところに、運命の不思議がある。

 ミッドウェー海戦の敗北は、日本始まって以来の大敗で、信じられない程の悲惨な負け戦であった。アメリカ側の情報を軽視し、準備不十分の儘(まま)、連合艦隊司令長官・山本五十六の強引な性格を浮き彫りにした無謀な作戦であった。

ミッドウェー作戦を戦艦「大和」から指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六。
 
 敵を過小評価し、楽観視して、自信過剰に陥っていた海軍部は、日本の歴史始まって以来の、「白村江(はくすきのえ)の戦い」に匹敵する負け戦を経験し、真珠湾攻撃を上回る手痛いしっぺ返しを受けた。この海戦を最初から侮(あなど)り、楽観視して見ていたのは、この作戦の指揮に当った連合艦隊も、海軍軍令部作戦課同様であった。戦う以前から、海軍軍令部では白いテーブルが並べられ、祝杯の用意が整えられていたという。全く馬鹿げた話である。

 この間に、軍令部には南雲機動部隊の悲報が届いた。
 赤城、加賀、蒼龍が被弾を受け、大火災を起したという急報であった。この時点では、飛竜は健在であり、突撃をして「我攻撃成功セリ」の知らせを打電するが、やがて敵の猛爆を受け、「飛竜被爆大火災」を報じて沈没する。

 これら沈んだ四隻の空母は、無敵攻撃空母の異名を取る日本海軍の秘蔵っ子であり、時速30ノットを誇る最新鋭艦であった。真珠湾を皮切りに、太平洋やインド洋を巡航し、日本海軍の積極的な作戦を実行する秘蔵っ子的な存在であったが、これ以降は逆転して、陸海軍ともに消極的な作戦しか立てられなくなって行く。
 この点を考えると、海軍は陸軍に較べて無謀な作戦を展開したというべきであろう。海軍の無謀さが、陸軍までも引き摺
(ず)り込み、陸軍の犯した作戦に較べると、その桁(けた)は遥かに小さい。

 ミッドウェーの敗北や、ガダルカナルやニューギニアの数々の悲劇も、全ては連合艦隊司令長官・山本五十六の責任であり、当時の日本の国力から考えて、勝てた筈の大作戦に敗北したというべきである。

 日本の運命を大きく変えていった大東亜戦争(この戦争をアメリカ側から見た場合、「太平洋戦争」と呼ぶ)の、一つ一つの戦いは敵味方ともに、大きく運に左右された。戦争というものは、ほんの纔(わずか)なことで、どちらかが有利になる。
 喩
(たと)えば、その時刻に雲が出た、風が出た、あるいは命令が一箇所だけ届かなかった等で、それが「上手の手から水が漏れる」式で、勝敗に決定的な差が生じてくるのである。人知を超えたところで運が左右するからだ。
 運は確率から言っても、最初は敵味方双方にも五分五分に働く法則がある。しかし、これで勝利を得る方は、決して体力があり、経済力がある方ばかりとは限らない。

 三年九ヵ月の及ぶ大東亜戦争を論ずる場合、これを無謀な戦争と位置付ける考え方が一般的であるが、元々日本人は小兵力を以て、大敵を敗る事に異常な情熱を傾ける国民である。太平洋を挟んだ大東亜戦争が、日本とアメリカの国力の差を論い、圧倒的大差の敵と戦ったから無謀であったと一概に否定すれば、義経の鵯(ひよどり)越え、正成の千早城、信長の桶狭間(おけはざま)等の戦いから、日清、日露の戦争まで、総て否定されねばならぬ。また朝鮮戦争も、ベトナム戦争も否定されねばならぬ。

 アメリカの強大な国力を思う時、大国に刃向う事は無意味であるから、朝鮮人民も、ベトナム人民も、戦わずして尻尾を巻き、アメリカの軍門に降るべきであったのか?
 そして何故、大東亜戦争だけを、なにゆえ無謀と決め付け、その譏
(そしり)を受けて、日本人はこれ程までに自虐的(じぎゃくてき)な立場に追い込まれ、一億総懺悔(ざんげ)しなければならないのか?

 日本人は、この点に於て、真当(ほんとう)に論ずるべき事を論じていないのではあるまいか。
 そして、大東亜戦争期の悲惨な状況に、生理的な反発だけを強めていても、何一つ教訓を得る事に努力していないのではあるまいか。

 また、日本のマスコミの現状として、真当に何かを論じようとする時、スポーツや芸能の報道に素早くすり替えてしまう場合が多い。どうでもいい事に焦点を当てる。芸能人同士の結婚式の模様を取り上げたり、芸能スキャンダルだったり、勝負の世界で誰が勝ったか、負けたかという事は、結局、野球はどこが勝ったか、大相撲では誰がかったか、サッカーはどのチームが勝ったかという事であり、単に、これらは優勝したスポーツ・タレントを、英雄とする低俗な考えに他ならない。

 恐らくこのような大衆の目を反(そ)らす考え方から、武勇伝は生まれるのであろう。また、ひとたび男子に生まれたなら、これに肖(あやか)りたいと願うのは、また人情であろう。

 だが、多くの武勇伝は、歴史がそうであるように、その中には殺伐(さつばつ)とした、血で血を洗う残忍な、個人戦の域を未(いま)だ出得ない宿業がある。武芸者が武芸を以て武技を競うのは、暴力や弾圧を避ける為の、それではない。最初から、野望と野心を剥(む)き出しにした売名行為であった。だから武芸者は、殺伐とした死闘に明け暮れたわけである。
 しかし、やがて武芸者は、芸者の「芸」を捨て、武芸に生きる道を見出す。則ち、ここでも生き残りを賭けての、一種のサバイバルが展開されたと見るべきである。

 

●政治不在の現実が日本を襲う

 フランス大統領ドゴールは、大統領時代、ヨーロッパの隣国・ドイツに向けて「巨大な経済力は、それ事態が政治的影響力である」と論じた。
 これは一方で、今日の日本にも置き換えられ、日本がどのような世界秩序を目指して行動するか、その動向如何にも係わる言葉として、ドゴール将軍の言葉を引用する事ができる。

 これまでに日本の近代史を紐解(ひもど)いてみると、日本が世界構造と国際秩序に積極的に関与し、働きかけた事は殆どなかった。極東の島国として、独歩の道を選択し、古代から江戸幕末まで、中国大陸を支配した大王朝の文化や東亜の秩序には参加するが、それ以外の西欧の文化は拒絶したままであった。

 歴史を振り返れば、飛鳥時代から明治維新に至るまでの約1300年間、日本は「鎖国」という名目で、国際交流への参加を拒絶し続けた。僅かに交流のあったのは、ただ二回繰り替えした、朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)の於てのみであった。
 そして当時、日本の幸いして居た事は、中国大陸の大王朝が、極東の島国・日本に対し、殆ど関心を示さなかった事である。

 日本が、朝貢貿易を求めた時代は、大半が鎖国時代で、平安末期から鎌倉初期に掛けての頃であり、これが江戸時代まで続いた。その間に例外があったのは、僅か二度の、元(げん)のフビライがマルコポーロの言に唆(そそのか)されて日本に関心をもった時だけであった。
 それは鎌倉期の、1274年
(文永11年)の元軍の、壱岐・対馬を侵し、博多に迫った時の「文永の役」と、それから七年後の1281年(弘安4年)の、再び范文虎(はんぶんこ)らの兵10万が、北部九州を襲った「弘安の役」の時であった。

 しかし、鎖国下の中、近代の日本を震憾(しんかん)させる事態が生じた。それは1853年に突如現われた「黒船」による砲艦外交であった。
 「黒船」の来航は、アメリカが日本に対して開国を迫り、日本の秩序と文化を破壊する事を目的とした。そしてその目的は、日本が鎖国を解き、欧米列強の作った世界秩序に加わる事を強要する事であった。
 日本はこの時、アメリカの強要に屈し、鎖国を解いて開港し、欧米列強が作った近代工業社会の帝国主義的世界秩序の中へ潜り込むのである。

 ところが日本にとって、世界秩序は所与の条件であり、その形成については、何一つ影響力を行使できない状態にあった。
 日本が世界秩序の修正に対し、多少でも関わったのは、ただの一回限りであり、それは昭和初期から約十数年に及ぶ「東亜新秩序」を唱え、「大東亜共栄圏」の建設に動いた時だけであった。これが、アメリカの仕掛けた太平洋戦争において、完膚
(かんぷ)なきまでに叩きのめされ、大敗北を喫したのである。

 そして敗戦後の国際社会の復帰も、アメリカ任せの、予(あらかじ)め出来上がった日本国憲法を受け入れる事になる。その後の、米ソの冷戦構造下にあっても、アメリカ任せであり、アメリカによって作られた西側に連れ込まれただけに過ぎなかった。
 戦後の経済復興も、それから経済大国に伸
(の)し上がって経済的成功を見るのも、アメリカのお膳立を「受身」によって、追随する事により、そうなっただけに過ぎなかった。

 当時の日本は、世界秩序に口出しするどころか、自らの立場を選択することすら出来なかった。総ては受身による国際参加だったのである。ただ日本にとって、好運だったのは、アメリカと言う世界の先進大国が、日本に好ましい方向に導いてくれるだけの事であった。これは実に好運だったわけだ。

 しかし、精神的には、こうした体験は日本人をより一層、世界秩序に対し、受身の態勢をとらせる方向に導いた事であった。つまり、日本人の頭の中には、世界秩序などと言う、大それた問題は、強い国の考える事であり、日本はその傘下に入って、それを旨く利用出来ればいいのだという、思考に帰着しただけの事であった。それは奇(く)しくも、室町初期の考えに戻る事であった。

 そしてこの事は、日本が経済大国になった時点でも変わることはなかった。
 何故ならば、今日の日本には、世界構造や国際秩序について考え、唱え、そのスローガンに従って、動く意欲も、意志も、機構も、また役職すらないからである。
 そして、此処にこそ、政治不在の現実がある。
 だがそれは、日本を狙う国があると想定した場合、日本ほど、襲い易い国は、世界に於て他にはない。恰好の攻撃目標となり易いのである。だがそれを知る有識者は、日本には殆ど居ない。

 

●軍事思想も戦略思想もない日本

 日本と言う国家を正しく機能させる為には、まず、今日のような世界平和が絶対に必要条件となる。極東の島国日本は、アジア大陸と太平洋の間に位置し、世界戦争に対し、非常に巻き込まれ易い地域に位置しているからである。

 その上、日本の国土を考えると、海岸線が非常に長く、その海岸からの縦深(じゅうしん)は浅く、他国からの侵略があれば、容易に上陸を許してしまう。その為に、非常に守り難い地形をしている。
 国土の大半は山岳地帯であり、人口の密集は狭い平野部に集中している。これは何も人口の集中ばかりでなく、都市の機能も、この狭い地形に密集・集中しているのである。
 この為に、こうした平野部に集中した地形では、核攻撃に対して非常に脆弱
(ぜいじゃく)なのである。核攻撃の危機に曝(さら)される実情を考えると、その鉾先は、東京や大阪などの大都会であろう。また、核攻撃に対し、辛うじて生き残った国民も、その後の生活は、非常に困難を要するであろう。

 そして、これこそが、食糧と資源を、外国に依存している日本の偽ざる姿だ。
 恐らく、食糧と資源を運ぶ長いシーレーンの確保は、核攻撃後の日本にとって、至難の業
(わざ)といわねばならない。辛うじて生き残った者も、その後の飢餓(きが)に苦しみながら、やがて弱り果て、命を失うであろう。

 また、日本人というのは、大陸や欧米人に比べて、何よりも軍事的戦略思想に乏しい国民である。「戦争の何たるか」を知らない国民でもあるのだ。
 戦争を知らない子供達は、何も戦後生まれのベビー・ブーマーだけではない。1970年代、反戦を掲げて、日本を革命の坩堝に投じた団塊の世代だけではない。団塊の世代ジュニアが主導権を握る今日、戦争を知らない子供達は、団塊の世代ジュニアも同罪である。

 日本が戦争を放棄しても、世界は日本に戦争を放棄させない実情がある。日本は食糧の輸入を海外の国々に依存しているからだ。したがって、これからも、日本が戦争に巻き込まれないと言う保証はないし、一度こうした惨劇に巻き込まれれば、先の大戦以上に、生地獄を見る事になるであろう。また、辛うじて生き残ったとしても、やがて取り留めた命は、風前の灯火(ともしび)となるであろう。

 日本人は、何よりも異民族戦争の経験が乏しい民族である。これが乏しければ、必然的に軍事思想も、戦略思想も存在しない事になり、根本的な欠陥を持った民族と言うことが言えよう。

 この事実は、先の大戦であった太平洋戦争が示す通りである。軍略的かつ戦術的な思想の欠落は、決して十年や二十年で再生するものではない。長い民族的な戦争観が必要であるからだ。
 歴史が示す通り、日本は幕末期の明治維新を経て、明治を迎え、戊辰戦争
(西暦では1868年で、慶応4年から明治元年の戊辰の年に起った戦争。明治新政府軍と旧幕府側との戦い)や西南戦争を迎え、当時の日本は、外国勢力の仕掛けた、一種の革命戦争に明け暮れた。
 戊辰戦争に勝利した明治新政府は、明治10年
(1877年)に勃発した西南戦争(西郷隆盛らをはじめとする不平士族の反乱)に勝たなければならなかった。そして、辛うじて勝利を保った明治新政府は、次は明治27年から翌年(1894〜95年)の日清戦争を戦う事になる。

 日本と清国との間に行われた日清戦争は、朝鮮の甲午(こうご)農民戦争(東学党の乱)をきっかけに起った戦争だった。
 1894年6月、日本は朝鮮に出兵し、同じく出兵した清軍と7月、豊島沖海戦で戦闘を開始し、同8月2日に宣戦を布告した。日本にとって、この戦争において好運だった事は、本は平壌・黄海・旅順などで勝利し、翌95年4月に講和条約を締結できたことだ。一般には、下関条約の名で知られる。

 下関条約は明治28年4月、清国講和全権大使李鴻章りこうしょう/清末の政治家で、曾国藩に従って太平天国の乱を平定。以来、日清戦争(下関条約)・義和団事件(北京議定書)などの外交に貢献するとともに軍隊の近代化、近代工業の育成、招商局の設立などにつとめた人物。1823〜1901)と日本の全権大使伊藤博文と陸奥宗光(むつむねみつ)が、下関の春帆楼で締結した条約である。条約の内容は、清国は朝鮮の独立を確認し、軍費2億テールを賠償、遼東(りょうとう)半島・台湾・澎湖(ほこう)諸島を割譲、沙市(さし)・重慶(じゅうけい)・蘇州(すしゅう)・杭州(こうしゅう)を交易市場とすることなどだった。

 この条約により、日本は田舎国家から近代国家への道を、西欧列強の真似をしながら帝国主義、植民地主義を大陸に向けて展開して行く事になる。だが、こうした幸運も、長くは続かず、次に帝政ロシアと戦う事になった。日露戦争である。

 日露戦争は、日清戦争の僅か十年後であり、明治37年から翌年(1904〜05年)に掛けてまで行われた。また、この戦争は、満州・朝鮮の制覇を争った戦争であった。
 1904年2月、ロシアと国交断絶。同年8月以降の旅順攻囲、1905年3月の奉天
(ほうてん)大会戦、同年5月の日本海海戦などで、辛うじて勝利を得た。この戦争の背後には、軍資金提供者がいた。軍資金の提供は、国際ユダヤ金融資本の総帥、ロスチャイルド財閥の金庫番から借款提供された事だ。

 この戦争の黒幕は、国際ユダヤ金融資本であった。背後は、黒子の如きシナリオライターが居て、ユダヤ金融資本から仕掛けられ、日本は大国ロシアと戦わねばならなくなった事だ。

高橋是清(日銀総裁や大蔵大臣などを歴任し、2・26事件で暗殺さる)
 
 明治37年2月、日本銀行副総裁だった高橋是清(たかはしこれきよ)は、日露戦争の戦費の調達の為に外債発行をしなければならず、開戦間もない時期に海外へ派遣された。当時の日銀の金庫には、僅か一億円程度の金しかなく、イギリスへ発注した軍艦「三笠」などの購入代金も窮するほど、日本の財政は悪化していた。
 この為、高橋は、ニューヨークに赴き、アメリカで外債募集を始めた。ところが、結果は期待外れのものとなった。既に、根回しされていて、外債は募集不可能な構図が出来上がっていたのである。高橋は途方に暮れる。

 これに落胆した高橋は、あるユダヤ系金融ブローカーに、ロンドンのロスチャイルドに会う事を薦(すす)められる。一縷(いちる)の望みを託して、高橋はロンドンに渡る。ここでも、既に根回しが出来ていたのである。高橋は首尾良く、ロスチャイルドに会う事が出来た。それも、そうである。既に根回しが出来ており、借款のへ手筈が整っていたのである。

 ロスチャイルド卿から、500万ポンドの受諾に成功するのである。しかし、この成功は必然的にそうなるように、最初から仕組まれていたのである。
 アメリカで、高橋にロスチャイルド卿に会うように薦めたのは、ユダヤ系のある金庫番だった。ロスチャイルド卿との会見の席では、更にも、アメリカの財閥クーン・ロエブ商会のヤコブ・シフと同席する事になる。

 歴史は、これは偶然に隣り合わせたと片付けているが、実はこれも偶然を見せ掛けた、必然的な画策があった。そして、これは余りにも良く出来過ぎた偶然であった。
 高橋は、クーン・ロエブ商会のヤコブ・シフからも、500万ポンドの引き受けに成功するのである。

 これが切っ掛けとなり、アメリカでの外債引き受け人気は高まり、日本は合計四度の外債発行で8200万ポンド(当時の金額で4億1000万ドルで、現在の約1兆6000億円)資金調達に成功したのである。
 このうち、ヤコブ・シフが引き受けた外債の割合は、40%の3600万ポンド
(当時の金額で1億8000万ドル)であり、日露戦争における日本の戦費の全体が8億6000万ドル(3兆4000億円)であるから、その引き受け割合は、凡(おおよ)そ21%に達した事になる。

 この時、ヤコブ・シフは日本の外債引き受けに、ロックフェラー系のシンジケートである、ナショナル・シティバンク並びに、モルガン系のナショナル・バンク・オブ・コーマスを引き入れている。

ヤコブ・シフに授与された、勲二等瑞宝章と同等の勲二等旭日重光章。
 
 この時、日本政府は、1905年にヤコブ・シフに勲二等瑞宝章を与え、その協力した事の功績を讃えたのである。また、明治39年には、ヤコブ・シフは夫人を伴って来日し、明治天皇に拝謁(はいえつ)を受けている。そして、この時にも、大蔵大臣から旭日重光章を授与されている。

 日本は、ヤコブ・シフが滞在している一ヵ月半以上の間、最大級の歓迎を行っている。滞在中は明治天皇との午餐会(ごさんかい)、西園寺公望首相との晩餐会、尾崎行雄東京市長との招宴、日本銀行主催の小石川後楽園での園遊会などであり、こうした動きの中で、高橋是清とヤコブ・シフの交友は非常に身密になったのである。
 シフが帰国する時、高橋はシフの娘を引き受け、四年間、自宅に無償で住まわせるなど、親戚同様の付き合いをしたのである。

 1904年4月、ヤコブ・シフはロスチャイルド卿に宛(あ)てて、次ぎのような手紙を認(したた)めた。
 「自分が日本に肩入れしたのは、帝政ロシアによって迫害されたユダヤ人救済の為に、日露戦争によってロシア国内を混乱させ、ロマノフ王朝を打倒し、レーニンのマルクス主義を擁護し、ロシア革命に成功させ、その後、ソビエト政府首班として社会主義建設を樹立する為である」と述べている。

 シフが来日した時、彼は東京から関西、更には朝鮮や大連にも足を延ばしている。また、本当の来日の裏には、シフの極東への進出があり、アメリカの鉄道王ハリマンの主導の許(もと)に、満州での鉄道計画に食指を伸ばす事であった。満州での権益の事を考えての、日露戦争への外債引き受けであったのである。
 しかし当時、ユダヤ系のシフらの画策の魂胆を見ぬく者は、日本では皆無であった。国際ユダヤ金融資本が、世界をリードする為に画策し、ある種の一方的なシナリオによって世界情勢が動かされている事など、気付くものは皆無であったからである。


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